Bayaderka バヤデルカ



 

凍りついたタラップを慎重に踏み、ホームに降りた。

「ふぁきあ!」
「あ・・・」

薄明に踊る粉雪の中で、予期せぬ黄色いコート姿は幻のように見え、瞬間目をしばたたく。だが、白い息を吐きながら走り寄ってくる温かな笑顔は消えはしなかった。

「・・・ひる」
「おかえりなさい!汽車、だいぶ遅れたから、ちゃんと帰ってこれるかなって、心配でドキドキしちゃったよ」
「お前、ずっと待ってたのか?こんな雪の中・・・」
「あー、うん。駅員さんには、駅舎の中で待ったら、って言われたんだけど、なんか落ち着かなくてさ。出たり入ったりしてるうちに、めんどくさくなっちゃった」
「そうじゃなくて、別に駅まで来なくても、家で待ってればいいだろ」

淡い夕焼け色のストール―俺が一昨年の万聖節に買ってやったヤツだ―から飛び出した同系色の跳ね毛から、うっすら積もった雪を払い落とす。

「だって、ちょっとでも早く会いたかったんだもん」
「・・・バカ。どうせ10分もかからないのに」
「もう、いいじゃん!荷物手伝うよ。貸して」
「いい。たいして無いし、それに・・・」

有ったってお前に持たせるわけないだろ。

「あたしがそそっかしいから?」
「・・・今、俺の心読んだか?」
「顔に書いてあったよ」
「ふん・・・まだまだだな」
「?違うの?」

細い首が、きょと、とかしげられ、大きな瞳がまたたく。それだけで胸がざわめく。

「いや。それより手を貸せ」
「手?はい・・・ななな何してんの、ふぁきあ!」
「やっぱり、ずいぶん冷たくなってるじゃないか」
「ちょっと、人前で手に頬ずりするのやめて・・・息吹きかけるのもダメ!」
「何でだ?別にこれぐらい普通だろ」
「う、だ、だって、なんかアヤシゲで・・・」
「ゾクゾクする?」
「バカっ!」

捕まえていた手がさっと引き抜かれ、俺に向かって小さな拳が振り上げられるのを、再び掴んで引き寄せる。

「じゃあ、さっさと帰るぞ」
「あっ、あの、ふぁきあ、その、あたしの両手をそっちのポケットに突っ込まれると、ものすごく歩きにくいんだけど・・・」
「もっとくっついて歩け。そうすれば少しはましだ」
「あ、そう?・・・って、そういう問題じゃないんじゃない?」
「つべこべ言わずに、俺の言うとおりにすればいいんだ」
「はいはい・・・」

昔は、いつも考えが対立して、のべつまくなしに反抗されてるような気がしていたが、本当はそうでもなかったということに、後になって気がついた。実際、こいつが俺に反対するのは、俺の―それから、もちろんみゅうとの―身の安全が関わっている時だけだと言っていい。それ以外は、気の遣い過ぎだと思うくらい、こいつは相手の意思を尊重する。手に馴染んだ華奢なラインを、厚いコートの上からなぞるように抱き寄せた。

「ほら、もっと寄れよ。体も冷えてるだろ」
「あたしはだいじょーぶ。ふぁきあがいるだけで、すごくあったかいよ」

かっと体が火照る。嬉しかったからではなく―いや、もちろん、そんなふうに言われるとメチャメチャに抱きしめてしまいたいくらい嬉しいが―こいつの傍にいるとすぐ熱くなってしまうのを見透かされてるようで・・・それどころか、こいつも熱くなるとほのめかされてるようで、妄想だとわかっていても、体に火がつくのをどうしようもない。羞恥で、よけいに強力な熱源になってしまったことを意識しつつ、痛いほどの冷気を肺に深く送り込んで、口を開いた。

「お前の『だいじょうぶ』は、たいていの人間にとってはちっとも大丈夫じゃない」
「えー?そうかなあ?」

どうやら明白な事実というのは、いつまでたっても本人だけが認識しないらしい。強風が吹き抜ける城壁の外周の道を、ぴったりと隙間なく身を添わせ、小さな顔に吹きかかる雪を腕で避けながら、早足に辿る。ふと、ストールがゆるんで、寒さで薄紅色に上気した耳たぶがのぞいているのに気づき、吸い寄せられそうになるのをぐっと我慢して、柔らかな布地の端を引っ張ってきちんと覆い隠した。

