リンデは友人の―彼女を友人と言えるかどうかは難しいところだったが―招きに応じて、その邸を訪ねるために馬車に揺られていた。リンデがこうして再び、不本意ではあっても自分の意思で動けるようになれたのは、奇跡的ではあった。

残酷な別れの後、操り人形のように意志を失くし、輝きの消えた瞳でただ死の訪れを待っていたリンデを救ったのは、義姉のエルザだった。エルザはリンデを責めも励ましもせず、何も訊かずにただリンデのために泣いてくれた。その腕の中で温かな涙に触れるうち、リンデの心を縛り付けていた重い鎖が外れ、リンデは、誰にも―兄にも言えなかった心の内をやっと吐き出すことができた。無論、それで何も解決するわけではなかったが、ただ辛い気持ちを口にするだけで、呼吸が楽になり、目が見えるようになった。リンデは自分の立場と気持ちに向き合い、覚悟を決めた。そうして外に出られるまでに落ち着いたが、傷ついた心からは相変わらず血の涙が流れ続け、瀕死の状態であった。
 
 
 

両親から最初に話を聞かされた時、当然リンデは激しく拒んだ。だが両親は始めからリンデの意思など聞く気はなかった。

「もう決まったことだ」
「でも私・・・」
「くだらぬ事を考えるな。誰にとってもこれが最も望ましいことなのだ。お前のためだけではなく、お前の兄達のためにも」
「これは陛下からの正式な申し入れなのよ。陛下の御意向に背いて、お兄様達の立場を悪くするつもりなの?」

リンデははっと息を呑んだ。この話を断るということは他の男を選ぶということであり、その男に対して王がどのような感情を抱くか、想像に難くなかった。今でさえ危険な仕事ばかりさせられているらしいのに、もしそうなったら・・・怖ろしさに体が震えた。そして両親が兄『達』と言うからには、彼らも暗にそれを示唆しているのだ。

「お前が王妃になれば兄達も大事にされる。お前の力で守れるのだよ」

そう言われてリンデが抵抗できるはずもなかった。彼以外の男のものになるなど、考えるのもおぞましくて吐き気がしたが、大切な人が晒されている危険を思えば、どんな屈辱にも耐えられた。しかしリンデがそこまでして守ろうとした人は、彼女に侮蔑の言葉を投げつけ、振り返りもせず去ってしまった。それでもリンデはその痛みを受け入れた。例え彼に愛されなくても、運命の人と信じた気持ちに変わりはない。

(守りたい)

そのためなら全てを―命すら捧げても、惜しくはなかった。
 
 
 

馬車の外で吹きすさぶ木枯らしの音を聞くともなしに耳にしながら、リンデは絹張りの壁にもたれかかり、ぼんやりと揺れに身を任せていた。その耳に突然、御者が何やら叫ぶ声が飛び込んできたと思うと、馬が甲高く嘶き、馬車が大きく揺れて止まった。席から放り出されそうになって壁にしがみついたリンデは、乱暴に引き開けられた入り口の垂れ幕の方を見て固まった。賊は馬車に片足を踏み込んで入口の上部に手を掛けたまま、それ以上中に入ろうとはしなかった。体を強張らせ、表情を硬くしているリンデを真っ直ぐ見つめ、その男は言った。

「愛してる、リンデ」

リンデの瞳が驚愕に大きく見開かれた。

「一番大事なことを言ってなかった。すまない。僕は君を、何よりも愛してる。初めて逢った時から、ずっと」

クリスの声は落ち着いていて、昂ったところは全くなかった。しかしそれにも関わらず、リンデの心は激しく揺さぶられた。

「僕が悪かった。僕は・・・君を失うのかと思って・・・こわくて、動揺して、自分を見失ってたんだ。君がどんな気持ちでいるのかにも、全く考えが及ばなくて・・・心にもないことを言って君を傷つけた。後悔してる。許してもらえるだろうか?」

