別離 〜Recuerdos de Alhambra〜
 
いつも通りに、朝は来ました。あひるは一晩中赤くなったり青くなったり、一人でジタバタと思い悩んだ挙句、「とにかくいつも通りに振舞おう、うん、そうだよね、そうしよう」という単純な結論に辿り着きました。そうしていつもシディニアでやっていたようにパン屑をもらって邸の中庭に出たあひるは、さっそく目ざとくやってきた小鳥達に囲まれ、その時は他のことを忘れていました。が、しばらくして他の侍女達が少し離れた隙に、あんぬがさっとあひるに顔を寄せて、ひそひそと話しかけました。

「あのう、チュチュ様?昨日の夜、ふぁきあ様の様子が変じゃありませんでした?」

一羽の黄色い小鳥を片手に止まらせたままあひるは固まりました。

「えっ?!へへへ変って、ど、ど、どうして?どんなふうに?」
「たとえばその・・・御機嫌が悪かったとか」
「あっ、そ、そう言われれば、そうだったかも・・・」

小鳥達が気になって仕方ないかのようにあんぬから目をそらし、あひるは曖昧にうつむいて答えました。頭に止まった小鳥に跳ねた前髪をつつかれているのも気づかない様子のあひるを見つめ、あんぬはほんの少しの間ためらっていましたが、やがて決心したように大きくうなずきました。

「申し訳ありません、チュチュ様。実は昨夜のふぁきあ様のお食事に、まりいがちょっとした薬を入れてしまいまして」

思わず振り向いた瞬間、あひるの指からカナリアが飛び立ち、空高く舞い上がりました。あひるはぽかんと口を開け、まじまじとあんぬの顔を見つめました。

「く・・・薬?」
「・・・と言いましても、多少気分が変わるだけのものなんですが」

(なんだ、そっか、そうだよね、いつものふぁきあじゃなかったもん、そうか、薬のせいだったんだ)

ほっとしたような、そうでないような、複雑な表情で黙り込んでしまったあひるを、あんぬが怪訝そうに窺いました。

「チュチュ様?」
「あっ、うん、そう、でも、別に何もなかったし・・・」

あんぬがとても申し訳なさそうなのもあひるとしてはかえって気まずく、さっさとこの話を切り上げようと、あひるは口を開きかけました。その時あんぬがあひるの後方を見て慌てて口を噤み、なんだろうと思ったあひるは振り返って、かっと顔を赤らめました。

「あ・・・」

ふぁきあは珍しく迷いの見える足取りで、けれどあひるから目を逸らすことはなく、ゆっくりと真っ直ぐに近づいてきました。あひるは棒立ちになったまま、手にした皿からパン屑がバラバラとこぼれ落ちているのも気づかず、のぼせた頭で一生懸命考えました。

(あれは全部、薬のせいで、でもそんなことふぁきあに言えないし、それにもしかしたらふぁきあも覚えてないかもしれないし、思い出しても困るだけだし、あたしも忘れちゃった方がいいよね、うん)

無理やり自分を納得させたあひるは、引きつった笑顔を浮かべ、いつも以上に上ずった声で挨拶しました。

「おはよ、ふぁきあ」
 
 
 

「あ・・・あ」

ふぁきあは、あひるに詰られ、撥ねつけられるのを覚悟の上で、あひるに謝りに来たのでした。あの後、ふぁきあは奇跡的に残っていた理性のかけらを総動員して、あひるを追いそうになるのを堪え、中途で断ち切られた欲望を必死でなだめました。そして潮が引くように熱が醒めると、今度は激しい後悔に苛まれたのでした。媚薬を盛られたことなどふぁきあには知る由もなく、ただ自分の弱さに嫌悪と、そして怖れを抱きました。ふぁきあはあひるの前から姿を消すことを決め、それをあひるに告げて、許しを請うつもりでした。

「あひる・・・少し話が・・・」

ちらとあんぬに視線をやり、席を外してくれと促しましたが、あんぬがそれに反応するよりも早く、あひるが勢いよく喋り始めました。

「とうとう今日はお城に着くんだよね。どんなところか楽しみ!やっと王子様にも会えるし、あっ、でも、あたし、王子様に気に入ってもらえるかなぁ?もしかして帰れとか言われちゃったりして、そしたら困るよ、どうしよう・・・」

口を挟む隙もなく一人で喋り続けるあひるを、ふぁきあは眉を寄せて見つめました。

(顔を赤らめて、昨夜のことを忘れてるとは思えないのに・・・何も無かったことにするつもりなのか?)