「あ。ありがと」
「いや。ところで学園の方はどうだ?ちゃんと今年卒業できそうなのか?」
「うん、たぶん」
「『たぶん』?」

思わず語尾と眉が吊り上がる。

「あああの、絶対だいじょーぶ!最近はレッスンも授業もぼんやりせずに真面目にやってるし、居残りさせられることも少なくなってきたし、今日だってどーしてもふぁきあを迎えに来たかったから、すごく頑張って、15分しか居残りさせられなかったし」
「俺は居残りをさせられたことなんて・・・」
「ああ、そうそう!それにふぁきあが特別レッスンしてくれるしね!『ふぁきあ先輩にレッスンをつけてもらえるなんて贅沢』って、みんなにうらやましがられちゃって」
「その通りだ。しっかり感謝して、上達に励め」
「・・・ふぁきあ、『謙虚』って言葉知ってる?」
「へえ。お前にしては難しい言葉を知ってるじゃないか」
「あたしは・・・」

憤慨して向き直ろうとするのをぐいと引き戻す。

「とにかく、気を抜かずに、真剣にやれよ。楽しく踊ってるだけじゃ試験は通らないんだからな。お前が留年しそうでも、式は絶対延期しないぞ」
「わかってるよ・・・もう、ふぁきあってば、なんでいっつもそんなに余裕無いかな」
「お前はなんでいつもそんなに余裕があるのか、そっちの方が不思議・・・」
「それよりさ、ふぁきあのバレエ団の次の公演決まった?きっとふぁきあもいろいろ忙しいんだよね?先週、急に帰れなくなったのってそのせい?」

3秒ほど沈黙した。

「・・・役がついた」
「えっ!ウソ!」
「ついてどうする。お前に」
「だだだだってふぁきあ、入団したばっかりだし、それに最初は研修生だって・・・」
「そうだが、なぜかそういうことになったらしい」

引っかかることがあるせいで、我ながら歯切れが悪い。

「そそそそれで?!ふぁきあ、何やるの?演目は何?」
「『ラ・バヤデール』。知ってるか?」
「あ、うん、この間授業で習った。古代インドのお話だよね。神殿の舞姫が恋人の戦士に裏切られて、恋敵に殺されちゃって、最後は神の怒りでみんな死んじゃうっていう・・・ドロッセルマイヤーさんが好きそうなお話」
「・・・まあ、そうとも言えるか」
「お役目大事で融通が利かない騎士が恋人だと、身につまされるよね」

は?

「おい、俺は、たとえみゅうとに命じられても、絶対にお前をあきらめたりは・・・」
「うんうん、それでふぁきあは?何やるの?」

今度は5秒沈黙した。

「・・・マグダヴェヤ」
「って、誰だっけ?」
「修験者の長・・・笑うな!」

手の下でぴくぴくと震える肩をぎゅっと掴む。

「わ、笑ってないよ・・・でも、ねえ、それって・・・」
「なぜその役かなんて、俺が知るか。笑うなって!」

ついに軽やかな笑い声が吹き出した。

「でもさ、キャスティング表を想像するとおかしくって・・・『ファキア(修験者)の長、ふぁきあ』って・・・」
「くそ、だから言いたくなかったんだ。まったく、親にとんでもない名前を付けられたせいで・・・」
「ふぁきあ!」

ふいに硬い口調で呼ばれて見下ろすと、たしなめるような強い眼差しがじいっと見上げてきた。

「わかってる。本気で言ったんじゃない」

穏やかに答えると、ぱっと瞳の色がやわらぎ、いつものように明るくなる。それを見て、不思議な感慨を覚える。・・・こんなにもぴったりと添う、強く、柔らかな奇蹟・・・いつからか、どうしてなのか・・・思いがけなくて、懐かしい・・・ずっと俺の・・・

「ふぁきあって、すごく意味のある名前なんだからね。それにさ、最近のバレエだと、ダンサーの名前を役名にしたりってこともあるみたいだし、それと同じようなもんだと思えばいいんじゃない?」
「・・・ほんとによく勉強してるみたいだな」
「へへ、そう?とにかくがんばってね。きっと、なんか難しい、グラン・ジュテのマネージュとかあるんでしょ?」
「まあな。主要人物じゃないが、狂言回し的な役割だから出番は多いし、動きもかなり激しい。野に暮らす行者らしい、野生的なダイナミックさが求められる」
「ふぁきあはそういうの得意だもんね!きっとそれが認められたんだよ!・・・ああ、ふぁきあのプロ初舞台かぁ・・・楽しみ!」

