Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen 復讐の心は地獄のように 3



 
彼女を一目見て、クリスは我が目を疑った。リンデはもともとほっそりと小柄な方ではあった。しかし今のリンデは、痛々しいほどに痩せこけ、最後に逢った頃の乙女らしい柔らかさは見る影も無かった。小さな膝の上で重ねられた青白い手には骨が浮き出て、細い首は―いや、首以外の場所も、今にも折れそうだった。ふっくらと薔薇色だった頬は色褪せて輝きを失い、いつも明るい光が溢れていた瞳には消せない苦しみの翳が漂っている。まるで地獄をくぐり抜けてきたようだ・・・地獄を見たのはクリスの方だというのに。だが彼女もまた、思いもよらぬ不幸な生活に―おおよそは王の愛人、あるいは愛人「たち」に関わる心労に―苦しんできたのだろうか?その細い身体で、王妃らしく毅然とした態度で椅子に腰掛けてはいるものの、ちょっとした風でも吹き飛んでしまいそうに儚げに見える。クリスの胸が強く痛んだが、彼はそれを無視した。

「・・・クリス?」

彼の顔を見たリンデが澄んだ目を見開き、呆然と呟く。聞き間違えようの無い、少ししゃがれ気味の、甘い声。忘れたいと願い、しかし決して忘れ去ることのできなかった声。昔と全く変わらないその響きに、突然過去が呼び戻され、心の奥深く葬ってしまったはずの感情が溢れ出しそうになる。クリスは激しく心を揺さぶられ、そしてその事実に苛立ちながら、冷たく答えた。

「ローエングリン。オストラントの王だ」

そのまま凍りついてしまったリンデから、彼女の周囲を固めるように立っている侍女達に目を移し、クリスは厳然と短く命じた。

「下がれ」

侍女達はそれを予期していたかのようにさっと表情を強張らせて身を硬くした。よく見れば両脇の二人はリンデを支えるようにしっかりと彼女の腕を握っている。しかしリンデが小声で何か囁くと、侍女達は彼女の方を窺って束の間躊躇した後、意外にもあっさりと引き下がった。それは、抗いようの無い運命を従容として受け入れているようでもあり、また、運命の無慈悲さに対する嘆きを精一杯に表明しているようでもあった。高位の侍女らしい何人かは、まるで永の暇乞いでもするように鄭重に王妃に会釈して退がった。彼女らの大袈裟な態度を、クリスは冷笑しつつ眺めていた。一人残されたリンデは今にも倒れそうな様子で、血の気の引いた真っ青な顔でクリスを見ていた。

(・・・どう見ても再会を喜んでいるようには見えないな)

当然だ、何を期待していたんだ?あの頃のように駆け寄って来てくれることか?優しい腕で僕を抱き締めて、あの笑顔を見せてくれると?僕を見ても、立ち上がろうとさえしないのに?

自然と皮肉な笑みが浮かんだ。

「顔を覚えていてくれただけでも感謝すべきなんだろうな」

リンデはまだ信じられないというように二、三度まばたきした。

「まさか・・・」
「残念ながら事実だ」

クリスが嘲るように言い放つとリンデが小首をかしげた。

「残念?」

その何気ない仕草が彼の心に再び甘い記憶を甦らせる。彼の夢そのものだった愛らしい少女への憧憬と、胸を掻きむしられるような渇望を。クリスの声が鎧を纏ったように硬くなった。

「そうじゃないのか?焦ってノルドの王妃の座に飛びついたことを後悔してるんじゃないか?もう少し待てば、もっと由緒ある、強大な国の王妃になれたかもしれないのに」

(よくそんなでまかせが言えるものだ)

クリスは内心で苦笑を洩らした。実際は、彼女を得られていたなら、オストラントを得ようなどとは考えなかっただろう・・・たとえ強要されても。オストラントの王位に就いたのは、思ってもみなかった非情な運命の、些細な副産物に過ぎなかった。
 
 

運命に裏切られたことを知るまで、彼は、彼女に出逢わせてくれた運命に感謝すらしていた。遂に申し込むことを決めた後は、もうそのことしか考えられないくらい、はち切れんばかりの期待で満ち溢れていた。身分に不足があることは知っていたが、彼女の父親が彼に信頼を寄せてくれているのは感じていたし、彼女と彼との繋がりが不滅のものであることも解ってもらえると思っていた。彼女にそれを告げる瞬間のことを―喜びに輝く彼女の顔を何度も心に描き、彼女に永遠の愛を誓う日を、二人で暮らす幸福な日々を、胸を弾ませながら夢想した。もうすぐ、もうすぐ手にできる・・・だが、夢は何一つ実現することはなかった。

