五月



 

差し出した両手の間を春風がすり抜ける。彼は褐色に日焼けした毛むくじゃらの太い腕をゆっくりと下ろし、閉じたままの扉に向かって言った。

「・・・今、帰った」

もちろん彼女はいない。ずっと前にいってしまった。そのことを彼はやっと受け入れた。そうして初めて、彼は彼女の思い出と向き合うことができるようになった。彼の目を覚まさせてくれた恩人は、自らの想いに従って遠くへと去り、たぶん、もう二度と会うこともない。だが彼はその男のことを決して忘れないだろう。

一つ深い息を吐き、彼は再び呼びかけた。

「......Ma chérie......」

語尾が少しだけ震えた。押し潰されたような低い声しかでなかったが、彼は精一杯はっきり言おうと努力した。彼女にちゃんと聞き取れるように。

「すまなかった・・・俺は・・・結局・・・お前を裏切ってばっかりだったな・・・」

苦い思いが込み上げて思わず目を伏せそうになるのを堪え、ぐっと扉を睨みつける。

「お前をずっと大切にするって・・・どんなことがあってもお前を守るって誓ったのに、それなのに・・・お前を助けてやれなかったばかりか俺は・・・お前を忘れようとした。お前の記憶を拒絶し、消し去ろうとした・・・!」

苦しげに顔をしかめ、彼は数回浅く呼吸した。呑み込まれそうな激しい自己嫌悪の波に必死で抗い、声を絞り出す。

「俺がもっと強けりゃ・・・俺がお前を思い出してやれれば、俺達はずっと一緒にいられたのに・・・お前も、俺達のあの子も、俺の中で、生きてられたのに・・・!」

熱い塊で咽喉が詰まり、声が途切れた。奥歯をぎり、と噛み締めてうつむき、彼はごつい肩を強張らせてぶるぶると小刻みに震えていた。鎧のようにまとっていた自負心を脱ぎ捨て、彼は、ありのままの己の姿を彼女の前に―彼女だけの前に、すっかりさらけ出した。大切なものを失う痛みから、そして守りきることのできなかった己自身の不甲斐なさから、またしても逃げ出そうとした、弱くてぶざまな、本当の自分の姿を。
 
 

やがて少しずつ震えが治まってくると、彼はほっと息を吐いて力を抜き、顔を上げた。

「・・・だけど、お前はずっと、俺の傍にいてくれたんだよな。俺が逃げ続けてた間も、俺を見捨てずに・・・俺は何度もお前を悲しませたのに、お前は一度も俺を責めなかった。お前の信頼を踏みにじってばかりいたのに、それでもずっと俺を信じ続けてくれた・・・」

両脇にだらりと垂らした手をぎゅっと握り締める。

「俺はもう逃げねぇ。お前と約束した通り、ちゃんと生きるよ。お前の思い出と一緒に」

それでもここで暮らすのは・・・彼女のいないベッドで目覚めるのは、きっと辛いだろう。よく分かっていたが、彼は勇気を奮い起こした。勇気を持つことを教えてくれた人達に恥じないように。

「二度とお前をひとりぼっちにはさせねぇから・・・赦してくれ・・・俺の、最愛の、お前・・・」

彼はまっすぐに我が家を見つめた。彼女はいない。だが彼の目には、はっきりと映っていた。楽しそうに歌いながら働く彼女、拗ねて可愛らしく唇を尖らせる彼女、強く激しい感情をぶつけてくる彼女・・・そして幸せそうに微笑む彼女。

『おかえりなさい、ザックス』

世界に差し込む朝日のように、一瞬のうちに心に広がる喜び、安らぎ、そして希望。ほっそりした腕が、まるで天使の翼のように彼に向かって柔らかく開かれる。・・・何があっても最後には必ず彼に差し延べられた、懐かしい、優しい腕。

「・・・レーネ・・・」

そよ風が甘い溜息のようにはだけた胸元をくすぐる。痛いほどの愛しさが腹の底から突き上げ、胸が詰まって視界が滲んだ。彼は強くまばたきして目を見開き、むさぼるように彼女を見つめた。・・・小さな足に彼の靴を―彼が初めて心を籠めて作った靴を履いて立つ彼女・・・足元に揺れる、開きかけの小さな青い花・・・

「ああ・・・なんてきれいなんだ・・・」

濡れた頬をそっとぬぐってくれる指先を感じる。
 
 

温かな抱擁に包まれ、彼は家に帰りついた。
 
 
 
 
 


 

 

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