リンデが小さく震えながら黙って頷くのを見て、クリスはほっと息をつき、わずかに微笑んだ。

「それと、もう一つ頼みがある。・・・僕のことを諦めないでくれ」

リンデは息を呑んでクリスを見つめた。

「僕は信じてる、君は僕のことを想ってくれていると。君が何と言おうと、あの笑顔が・・・涙が、嘘のはずはない。君は他の男と結婚することなど、望んでない」

真っ直ぐ射し込んで来るクリスの深い瞳に心の底まで見通されている気がした。わずかに後退ったが、視線を逸らすことはできなかった。

「僕はこれから君を攫う。反対しても無駄だ、絶対やめない。僕にはもう、こうする以外ないんだ」

思いがけないクリスの強引さに、リンデは異議を唱えようと開きかけた口から言葉を紡ぐこともできず、ただ呆然と見つめ返した。

「僕は諦めない。僕らの気持ちは神の前に何も恥じるところは無い。なのに君は、愛する人達のためにそれを捨てようとしてる・・・リンデ、僕らが諦めなければならない理由なんてないんだ。そんなことをしても誰も幸せにはなれない」

じっとリンデに注いでいた視線を逸らしてクリスは一瞬俯き、すぐまた顔を上げた。

「君の家族は僕にとっても大切な人達だ。僕は彼らを苦しめるだろうが、でも彼らに罪を負わせはしない。君を攫い、罪は全て僕が負う。国王は、心の弱いところはあるが、道理の分からない人じゃない。落ち度のない者を罰するようなことはしない」
「でも、それじゃあクリスが・・・」

震える手を胸の前で握り締め、リンデは小さな声で言いかけた。

「君と引き換えにしてまで守るほどのものは、何も無いよ」

クリスは笑った。

「君に捨てられたと思った時、よく分かった。君を失ったら、僕には何も残らない。君を失う事はできない。他の何を失っても、君だけは・・・」

クリスの穏やかな声が、優しくリンデの心に沁み込む。リンデは何と答えて良いか分からず、黙り込んだ。クリスの気持ちは泣きたいくらい嬉しい。そしてクリスの言う通りにすれば、家族は守れるかもしれない。でも私が守りたかったのは・・・

苦しげに目を落としたリンデに、クリスは少し表情を翳らせながらもそっと語りかけた。

「君には申し訳なく思う。大切な家族や故郷を捨てさせ、その上、本来ならしなくて済む苦労をさせることになる。王妃になれば、全く無縁でいられる苦労をね」

王妃という言葉にリンデははっと身を硬くしてクリスを見返したが、クリスは静かにリンデを見つめていた。

「でも君は、王妃になっても幸せにはなれないよ。それは君の本当の心じゃないから。心を殺して生きても、幸せにはなれない。君だけじゃなく、他の誰も・・・僕一人が不幸になるなら耐える。でも、君がそんなバカな真似をするのを見過ごすわけにはいかない」

クリスの声と眼差しが真剣さを増してリンデに注がれ、リンデはその眼差しに炙られているような気がした。口の中が乾いて言葉が出なかった。

「僕の光を消さないでくれ。このままでは君の輝きが消えてしまう。それは、僕にとっては死ぬより辛い・・・頼む、どうか諦めないでくれ。君に必要なのは僕だ。心から君を愛し、求めている僕だ」

視線が強く絡み合い、身動きもできなかった。

「僕は愚かで、弱くて、富も権力も無いただの男だ。君を愛する資格などないのかもしれない。本当に君を守りきれるのか、ずいぶん迷った・・・でも、どうしても、このまま諦めることはできない。君を守りたい。例えどんな運命が待ち受けていたとしても・・・僕の全てを賭けて」

押し寄せる、深く、熱い想いがリンデを包み込んでいた。その激しさに体が震えた。

「そしてもう一度あの笑顔を僕に・・・君の笑顔が僕を守る」

リンデの心臓がどくんと大きく打った。クリスの瞳に吸い込まれ、どこまでも深く入り込み、ひとつに交じり合っていくように感じた。

「希望を失わなければ、必ず道は開けるから。こわがらないで、リンデ。僕が傍にいる」

澄んだ大きな瞳から涙が零れ落ちた。体の中で、自分の心がクリスの心と溶け合い、一つの宝石のように輝いているのがわかる。もう何も怖いものは無い。頬を伝わる雫を拭いもせず、リンデは両手をそっとクリスの方へ差し伸べた。

