小さな川に沿って開けた美しい丘陵地。流れが少し広く緩やかになっている川辺に、華美ではないが優雅な、古い石造りの館が佇む。それが、その辺り一帯を領有している宰相家の館。手入れの行き届いた廊下には、召使達が開けた窓から朝の光が差し込んでいる。しかしふぁきあは、普段なら心地良いと思うはずのそれらのものに目もくれず、俯き加減に歩いていた。

あひるに別れを告げた後、ふぁきあはそれ以上城に留まる気になれず、じきに日も暮れようというのに、逃げるように飛び出してきてしまった。良く知っている道とはいえ、篝火も持たず、満月近くの月明かりだけを頼りに馬を駆る。その脳裏に、別れ際にあひるが見せた、縋るような眼差しが何度も甦った。

(俺はお前が好きなんだぞ。そんな目で見るな!)

届かない想いに胸がかきむしられ、あひるの仕打ちを恨んだ。

(昨日あいつを追いかけて、力ずくで俺のものにしておけば・・・)

凶暴な衝動が湧き上がり、ふぁきあははっとした。自分が犯しかけた罪の恐ろしさに震えが走った。手綱を強く握り締め、唇を噛んで思う。あの愛しい存在は、自分には得られるはずもなかったのだ・・・最初から。

夜中に自室のベッドに倒れ込んだ後も眠ることなどできず、暴れ出しそうな心と体を抑えて、ただじっと夜明けを待った。太陽の光が、暗く冷たい喪失感を消し去ってくれることを期待して。闇はどこまでも永遠に続きそうに思われたが、やがて朝は来た。けれど眩しい輝きの中で思い知らされたのは、朝が来ても、あの澄んだ青い瞳がふぁきあに向かって眠そうに微笑むことも、舌足らずの甘い声がふぁきあの名を呼んでおはようと言うことも、もう無い、ということだった。ふぁきあは失ったものの事を考えまいとした。何でもいいから気を紛らわすことが欲しくて、意味も無く歩き回った。そこに救いの手が差し伸べられた。―後から考えれば、それが救いだったかどうかは甚だ怪しかったが。

「おかえりなさい、ローエングリン」
「ウルリケ・・・」

ふぁきあが顔を上げると、宰相の娘、すなわちふぁきあの義姉にあたる女性が微笑んでいた。ふぁきあの知らない義母によく似ているらしい、長い黒髪の、美しい人。

「昨日帰って来たんですってね。顔を見せてくれれば良かったのに」
「夜中だったから、起こすのも悪いと思って・・・」
「どうしてそんな時間に?あなたなら、今朝お城を出れば昼過ぎには着いたでしょうに・・・何か急用でも?それともお城で何かあった?」

いつもながらこの義姉は鋭い、と思いながら、ふぁきあは適当にごまかす。

「別に・・・ただ気が向いたから」
「そう」

ウルリケは納得したわけではなさそうだったが、深くは追求しなかった。

「あなたったら連絡も寄越さずに急に帰って来るんですもの、支度が間に合わないって召使達がぼやいてたわ。今も午餐の主食を作るのに何も無いから、これからアヒルをつぶすって・・・ローエングリン?」

話の途中で不意に駆け出したふぁきあの後姿にウルリケは呼びかけたが、ふぁきあはあっという間に見えなくなってしまった。

「全くあの子ったら、いつだって突然なんだから・・・」

裏庭の、アヒルを飼っている囲いから、口ひげを生やした陽気そうな料理人がアヒルを捕まえて出てくる。

「こら、おとなしくしろ、お前は若様のお口に入るんだから光栄なんだぞ」

突然その腕を掴まれ驚く料理人だが、振り返って笑顔になる。

「あ、若様・・・お帰りなさい」

ふぁきあは料理人の腕を掴んだまま、何と言えばいいのか分からない。

「それ・・・そのアヒル・・・」
「ああ、午餐用にと思いまして。若様、アヒルは嫌いじゃないですよね?」

何故か、かあっと頬を染めながら、ふぁきあは言葉を選んで答えた。

「・・・俺は、アヒルは、食べない・・・」
「あれ、そうでしたっけ?アヒル、食べてみませんか?結構美味しいですよ」
「頼むから、やめてくれ・・・」

耳まで赤くなって、ほとんど哀願のように頼むふぁきあ。

「そうですか。じゃあしょうがないな。こいつは命拾いしましたね」

そう言いながら料理人は囲いの中にアヒルを放してやる。ふぁきあはほっとして、他の材料を探しに行った料理人を見送ったが、「アヒルを食べる」という言葉が頭から消えるまで、その官能的なイメージに、一層苦しめられることになった。


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