トロイエはいい馬だった。ふぁきあの意図を良く理解し、その指示に、素早く、忠実に従った。だから今も、主の心そのままに、皆のところへ向かう歩みは遅くなっていた。あひるはそれに気づいているのかいないのか、ふぁきあの服を片手で握り締めて―この頃には最初のようにしがみついてはいなかった―相変わらず辺りの風景をきょろきょろと楽しげに眺めていた。

「この辺はけっこう平らなんだね」
「ああ、山地を抜けたからな。城までずっとこんな感じだ。その先、父の領地の辺りになると、また少し起伏が多くなるが」
「今のお父様の?」

訊いてからあひるはまずいことを言ってしまったかと思い、心配そうにふぁきあの顔を窺ったが、ふぁきあは別段気にとめた様子は無かった。

「そうだ」

あひるはほっとして笑顔に戻った。

「あっ、じゃあ、ふぁきあが育ったところなんだね。どんなとこ?」
「見渡す限り丘ばかりだな。肥沃とは言えないが、開墾されている土地が広いから、充分豊かだ」
 
 
 

ふぁきあは緊張していた。あひるの顔がさっきまでより心做しか近くなっていて、その呼吸さえ感じられる気がした。以前、姿が変わった時にはまるで別人に見えたが、今はあひるにしか見えない。ただ、表情が大人びて見える。それが緊張に拍車をかける。ふぁきあは気を紛らわすため、いつになく多弁になった。

「館の周りの丘は、雪が融けてしばらくすると、小さな花でいっぱいになる」
「へぇ、素敵だね。見てみたいな」
「ああ、きっと気に入る・・・」

ふいに、あひるをそこへ連れて行く幸せな想像が胸の中で膨らんだ。春先の優しい陽射しの中、こんなふうにあひると二人、緩やかに連なる丘の間をうねるように続く道を辿る。柔らかな草の緑と、菜の花畑の鮮やかな黄色、それに耕された土の茶色に塗り分けられた平和な領地。その先に広がる暗緑の森を抜けると、一面、星を散らしたように野の花で黄色と白に染まる斜面。その美しく懐かしい丘を駆けて、川沿いの古い館へと・・・

「・・・きあ?ふぁきあ?」
「え?」
「どうかした?」

ふぁきあは知らぬ間に手綱をとる腕が狭まり、あひるを抱き寄せるような形になっているのに気がつき、慌てて力を緩めた。

「なんでもない」

あひるから目を逸らして、道沿いの潅木を眺める。

(バカげている)

実現し得ない夢を思い描くなど、ふぁきあの趣味ではなかった。それでも、別の季節、別の場所でなら、別の関係になれるような気がして仕方なかった。巣立ったばかりの雛が危うくも可愛らしい様子で飛び始める頃、うららかな光を浴びて林檎の木が白い花びらを散らす、この潅木も霞のような花をつける、そんな中だったなら・・・

突然、故郷の丘の、その灌木の茂みで見かけた恋人達の姿を思い出して、ふぁきあは赤面した。その時は特に気にもせず、すぐ目を逸らしただけだったが、今こうして腕の中にあひるがいる状態では、その姿態がやけに生々しくふぁきあを刺激し、かっと体が熱くなった。思わず手綱を引いて馬を停めてしまい、あひるが再びふぁきあを振り仰いだ。

「どうしたの?トロイエが疲れた?」

言いながらふぁきあの顔を見たあひるが目を見張る。

「あれっ、ふぁきあ、顔赤いよ。だいじょうぶ?具合悪いんじゃない?」
「なんでもない」
「でも・・・」
「いいから黙ってろ。舌噛むぞ」

このままだと妄想に捕らわれてとんでもないことをしでかしてしまいそうで、ふぁきあは馬の速度を上げてそちらに集中しようとした。膝で強く指示を出すと、トロイエがただちに速歩で駆け出した。あひるは驚き、ふぁきあにしがみついた。


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