彼は運命に屈した。彼女の拒絶に遭っては、他にどうできただろう?彼女は一言の弁明の手間をかけることもなく彼を捨てた―いや、彼女にしてみれば弁明の必要も無かったのかもしれない。それが真実の愛だと、言葉にしなくてもお互いの想いは伝わっていると思い込んでいたのは、彼のひとりよがりだったのだから。だが、信じた彼が愚かだったにせよ、ずっと大切に胸に抱き続け、熱望したものが、粉々に打ち砕かれた衝撃に変わりはなかった。彼女がその男を愛しているわけではない―たぶん―ということも、欺かれた心の痛みを増すばかりだった。

更に悲惨だったことに、彼は、手痛い背信にも関わらず、彼女を愛するのを止められなかった。愛すれば愛するほど、苦しむだけと分かっていたのに。他の男のものになる彼女を見るのは、生きたまま火で炙られるような拷問だったが、彼はそれに耐え、彼女の幸せを守る為に騎士として仕えようとさえした。華やかな式典と共に心臓が抉り取られ、引き裂かれ、踏みにじられる苦痛をも忍んだ。しかし、その夜の国王夫妻の寝室の警護を命じられるに至って、彼は己の限界を知った。

どうやってその場をやり過ごしたのか覚えていない。パルシファルが何か言っていたような気がするが、彼は震える体を押し止めるので精一杯だった。胸の奥で燃え上がった昏い炎が、瞬く間に全身を舐め尽くす。体中の血が逆流し、目の前を流血の幻想がよぎった。理性の最後のかけらが燃え尽きる寸前、彼は祝賀に沸き立つ都を飛び出し―あのまま留まっていたら何をしでかしていたか、自分でも分からなかった―灰色の夕闇に沈みゆくノルドを、愛する人と暮らすはずだった国を、捨てた。彼は再び『故郷』を失くした。
 
 

そうして正気を失って彷徨い続けていたところを、偶然知人に拾われ、運命は再び動き出した。だが、促されるままに危険に身を晒したのは『故郷』を取り戻すためではない。ただ、心が砕け散った後の空隙を少しでも紛らすものが欲しかっただけだ。だがそれを彼女に言うつもりはなかった。言ったところでどうなるものでもないし、今更どうでもいいことだ。今はただ彼女を侮辱し、傷つけたかった。クリスはせせら笑った。

「僕を裏切って手に入れたものは、結局、たいして長持ちしなかったようだな」

リンデは何も言い返さず、ただ黙ってクリスを見つめていた。クリスは奇妙なばつの悪さを感じて苛立った。

「さあ来るんだ。滅び行く国の王妃として、最後の勤めを果たせ」

片手を差し出して言ったが、リンデは椅子から立ち上がろうとせず、ゆっくりと首を振った。

「行けない。私は・・・」

そこまで卑屈になるほどの扱いをされてきたのか。一瞬、込み上げる庇護欲にクリスの心は引き込まれかけた。が、すぐに頑なな復讐の思いがそれを振り払った。クリスは苛々とリンデに歩み寄り、彼女の左手首の上を掴んだ。

「君は仮にも一国の王妃だろう。愛人ごときに遠慮することはない」
「そうじゃなくて・・・」

まだぐずぐずと立ち上がろうとしないリンデにクリスは業を煮やし、目に脅すような光を浮かべて、小さな体に覆い被さるようにぎりぎりまで顔を近づけた。

「無理やりにでも連れて行くぞ」

そう言ってリンデの背中と膝の下に腕を差し入れて抱き上げた瞬間、背中に回した手がぬるりと滑り、クリスはぎょっとして立ち止まった。羽根のように軽く頼りないリンデの体を落とさないようにぎゅっと胸元に抱き寄せたクリスの目に、椅子の背もたれから座面までべったりとついた血糊が映った。クリスの全身がぞっと粟立った。

