Nachspiel



 
もったいぶったノックの音にザックスは顔を顰め、鹿革をなめしていた手を止めもせずに怒鳴った。

「開いてるぜ。勝手に入って来な」

扉が軋んで開く音が聞こえたが、足音が入ってこないのを不審に思い、ザックスはおっくうそうにしかめ面を上げ、戸口を振り返った。槌を振り上げたまま手が止まり、口がぽかんと開いた。

「・・・王子・・・」
「こんにちは、久しぶりだね」

初冬の陽光を背にして立つ王子の姿は神々しく、白銀の髪が天使の光輪のように美しい顔を縁取っていた。

「なんで王子が・・・」

王子の脇に立っていた高位の侍従らしき人物が咳払いをし、ザックスは我に返って慌てて立ち上がった。

「ああ、ええっと・・・お入り下さい。その・・・汚ねぇとこですが」

散らかった室内を見回したが、王子に勧めるのに相応しい椅子などあるはずもなく、仕方なく一番座り心地の良い椅子―さっきまで自分が座っていた作業用の椅子に、靴に使うための毛皮を敷いて、王子の方へ押し出した。

「ありがとう」

ためらいなく進み入って来てそれに腰掛けた王子は、少し下がって立ち尽くすザックスを屈託なく見上げ、親しげな笑顔を見せた。

「突然訪ねて来てすまなかったね」
「いや、それは構わねぇけどよ・・・」

厳格そうな侍従にじろりと睨まれ、ザックスは口を噤んだ。こういう場を恐いとは思わなかったが、苦手ではあった。

「それで、ええと・・・何の用・・・ですかい?」
「うん。君に渡したい、いや、返したい物があってね」

そう言って王子は懐から小さな皮袋を取り出した。

「これは君の物じゃないかな?」

ザックスは微かに息を呑んで目を見開いた。間違いなくそれは彼が作ったもので、そしてわずか数ヶ月前、ふぁきあに熱冷ましの薬草を入れて渡した袋だった。

「ああ・・・あんたの言うとおりだ」

ザックスの無礼な言葉遣いに例の侍従は露骨に顔を顰めていたが、ザックスはもう気にしてはいなかった。

「俺がふぁきあにやった。この前、あいつが来た時に」
 
 
 

顔色を失い、焦った様子のふぁきあが、すっぽりとマントに包まれた人を大事そうに抱えて飛び込んできた時の情景が鮮やかに頭の中に甦った。その姿はザックスに、ふぁきあの父親の姿を思い出させた。山小屋で再会した後、ふぁきあを身籠った妻を愛しげに抱きかかえて運んでいた男の姿を。
 
 
 

「そうじゃないかと思った・・・宰相家の物ではないという話だったし、ふぁきあは君に色々と世話になったと言っていたから」

王子が頷き、ザックスに袋を差し出した。ザックスは遠慮なしに王子に歩み寄り、無造作に片手を伸ばして袋を受け取った。

「だが、なんであんたがこれを?」

ザックスが鋭い目つきを向け、王子は秀眉を曇らせた。ほんの一瞬の間の後、王子は厳しい口調で切り出した。

「実は、ふぁきあは・・・」
「そのことは知ってる」

ザックスが手を振って王子を遮った。目を吊り上げた侍従が勢い込んで何か言おうとしたが、王子に無言で制止された。ザックスは構わず、仏頂面のまま続けた。

「こんな辺鄙な場所でも都の噂は届く。ふぁきあが都に現れた化け物に挑んで殺されたことも、あんたのお妃が命と引き換えにその化け物を消滅させたことも、聞いた」

実際には噂話にはもう少し大袈裟な尾ひれがついていたが、ザックスは事実であろうと思われるところだけを述べた。そしておそらく、あの時マントにくるまれていたのがそのお妃だったのだろうとザックスには察しがついたが、黙っていた。

