Prolog 序幕 〜 ふぁきあ



 
「うるさい」
「しかし、たかだか2年ほどじゃないか。そんなに彼女を盗られるのが心配なのか?」
「そういうわけじゃない」

嘘だった。

「心配する必要も、焦る理由もないと思うが。君達は誰が見ても『特別』な関係だよ。『特殊』と言ってもいい」

俺が無視して答えないでいると、あおとあは不意にしたり顔でうなずいた。

「そうか、もしかして『できた』のか?」

かっ、と顔が火照った。

「バッ・・・違うっ!!」

あおとあがニヤリと笑ったので、からかわれたと気づいたが、遅かった。

「じゃあ何だ?」
「お前には関係ない」
「まあそうだがね。だが君の養父上は何と言ってる?」
「・・・カロンは俺達の決めた事を尊重してくれてる」

やれやれ、と言いたげに肩をすくめるあおとあを睨みつけた。

「わざわざそんなことを言いに来たのか?」
「いいや。君が兵役に行ってしまう前に色々と聞いておきたいと思ってね。例の事とか・・・」

例の事、というのが、俺が書いてる物語の事だというのは言わずもがなだ。もちろん、あおとあにとってはそれが一番の―というか唯一の―関心事だろう。

「君は全ての人の運命を自由に操れる力を持っているというのに、それが普通の情けない男並みに、恋人を盗られるのが怖くて、兵役前に急いで結婚とは・・・」

こいつは俺をけなす機会を逃す気は無いらしい。

「言っただろう。俺にはそんな力は無い。俺にできるのは・・・あいつがくれた希望の光を、物語に投げかけることくらいだ。どんな状況になっても、それが失われないように」
「ふん」

あおとあはまだ何か言い足り無さそうだったが、とりあえず結婚の件についてはそれ以上口を挟まなかった。だがもちろん、あおとあの話はそれで済んだわけではなく、書きかけの物語に関してはそれ以上にしつこく聞きたがった。適当にあしらってなんとかあおとあを追い返したところで、ちょうど入れ違いに、居残りで遅くなったあひるが帰ってきた。いつもはいらいらとあひるの帰りを待ち侘びているが、この時ばかりは心底、あひるの要領の悪さに感謝した。
 
 
 
 
 

あひるが再び人の姿で暮らし始めた時、本当は寮に戻してやるべきだったのだろう。だが俺はもはや、あひるを手放すことなどできなかった。あひるが不満を言わないのをいいことに、俺は、俺達の家―城壁の外の湖の傍の家に、あひるを留めていた。親戚でもない男女が一緒に暮らしているのだから、あおとあでなくてもそう思うのが普通なのだろうが、確かに俺達は既に、そういう関係になっていた。もちろん最初はそんなつもりで引き止めたわけじゃない。だが、人の姿のあひると暮らしていて―しかもお互いの気持ちを知っていて、俺が我慢できるはずもなく・・・それでも半年程は辛抱したが、それが限度だった。
 
 

その夜は寒くて、少し暖炉の火を強くし過ぎたのだと思う。俺達は1枚の大きなストールにくるまって、暖炉の前のラグに座り込んでいた。その日の出来事なんかを取り留めもなく喋っているうちに、あひるは俺にもたれかかって寝入ってしまった。俺は炎のゆらめきで頭がぼうっとなりながら、あひるのペンダントを―俺があひるにやったペンダントを、何気なく指に絡め、それに籠めた俺の想いを見つめた。

「・・・俺の、あひる・・・」

口に出してしまったのがまずかったのかもしれない。暖炉の熱で少し赤味を帯びた白い肌に吸い寄せられるように口づけて、その後は、自分が何をしているのか全く認識していなかった。無論あひるはすぐに目覚めて戸惑ったが、気遣ってやる余裕など、俺には全く無かった。あいつの体を貫き、辛そうな悲鳴を聞いて初めて、とんでもないことをしでかしたと気づいたが、もう遅かった。苦しそうなあいつに、それでも拒まずに俺を受け入れてくれるあいつに、俺は何度も自分を衝き立て、奥深くまで蹂躙した。それは幻の泉のように、この世のものとは思えない甘美さで俺を満たすのに、貪っても貪っても渇きが止まらなかった。いつのまにか火の消えた暖炉の前から、ぐったりしたあひるを抱き上げ、俺のベッドに運び、また抱いた。果てては眠りに落ち、目覚めては再び求め、夜明け近く、二人とも疲れ切って泥のように眠り込んでしまうまで、繰り返しそうしていた。