「私、あなたと一緒にいきたい、クリス」

固い蕾が露を載せてほころぶように、リンデは微笑んだ。

「あなたを愛してる」

弾かれたようにクリスが踏み込んできて、馬車が大きく揺れた。賊が獲物を奪うように、クリスは小さな手を強く捉え、華奢な体を乱暴に胸元に引き寄せた。固く抱き締め合い、クリスはそのままリンデを抱え上げ、あっという間に馬に乗せて、辺りに吹き荒れる激しい木枯らしに紛れるが如く、素早く走り去った。
 
 
 
 
 

パルシファルは川沿いの館の自室で机に向かっていた。人払いをしてあるので、辺りはずっと静まり返っている。卓上には、鞘に見慣れない紋章が一つあるだけで他に何の飾り気も無い、重々しい一振りの剣が載っていた。

かすかに扉の軋む音がして、深く物思いに沈んでいたパルシファルは、はっとして顔を上げた。部屋の入口には、彼の幼い息子が立っていた。

「どうした?ローエングリン」

暗い表情の息子は、瞳を揺らしただけで、泣くでも答えるでもなく、俯いてしまった。

「またウルリケにいじめられたのか?」

重ねてパルシファルが尋ねると、息子はぴくりと肩を震わせ、それからぽつりぽつりと話し始めた。

「・・・ローエングリンは・・・弱虫だから・・・仔馬に乗せてあげないって・・・」

パルシファルは溜息をついた。

「やれやれ、ウルリケはとんだお転婆だな。いったい誰に似たのか・・・おいで、ローエングリン」

小さな息子を呼び寄せて膝に抱き上げながら、パルシファルはある記憶を甦らせていた。
 
 

パルシファルが初めて妹の結婚話を聞かされた時、父はどこか苦しげな表情をしていた。娘を持った今なら、あの時の父の気持ちが分かる気がした。もし求婚してきたのが国王ではなく、他の貴族の若者だったなら、父はリンデの望みを聴き入れ、クリスを婿に迎えてやったかもしれない。しかし相手が国王では、断ればパルシファルやクリスを含め、皆に危険が及ぶ恐れがあった。もしかすると父は―パルシファルの勝手な想像だが―クリスの才能を惜しみ、リンデを諦めさせる換わりに、騎士としての栄達を保証してやろうとしたのかもしれなかった。ただ、クリスにとってリンデは、皆が思っていた以上にかけがえのない存在だったのだ。そしてリンデにとっても・・・

「すごくたいせつなもの?」

ふと気づくと、ふぁきあは小さな手を、机の上の剣に向かって一生懸命伸ばしていた。その表情からはいつのまにか翳りが消えていた。パルシファルはふっと微笑み、その剣を掴んでふぁきあの前に差し出して見せた。

「ごらん。これは、心も体も本当に強い者だけが持てる剣だよ。きっとおまえは強くなる。大きくなったら、これをおまえにやろう」

小さなふぁきあは目を輝かせてその剣を見つめ、パルシファルを見上げてにっこりと笑った。パルシファルは愛しげに微笑み返しつつ、その剣の来し方と行く末を思った。
 
 
 

妹が消えたのち、パルシファルが受け取った手紙には続きがあった。それこそが彼を動揺させ、手紙を処分させた理由であったのだが。


 
 

<それから、こんなことを頼めた義理ではないんだが、この剣をしばらくの間、君の手元に隠しておいてもらえないだろうか。親友の君にも話さなかったが、僕の幼い頃の名はローエングリンという。今ではもうほとんど覚えてもいないが、僕が生まれたのはオストラントの王家だった。この剣は、僕が王宮から密かに逃がされた時、王位継承者の印として持ち出されたものだ。だが、僕はもうオストラントに戻るつもりも、騎士に戻るつもりも無い。この剣は僕と彼女にとって危険な要素になるだけだ。僕はこの剣を持っていることはできないが、これが人手に渡っていらぬ騒動を起こすことは避けたい。何年かして全てが忘れ去られたなら、処分してもらって構わない。あつかましい願いなのは分かっているが、君しか頼れる人がいないんだ。彼女のためにも枉げて頼む。君を信じている>


 
 
その手紙と共に枕元に置かれた剣を、彼に返すことができなくなってしまった今、それを受け取ることができるのは、パルシファルの幼い息子だけだった。そう、それはその名が示す通り、《ローエングリンの剣》であったから。

 

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