「そう・・・」

静かにザックスを見返した王子の瞳にはいたわりの気持ちが滲んでいた。ザックスは顔を顰めて王子に向かって顎をしゃくった。

「だが、なんであんたが、わざわざ俺なんかの所へふぁきあの形見を届けにきてくれたのか、それが分からねぇ」

王子は気分を害した様子もなく、ザックスの疑わしげな眼差しを正面から受け止め、軽く頷いて答えた。

「ふぁきあは時々それをとても懐かしそうに見ていたと、ふぁきあの姉君から聞いたから」

ザックスは自分の推測が正しかったことを確信し、ふぁきあが追い込まれたのであろう状況を思って、右手に持った袋をぎゅっと握り締めた。

「きっと何かわけの有る物なんじゃないか、って気がして。君に返すべきだろうと思ったんだよ」
「・・・ああ。そうかい」

それだけの理由でこんな遠くまで王子自ら訪ねて来たというのは信じられなかったが、ザックスはそれ以上詮索する気はなかった。ザックスはふっと息をついて表情を緩め、謝意を表した。

「わざわざ来てくれて、ありがてぇと思ってる。少なくともふぁきあが・・・どんな思いだったかは分かった」

それを聞いて王子の瞳に痛みのような色が走り、傍の侍従が体を硬くしたが、それも一瞬のことで、二人はすぐに感情を覆い隠した。ザックスは理解した。彼らは知っている。しかし、彼らの立場では、それを表に出すことはできないのだと。

遠く響く鐘の音のように深い声で王子が言った。

「ふぁきあを死なせてしまった責任は僕に在る。謝って許されることではないけれど、少なくとも自分で伝えに来なければならないと思ったんだ・・・君には。ふぁきあはあまり他人と打ち解ける方ではなかったけれど、君とは親しくしてもらっていたらしいし、君をとても信頼していたようだったから」
「親しいってほどじゃねぇよ」

今は、と心の中で付け足してザックスは頭を振った。

「ただ幾つか用事を頼まれてやっただけだ。俺はあいつの父親を弟みてぇに思ってたし、あいつのことも実の甥っ子のような気がしてたからな、できるだけ役に立ってやりてぇとは思ってたが。それに、大事な人を亡くしたのはあんたも同じだろ?」

王子が―それは非常に稀なことであったが―一瞬怯んだ様子を見せ、それから寂しげな微笑を浮かべた。ザックスは苦笑気味に顔を歪めた。

「辛ぇな」

そして首を振って床に目を落とし、額に落ち掛かった白髪交じりの金褐色の髪を片手で掻き上げた。

「俺も、大切な者を守りきれなかった。・・・俺が愛して、守りたいと思った者はみんな、俺を置いて行くんだ」
 
 

なぜあの時、傍にいなかったのかと、何度自分を責めたことだろう。・・・どんな敵だったにしろ、あの優れた騎士だった人がやられるなど、信じられなかった。聖マクダレーネの庭に転がっていた十人以上のシディニア兵達は、きっと、彼が一人で倒したに違いない。おそらく多勢に無勢だったのだろう。それでも自分がいれば―昔のように、彼を補佐して一緒に戦っていれば、少しは役に立てたはず・・・いや、この身を盾にしてでも、決して二人を死なせたりはしなかった。それなのに自分はまた、大切な人の危機に際して何もできなかった。・・・耐え難い怒りと悲しみの中、それでも必死に気力を奮い起こし、残された者を探し出した。そして、幸せに暮らしていることを確かめ、ずっと見守ってきた。しかし守るべき者はもう、誰もいなくなった。
 
 