そして、一度そうしてしまうと、もう歯止めが利かなくなった。その夜以来、俺達は一緒のベッドで眠るようになった。けれど―こんなことをあおとあに知られたら、またひとしきり御託を聞かされそうだが―子供はできないように注意していた。若過ぎるとか、未婚だからとか、そういうことじゃない。俺とあひるはそれぞれに、自分の子供が負うかもしれない宿命に不安を抱いていた。それは俺達でさえどうにもできない、ましてや他人にあれこれ言われたところでどうにもなりはしないものだ。だからどちらからともなく、そういう暗黙の了解ができていた。・・・もっとも最初の時は無我夢中で、そんなことはまるっきり頭から吹き飛んでいたんだが。
 
 

その半年後、一年遅れで学園を卒業してから、しばらくは学園でレッスン補助の仕事をしていたが、その後、汽車で数時間かかる大きな街のバレエ団の研修生になった。それも、あおとあのバカがあひるに余計なことを吹き込んだせいで断り切れなくなったのだが、俺はあひるには勝てないから仕方ない。あひるはまだ学園に通っていたので金冠町に残さざるを得ず、週の半分以上をあひると離れて過ごすことになり、ずいぶん辛かった。

だから俺が18になったら―あひるの歳なんて適当にごまかせばいい―すぐにでも結婚してあひるを迎えたかったが、やはりバレエ団のシーズン中は忙しくて無理だった。それが終わったら2年間の兵役だ。行けばしばらく金冠町には帰れなくなる。その間にあひるを掻っ攫おうとするヤツがいないとも限らない。実際、今までも俺の眼を盗んで、あるいは堂々と、あひるを横奪りしようとしやがったヤツらがいた。もちろん全員、二度とそんな気を起こさないように、徹底的に思い知らせておいたが。あひるは、まあ、美人の範疇には入らないかもしれないが、じゅうぶん・・・けっこう・・・かなり可愛いし、それに温かくて、柔らかくて、気持ちよくて・・・いや、つまりその、そういう意図で近づいてくるヤツらは当然いるのに、あひる自身には自覚が無くて、誰にでも愛想良くする。だからどうしても、はっきり示しておきたかった。

・・・あひるは俺のものだ。誰にも渡さない。二度と手放そうなどとするものか。
 
 
 
 
 

俺達は金冠町の中心にある、あの教会で式を挙げた。春先は曇りがちな日が多いのに、その日はあひるにふさわしい、抜けるような青空だった。イースター休暇中の町にはちらほらと花の彩がほころび始め、俺達に祝福を与えてくれているように見えた。

親戚も友達もそう多くは無かったはずだが、それでもあひるの人柄なのか、たくさんの人が祝ってくれた。あひるは最高学年になっていて―もうすぐ卒業だから、結婚する時期としては悪くなかったかもしれない―ずば抜けた『親しみやすさ』で、後輩達にも好かれていた。どういう風の吹き回しか、あおとあがオルガンを弾いてくれた。俺は最初断ろうと思ったが、あおとあの申し出を聞いたあひるがあんまり嬉しそうだったので、受けざるをえなかった。だが結果としては、この時あおとあのオルガンを聴けて、良かったと思う。教会の建物全体を鳴らせて荘厳に響き渡ったオルガンの音は、きっとみゅうと達の物語の中まで聞こえただろう。

白い衣装に包まれたあひるの姿は、いやでも俺にプリンセスチュチュのあいつを思い出させた。この教会の中であいつは、敵意を剥き出しにする俺に、優しくなだめるように笑って「戦いたくないの」と言ったんだ・・・
 
 

そう、あの夜、俺達はお互いの秘密を知った。もっとも俺のことを知られていたと分かったのはもう少し後で、更なる驚愕の事実と共にそれが判明して、ひどく恥ずかしい思いをしたんだが。ともかく、それから全てが変わった。みゅうとを守るために一緒に戦い、あいつは俺まで守ろうとするようになり・・・そして俺もいつのまにか、あいつを守りたいと思うようになっていた。みゅうとのためだけでなく、あいつ自身への想いゆえに。全てを投げ打ってみゅうとを助けようとするあいつを、愛していると気づいていた。その想いが報われることはないだろうということも。だがあいつは俺の傍に残り・・・俺と共に居る事を望んでくれた。あれほど愛していたみゅうとではなく、俺を選んで・・・
 
 