あんな行動に奔った自分を嫌悪してはいても、そこにあったのは紛うことなきふぁきあの本心でした。無視されるよりは拒絶された方がまだマシでした。ふぁきあは、不機嫌に顔を歪めました。

(それならそれで・・・)

「お前なら王子も気に入るさ」

素っ気無く答えてふいと顔を逸らし、ふぁきあはそれ以上何も言わずに立ち去りました。

(ふぁきあ・・・?)

あひるはふぁきあの返事の冷たさに違和感を感じましたが、何がふぁきあの気に障ったのか分からず、ただ呆然と見送りました。
 
 
 
 
 

ふぁきあはその後も、まるで以前に戻ったように近づいてこようとせず、あひるは戸惑いながらも話しかけることもできずに時が過ぎて行きました。初めてふぁきあ達と会った時と同じ白と薄紅色の美しい衣装を纏い、前と同じように馬車に揺られながら、後ろを騎馬で付いて来ているはずのふぁきあの事ばかり気になり、ふと、この一週間近くの間、片時も離れず傍に居てくれたことに思い当たりました。

「あれが目的地だ」

あおとあが覗き窓の垂れ布を掲げ、馬車の行く手を目で示したので、あひるが覗いてみると、高い壁に囲まれた城砦都市が近づいていました。ついでに後ろも振り返ってみたいという誘惑にあひるは勝てませんでした。しかし目当ての人は、こちらを見てはいるようでしたが、何の反応も示さず、一定の距離を保ったまま馬を進めていました。そのうち馬車は城砦の南門と思しき所から町に入っていきました。

城壁の内側に入ると道は整った石畳になり、両脇には活気ある町屋や蔵が立ち並んで、いざと言う時でも充分人々の生活を支え続けられるだけの余裕があることがうかがえました。城砦の中心近くに聖堂があるらしく、その鐘楼は周りの建物と比べてかなり高くて、通り沿いの建物の屋根越しにずうっと見えていました。馬車が進んでその聖堂の前を通り過ぎた時、あひるは何かに呼ばれたような気がして、少し不安な気持ちになりました。

聖堂を過ぎると、正面の小高い丘の上に、周囲を堀と緑に囲まれた、他の町屋とは明らかに違う大きな建物群が見えてきました。水の上に浮かんでいるようなそれらは、城壁を持たない、珍しい城でした。堀の手前の外門をくぐり、橋を渡って、櫓のような内門を通り抜けると、アーチの美しい回廊で繋がれた幾つかの館があり、手前の館の傍を小川が流れていました。館に囲まれた空間は明るい中庭になっていて、その真ん中で、大きな噴水から迸り落ちる水が、きらきらと午後の光を反射していました。あおとあはどの建物が何だといちいち説明してくれていましたが、あひるはあまり聞いてはいませんでした。

「・・・くやふぁきあの部屋もここにある」
「えっ?」

あひるが急に反応したのを見てあおとあはやれやれというように首を振り、更に隣の建物を指し示して説明を続けました。

「そしてこちらが王族の館だ。国王や王子もここにおられる」

しかしあひるは既に聴いておらず、さっきあおとあが示していた左手の建物を見つめていました。その前を通り過ぎて見えなくなり、あひるが右手にある古めかしい建物を何気なく眺めていると、あおとあが声をかけました。

「それは図書館だ。書物に興味があるのか?」
「え?えーと・・・あんまり・・・」

あひるが言葉を濁すと、あおとあは笑顔も見せずにあっさり返しました。

「そうだろうな」

馬車はそのまま進み、正面奥の、大きなガラス窓のある建物の前で止まりました。あおとあはあひる達をその一室に案内し、あひるに椅子を勧めて言いました。

「では、王子にお知らせしてくる」

シディニアからの従者の他に数人のノルドの従者を残し、あおとあは部屋から出て行きました。あひるはふぁきあを目で追っていましたが、視線に気づいているのかいないのか、あひるの方を見ることもないまま、あおとあ達と一緒に行ってしまいました。
 
 
 
 
 

「ようこそ、プリンセス・チュチュ。待っていたよ」

しばらくして現れたのは、白銀細工かと思われるほど美しい、そして優しい笑顔の王子でした。あひるは圧倒され、ぽうっと頬を染めて王子を見つめました。

(きれいな、優しい王子様・・・あたし、この人と結婚するんだ・・・)

隣であんぬとまりいがせっついているのに気がつき、あひるは慌てて膝を曲げてお辞儀をしました。

「初めまして、王子様。よろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしく、プリンセス・チュチュ」

王子はすっとあひるの手を取り、あひるに笑いかけました。気取ったところがなく、思いやりのある王子の態度に、あひるはふわふわと雲に包まれるような心地良さを感じました。