「ザックス・・・」

気遣わしげな王子の声にザックスは顔を上げ、透き通った琥珀の瞳と真っ直ぐ視線を合わせた。他人に対して全く警戒の無い態度はずいぶんと違うが、魂の底を覗き込むような深い眼差しは、やはり似ている・・・ただ一度だけ間近で見上げた、あの偉大な王と。そう思うと、込み上げるほろ苦い感情に胸が軋んだ。30年近く前のあの日・・・あの日にもう一度戻れるなら。だが、ザックスは知っていた。やり直し出来ないからこそ、大切なのだという事を。そして心から祈り求めた願いが叶わなかったとしても、そのために費やした努力を惜しむことは無いという事を。

「俺は結局、誰も守れねぇ、情けねぇ男だ。それでも、あいつらのためにちっとでも何かできたなら・・・俺がいたことでほんのわずかでも良かったと思ってもらえたんだったら、それで充分だ」

自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を噛み締めた。自分が彼らを守っていたのではなく、彼らが自分を救い、本当の意味で生かしてくれた。それを認識し、忘れないことが、彼らに対して自分ができる唯一のことだった。

若く希望に溢れた王子には、自分の気持ちは理解できないだろうとザックスは思ったが、王子は少し考え込む風情で小首を傾げていた後、ややあって小さく頷くように頭を下げた。
 
 

立ち上がり、戸口に向かいかけた王子がふと立ち止まった。怪訝そうにやはり立ち止まった従者達に外で待つように告げ、彼らが不承不承外に出て扉を閉めるのを確認してから、王子はザックスに向き直った。

「失礼だとは思ったんだけど、君の家を探した時、君の経歴についても聞いた。君は騎士クリスチャンの部下だったんだね」
「ああ」

ザックスはためらうことなく肯定した。

「ということは、彼が叛逆罪で追われていたことも・・・」
「知ってた」

悪びれたふうもなくあっさりと答えたザックスに、王子は少し微笑んだ。

「でも、ふぁきあに再会した後も、彼に両親の素性については告げなかった。そうだね?」
「ああ、そうだ」

ザックスは王子から目を逸らさず、腰に手を当てて胸を反らした。

「言っとくが、自分のためじゃねぇぜ。御尋ね者を匿ってたって知られようが、俺は一向に構わなかったんだ。けど、ふぁきあがそれを知るべきかどうかは俺が決めることじゃねぇし、知らせるにしてもそれは俺の役目じゃねぇって思ってたからな。ふぁきあを引き取ったっていう実の伯父とやらが、ふぁきあを見て気がつかなかったはずはねぇしよ」

王子は真面目な表情で頷き、その透明な瞳でザックスを見つめながら、ためらいがちに口を開いた。

「ザックス、もし良ければ、今度パルシファルを・・・ふぁきあの養父を連れてきてもいいかな?ふぁきあの両親のことを、きっと聴きたいだろうと思うし」

「ああ、俺は構わねぇぜ」

ザックスはニヤリと笑った。

「クリス様が親友だって仰ってたくらいだからな、悪い人じゃねぇだろうさ。けど、あの奥方の兄上ってことは、かなり危なっかしいお人好しなんじゃねぇのかい?」

王子は珍しく、小さく声を立てて笑った。
 
 

自分で扉を開けて外に一歩踏み出した王子は、しかし、再び足を止めて振り返った。

「どうだろう、君はもう一度兵士になる気は無い?できれば僕のために働いてほしいと思ってるんだけど」

ザックスは間髪を入れずに首を振った。

「今さら俺みたいな年寄りが出る幕じゃねぇだろ」

王子は食い下がった。

「君が知ってるある騎士の父君は、かなり歳をとってから僕の祖父に仕え、豊富な知識と経験で何かと祖父を助けてくれて、祖父も彼を重用していたそうだ。でも、そういう人はなかなか見つかるものじゃない」
「俺がそうだって言うのか?」

王子は頷いた。

「君も聞き及んでいると思うが、今やシディニアに代わり、オストラントが、より大きな脅威となっている。今のところまだ表立った動きはないけれども、たぶん仕掛けてくるのは時間の問題だろう。いずれなんとかして解決策を探し出すつもりではいる。でも、とりあえずはノルドの国民を守らなければならない。君のように、経験もあり、信頼の置ける兵士が、僕にはどうしても必要なんだ。もし来てくれるなら、指揮官待遇で迎えるよ」