そして今、俺のための白い衣装を着て、頬を林檎の花のようにほんのりと染めながら、俺に近づいてくる。決して結ばれることはないと思っていた、希望の光の『プリンセス』・・・

涙がこぼれそうになって、高い天井を仰いだ。みゅうと達の祝福の声が、聞こえた気がした。
 
 
 
 
 

新婚旅行は南へ行った。なぜだか俺は、あひるに海を見せてやりたいと思っていたんだ。北側にも海はあるが、あひるは南の海を見たがっているような気がして―それもなぜだか分からない―山脈を越えて異国の海まで行った。一週間の休暇の間の慌しい日程だったが、それでもあいつは大喜びしてくれた。寒さの残る金冠町とは違い、そこはもうすっかり春だった。眩しい陽光を煌かせてどこまでも広がる碧い海、ぽつぽつと浮かぶ緑の島々に、あいつはいちいち歓声を上げた。爽やかな東風の吹く海辺の丘には、木々に甘い香りの白い花が咲いていた。その下で幸せそうに踊るあいつを見ながら、そしてその手を取って一緒に踊りながら、俺も幸福に胸を満たされていた。ずっと心に引っ掛かっていた約束をやっと果たしたような、重荷を下ろしたような、満足感があった。
 
 

だが、家に戻ってからあひるは言った。

「やっぱりお家はいいね」

俺は複雑な気持ちであひるを見た。

「そうか」
「うん。あっ、でも、連れてってくれて、すっごく嬉しかったよ。ほんとにありがとう。でもでも、あのね、あたし、ふぁきあと一緒にいられれば、どこでも幸せなんだよ。ふぁきあのいるとこが、あたしの居場所だから」

その言葉の重さを、俺は後で知る事になる。だがその時はただ、あひるの気遣いが嬉しくて、愛しくて、小さな体を乱暴に引き寄せ、顔じゅうに―ついでに体じゅうにも―キスを浴びせた。

「じゃあ絶対に、俺を忘れて、よそに行ったりするなよ・・・たとえ離れても、お前が帰るのは俺のところだけだからな」

あひるはくすぐったそうに身を捩りながら、俺の心を掴んで放さないあの笑顔を見せ、両手で俺の頬を捉えた。そして澄んだ青空の瞳で俺を覗き込み、顔を寄せた。

「うん。ずっと一緒にいる」

それは俺達の永遠の約束だった。
 
 
 
 
 

そして家を発つ日が来た。カロンとあひるが、城壁の外の駅まで見送りに来てくれた。カロンが、体に気をつけろとか、まずくても食事はちゃんと摂れとか、しきりに言っていた。俺はその都度黙って頷き、心配そうなカロンと、表情を強張らせたあひるを、かわるがわる見ていた。あひるの笑顔が見たかったが、結婚してひと月もしないうちに離れてしまう夫を、笑顔で見送れというのも無理な話だろう。発車の笛がホームに響き、あひるは結局口をへの字に結んで大きな目を見開いたまま一言も口をきかず、俺も、あひるにかける言葉もなく、そのまま汽車に乗った。振り返らなかった。・・・後ろ髪引かれる思いに、負けてしまいそうな気がしたから。客車の扉を開けて足を踏み入れると、中はそこそこ混雑していて、俺は空いた席を探して車内を見回した。その時、すでに動き始めている窓外の景色の中で大きく揺れている、羽のようなオレンジ色の髪が俺の目に飛び込んできた。

「あのバカ!」

俺は他の客を押し退け、その窓に駆け寄った。力任せに止め金を掴むと、バタンと大きな音と共に窓が落ち、流れ込んでくる風の中に、俺は頭を突き出した。

「あひるっ!」

子供のように汽車を追いかけ、危うい足取りで走っていたあひるが、俺の顔を見て一瞬顔を輝かせた。危ないから止めろと叱ろうとしたのに、胸が詰まって言葉にならなかった。汽車の速度が上がり、あひるがだんだん遠くなっていく。あひるはついにホームの端まで来て、立ち止まった。その姿が淋しげで、頼りなくて、たまらず俺は身を乗り出し、もう表情もよく分からないあひるに向かって叫んだ。

「あひるっ!愛してるっ!!」

あひるに聞こえたかどうか分からない。ただあひるは、5番ポジションで立ち、羽ばたくように両腕を持ち上げて、左胸の前で心臓を抱く仕草をした。その姿を、声なき声を、俺は心に刻んだ。
 
 
 


 

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