きらきらと輝く春の空の色の瞳を見ていると、誇らしさと喜びがあらためて込み上げてくる。

「見に来るか?あまりいい席は取れないと思うが、チケット都合するから・・・」
「うん、もちろん、行く行く!わーい、じゃあ今日はお祝いだね!」
「その前に練習だ」
「ぐっ・・・」

つんのめった体をがっしり持ち、足を止めずに前進する。

「でも、ふぁきあ、帰ってきたばっかなんだし・・・」
「俺のことは心配するな。お前となら一日中踊っていてもいい」

そばかすの残る鼻梁のなかば辺りがぱあっと染まる様があんまり可愛すぎて、つい意地悪したくなる。

「まだまだ教えなきゃならないことがあるからな。時間が足りないくらいだ」
「あっ、そう。そりゃあたしだってふぁきあに教えてもらえるのは嬉しいけど、でも・・・」
「お前、今の自分の状況がわかってるか?少しの時間でも無駄にはできないんだぞ。猫先生が言ってただろ、『1日休めば・・・』」
「『自分にわかり、3日休めば周りにわかり、1週間休めば観客にわかる』でしょ。ちゃんと覚えてるよ」
「覚えてても実践しなければ意味がない」
「うん、でも、今日はもう学校でじゅうぶん・・・」
「『でも』は無しだ。お前には確実に卒業できるようになってもらう。俺は、後顧の憂い無く、式に臨みたいからな」
「あたしだって・・・ふぁきあの方は?大丈夫?」
「は?」

急に話が飛んだのはわかったが、どこに飛んだのかは見当もつかない。

「何がだ?」
「あたしと結婚して神様を怒らせるようなことはしてない?」

一瞬、思考が停止した。

「するわけないだろ!!」

怒鳴り声をよけるように、腕の中で小さな体が捩れる。

「もー、ふぁきあってば、そんなに怒らなくてもいいじゃない・・・」
「お前、まさか本気でそんなこと心配してるんじゃないだろうな?」
「ん?べっつにー。ただ、さっきのバレエの話で、ちょっと思いついただけ」
「おい・・・」

勘弁してくれ。

「でもさ、考えてみたら、もっと真剣に心配すべきだったかもね。ふぁきあって、すっっごく怖がられてるわりに、なんでか女の子に人気あるし。まあ、それはいいことなんだけど」
「・・・何が言いたい?」
「それに、このところふぁきあ、なんか変だし」
「変?」
「あ、変なのは最初っからか」
「おい」

何なんだよ、一体。

「だからそうじゃなくて、ええっと、つまりね、最近、てゆーかふぁきあがバレエ団に入った頃から?それともあたしが最高学年に進級したころからかな?なんとなーく、よそよそしくなってない?」
「そ、そんなことないだろ」
「そうかなぁ。だって近頃は二人っきりになると、なんかふぁきあがぎこちないって言うか、引きぎみな気がするんだけど。そのくせ人前ではやけにくっついてくるし」

人目が無かったらブレーキがかからなくなるだろ。

「久しぶりに帰ってきても、ずっと練習ばっかりでさ」

練習中は変な気を起こさずに済むし、万一起こしても深入りできないからな。

「で、疲れちゃって、すぐ寝ちゃうし。前は、もう寝よ、って言ってもなかなか放してくれなかったのに」

くそっ、お前のために我慢してるんだぞ。

「・・・わかった。お前がそう言うなら、もう手加減しない」
「え?ななな何を?」
「どうせ俺が変だって思ってるんだろ?」
「あっ、あの、あたし別にそれが特別イヤってわけじゃ・・・ただ、もしかしたらふぁきあ、前ほど乗り気じゃないのかも、って・・・」
「ふん。そうか」
「ごごごごめん、ふぁきあ!あたし、ふぁきあを怒らせるつもりじゃ・・・あっ、そうだ、初舞台のお祝いに贈り物あげなきゃ!何か欲しいものある?何でもいいよ」

・・・バカ。男の思考回路を知らないのか。

「・・・何でもいいんだな?」
「あたしがあげられるものなら・・・えっ、まま待ってふぁきあ!だから人前で・・・」
「もう家だ。ありがたくもらうぞ・・・あひる」
 
 
 
 
 


 

 目次 Inhaltsverzeichnis