外で待っていた王子の従者達の間にざわめきが走り、先程のきれいな顔立ちの侍従が眉を吊り上げるのが見えたが、ザックスは再び平然と首を振った。

「俺はただ長く軍隊にいたってだけで、クリス様に仕えるまでは、唯の厄介な、はみ出しもんの雑兵だったんだ。期待には沿えねぇと思うぜ」

ザックスは王子の顔にぴたりと目を据えたまま続けた。

「それに悪ぃが、俺はここを離れる気はねぇ。ふぁきあの両親も、俺の家族も、ここに眠ってるからな。あいつらを置いてくことはできねぇよ」

きっぱりと言い切られ、王子は残念そうに小さな溜息をついた。

「仕方ない、今は諦めるよ。でも状況によっては、また君を煩わせるかもしれない。僕はこう見えても、一途に思い込むたちなんだ」

王子の言い方にザックスは心をほぐされ、笑って答えた。

「ああ、わかった。状況次第では、俺も考えてみるよ」

打ち解けた空気に割り込むように、王子の背後から咳払いが聞こえた。苦虫を噛み潰したような表情の侍従は、組んだ腕の上で、楽器でも奏でるように細い指をしきりに動かし、懸命に苛立ちを抑えているようだった。王子はザックスに向かってかすかに片眉を上げて見せてから、踵を返した。
 
 
 

王子に続いてザックスが表に出てみると、気温は昼よりもぐんと下がり、辺りには早くも夕暮れの気配が忍び寄っていた。もうじき雪が積もるなと考えながら、ザックスは、柔らかく輝く薄曇りの空を見上げた。彼らの頭上を、美しい白い鳥の群れが山の湖の方角を指して飛んでいった。

「白鳥は生涯、唯一羽の相手とだけ、つがうんだってな」

ザックスがぽつりと呟いた。王子は、店の前の小道から大通り―とは言っても馬車がやっとすれ違えるくらいの田舎道だが―に出たところで足を止めた。

「あいつらもずっと離れることなく共に生き・・・共に死んだ。今も一緒にどこかの空を飛んでるんだろう」

ザックスがふぁきあの両親のことを言っているのは分かっていたが、王子の脳裏には別の白い鳥のことが思い浮かんでいた。

「そうかもしれないね」

深い感情の込められた柔らかな声音に、ザックスは少し意外そうな目を王子に向けた。が、それ以上なにも言わなかった。
 
 
 

ザックスは戸口に立ち止まったまま、王子と従者達が馬に跨るのを見守った。ふと王子が、ザックスの頭の斜め上の看板に目を留めて尋ねた。

「その看板の文句は君が彫ったの?」

ザックスはとんでもないというように肩をすくめ、看板を仰ぎ見た。

「いや、俺は読み書きはできねぇ。この辺じゃ坊さん以外、誰も字なんか読める奴はいねぇよ。ただ、きれいな飾りになるだろうって、ふぁきあの父親がな。こいつはふぁきあの父親が作ってくれたもんで・・・あん時も焼けずに残ったんだ。『靴屋』って書いてあるって言ってた」

王子はそれを聞いて、胸を衝かれた様子で看板をしばらく見つめ、それからザックスに向かって静かに微笑んだ。

「そう。でもそれだけじゃないよ。看板にはこう書いてある。『最高の靴屋』と」

ザックスは一瞬息を呑み、さっと文字に目を走らせて、くしゃりと顔を歪ませた。

「そうですかい」

さりげない調子で返した声がかすかに震えていたのを王子は聴き取ったであろう。王子はもう一度ザックスに温かく微笑みかけ、その田舎の小さな靴屋を後にした。
 
 
 
 
 


 

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