「まさか・・・」

慌ててリンデの頭を胸にもたれ掛けさせて背中を見ると、ざっくりと斜めに切られた傷が目に入った。

「切られたのか?!」

胸元でくぐもった小さな声が答えた。

「うん・・・」
「なぜこんな・・・」

クリスの声が掠れた。

「この国はもう終わりだからって・・・王妃が生きて捕らえられて、辱めを受けるようなことになってはいけないって・・・」

頭を強く殴られた気がして、視界が束の間暗転した。クリスは歯軋りしながら顔を上げ、血止めに使えそうな布を探して忙しなく辺りを見回した。

「くそっ・・・誰がこんなことを!!」
「図書・・・の・・・」

リンデの肩を抱く手にぐっと力が篭った。

「あいつら!どこにいる?」
「クリスが来たから・・・逃げちゃった・・・」
「必ず捕まえて八つ裂きにしてやる!!」

寝室と思われる扉を蹴り開け、凄味の効いた声で低く吼えたが、リンデは力なく首を振った。

「いいの・・・私の命はもう終わってるから・・・クリスに捨てられた時に・・・」

瞬間、クリスの動きが止まった。

「何を言ってる?僕を捨てたのは君の方・・・」

リンデは苦しげに胸を上下させながら、クリスを求めるようにかすかに指を動かした。

「クリスが無事で良かった・・・ずっと心配してた・・・後悔してたの・・・」
「なぜだ?なぜそんなことを言う?君は僕のことなど・・・」
「結婚式の後、すぐ、いなくなっちゃうんだもん・・・クリスのために我慢したのに・・・」

クリスは蒼白になった。

「なんだって?本当なのか、リンデ?!」

リンデにはもうクリスの声は聞こえていないようで、ただうわごとのように呟き続けていた。

「でもほんとは嫌なの・・・クリスが他の誰かを愛するのも見たくない・・・だからこれでいい・・・これで、全部、終わる・・・」

クリスは、とにかく早く手当てをしなければと、リンデをいったん寝台に下ろそうとした。が、どこにそんな力が残っていたのか、ふらふらと上がったか細い手に拒まれた。

「行かないで・・・傍にいて・・・あと少しだけだから・・・」

透き通るように白い、細い指がクリスの服をぎゅっと握り締めた。

「最後のお願い・・・今までいっぱいお願いしたけど・・・ほんとにこれが最後だから・・・」
「最後だなんて言うな! 」

とりあえず自分の腕で傷口を押さえるように強く抱き締め、クリスはリンデの耳元で叫んだ。

「これからもいくらでも叶えてやる。君の願いなら、僕はどんなことでもする!」

クリスの温もりを感じたようで、リンデが幸せそうに微笑んだ。

「クリスの・・・腕の中で死ねるなんて・・・思ってもみなかった・・・」
「やめろ、リンデ!」

恐怖と焦燥で声が引きつった。

「きっと、すごく我慢して、頑張ったから、神様が御褒美をくれたの・・・」
「ダメだ!こんな・・・」
「・・・ありがとクリス・・・ごめんね・・・」
「待ってくれ、僕はまだ・・・」
「・・・逢えて良かった・・・」
「リンデ!!」

悲痛な叫びが冷たい石の壁に虚しく響いた。
 
 
 

「彼女を助けてくれ!!」

凄まじいドアの音と共に、ぐったりと頭を仰け反らした生気の感じられない少女―アンリには少女に見えた―を両腕に抱えて駆け込んできたクリスの様子を、アンリは生涯忘れることはなかった。また、後にも先にも、これほど取り乱したクリスを見ることもなかった。

「頼む、他には何も要らない!彼女は僕の命なんだ!!」

少女を抱き締め、クリスはその場に崩折れるように膝をついた。アンリは直ちに動いた。・・・たとえ彼にも、できる事とできない事があったにせよ。
 
 
 

数日後、固く閉じられた王妃の棺が都の中心の聖堂へと運ばれ、その身分に相応しい葬送の儀礼の後、地下の王家の墓地の奥深くに納められた。葬儀にはノルド国王はもちろん、占領側のシディニアの王子も列席したが、若きオストラント国王の姿は無かった。
 
 

その後、ノルドはなぜかシディニアにもオストラントにも併合されることはなく、シディニアの監視の下、王国として存続した。そして新しい王妃が即位し、彼女の息子が皇太子となった。偉大な祖父王の名を継いだこの王子は、その輝くばかりの容姿と純粋な気質から『白の王子』と呼ばれ、皆に愛された。
 
 

オストラントを再興したローエングリン王は、生涯、妃を娶らなかった。ただ、召使の女の一人に男子を産ませ、頑迷な周囲の難色を斥けてこの子を跡継ぎとした。春先の天候の良い日には、山吹色の花が満ちる丘を仔馬で駆けていく幼い王子―前述のいきさつゆえに『黒の王子』と呼ばれた―の姿が見られたという。
 
 
 
 
 


 

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