(この人となら仲良くやっていけそう・・・)

あひるはにっこり笑いました。

「疲れているだろうから、とりあえず君の部屋に案内させよう」

王子はそう言って傍の侍女に頷きました。あひるより少し年上と思われる背の高い少女が、あひるに控えめな笑顔を見せました。

「どうぞこちらへ」

その侍女に導かれて建物の間の回廊を進んでいた時、中庭を隔てた遠くの回廊を歩くふぁきあの姿が目に入りました。あひるは一旦はそのまま通り過ぎました。が、あてがわれた部屋のある館に到着し、階段を上がっている途中で、突然立ち止まってくるりと向きを変え、長いスカートを両手で掴んで走り出しました。

「チュチュ様!?」

あんぬ達が叫ぶ声が聞こえましたが、あひるは構わず、従者達の間をすり抜けて一気に階段を駆け下りました。
 
 
 
 
 

ふぁきあは、自分に与えられた部屋の在る城館に向かっていました。あひるは気づいていませんでしたが、あひると王子の会見をふぁきあは見ていました。そしてあひるが頬を染めて王子に微笑む様を見て、打ちのめされた気持ちでその場を離れたのでした。

(俺など相手にもならない、ということか・・・)

俯いて自嘲気味に笑ったふぁきあは、ふと視線を感じた気がして顔を上げ、中庭の方を振り返りました。明るく開けた広い庭園の向こう端、後宮の方へ折れ曲がっていく回廊を従者達に囲まれて歩み去るあひるの姿が、噴水の周囲にきらきらと踊る光越しに見えました。ふぁきあは知らず知らず立ち止まって、引き込まれるようにそのまま後姿を見送り、ぽつりと呟きました。

「北の館か・・・」

それは楡の木が茂る最奥の一角に有り、そこが選ばれたのは、知らない人々の間で暮らすことになったあひるが、大勢の人に煩わされることなく落ち着いて過ごせるようにという、王子の配慮と思われました。ふぁきあは自分があひるの消えた後をぼんやりと眺めていたことに気づき、さっと頭を振りました。

(もう俺には関係ない)

自分に言い聞かせ、ふぁきあは再び歩き出しました。
 
 
 
 
 

あひるは回廊まで駆け戻ると、なんのためらいもなく中庭に飛び降り、美しく整えられた低木や花々の間を転がるように走り抜けて、反対側の回廊によじ登り、先程ふぁきあが向かっていたと思われる建物に駆け込みました。もしかしたら、もう、ふぁきあはいないかもしれないと思っていましたが、運良く階段を上がっている後姿を見つけました。

「待って!」

ふぁきあは足を止め、驚いた顔で振り返りましたが、すぐに、出会った頃のような無表情に戻りました。あひるは怯むことなく狭い階段を駆け上がり、ふぁきあの懐に飛び込むようにその袖を捉えると、はあはあと上がった息を抑えつつ、屈託無く笑いかけました。

「あの・・・今までありがとう、ふぁきあ。これからもよろしくね。色々わからないこととかあると思うし、ほら、あたしってほんとはそそっかしい・・・」

ぐいと腕を前に引いてあひるの手から引き抜き、ふぁきあは冷たく言い放ちました。

「俺の仕事はここまでの護衛だ。もう会わない」
「えっ!?な、なんで?」

思ってもみなかった返事に、あひるは立ち尽くしました。

「休みを貰った。しばらく父の領地に行ってる」
「でも、またすぐ戻ってくるよね?」
「・・・」

食い下がるあひるを黙って見下ろしているふぁきあは、怒っているようにも困っているようにも見えました。

「だって、ふぁきあがいないと、困るよ、あたし・・・」
「困ったことがあったらあおとあに相談しろ。それに・・・これからは王子がお前を守ってくれる」

自分の言葉に傷つきながら、それでもふぁきあは憮然とした表情を崩すことなく言ってのけました。そこに、あひるを探すあんぬとまりいの声が聞こえてきました。

「でも・・・」

泣き出しそうなあひるの表情に、頬をなでて慰めてやりたいのをやっとの思いで堪え、心の痛みをあひるに悟られるのを恐れて、ふぁきあは目を逸らして別れを告げました。

「侍女達が探しているぞ。皆にあまり心配をかけるな。良い妃になれよ」

踵を返して歩き出したふぁきあの背中に、あひるが叫びました。

「・・・だって、海を見せてくれるって言ったじゃない!」

ふぁきあの足は一瞬止まりましたが、振り返ることはありませんでした。

「王子に頼め」

そしてそのまま行ってしまいました。


 
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