Am schönen Tage 5



 
「ザックス・・・?あなた?」

甘い囁きが耳元をくすぐる。親密な呼びかけが―こいつが確かに俺のものになったことを示す呼びかけが―背筋をぞくりと震わせる。

「・・・ん?なんだ?」

俺を吸い込んじまいそうな深い瞳でじっと見つめたあと、レーネは首を横に振った。下ろした艶やかな黒髪が、波のように揺れる。

「ううん。何でもない」

手を伸ばしてほんのり色づいた頬に触れ、親指で優雅な頬骨の上をなぞる。

「途中でやめるな。隠し事されてるみたいで、気になる」
「そういうわけじゃないけど・・・」

すべすべの柔肌を俺のざらざらしたごつい手にこすりつけ、レーネがわずかに微笑んだ。それだけで、ぱっと、胸に光が射す。

「そんな大した事じゃないの、本当に。ただ、今日はいいお天気で、良かったわね、って。たくさんの人に祝福してもらえて」

思わず唸り声が漏れた。あの一件を別にしても―レーネにとっては、怖かったのは俺が怪我をしたことだけで、自分が危ない目に遭ったという認識は無いらしい―俺には、大勢の人が来て良かったとは、あまり・・・まったく思えなかった。だがこいつが、客が多くて嬉しかったというなら、まぁそれでいい。たとえ俺自身は、飾り立てられたサーカスの熊みたいに間抜けな気がしてたとしても。

「それに、雨のハーブ園もいい香りがして私は好きだけど、披露宴向きじゃないものね?」

細い首をちょこんとかしげると、こめかみのところの柔らかな巻き毛がくるんと流れた。きれいなアーモンド形の目に落ちかかったそれを、親指と人差し指でつまんでどけてやる。

「・・・そうだな」

もちろん、たぶん晴れるだろうという目算があったからこそ、家やレストランではなく、教会の裏庭で披露宴をやらせてもらったんだが。今年は夏からこっち、ずっと晴天続きで、思ったとおり今日もこの季節にしては暖かく、爽やかなピクニック日和だった。

教会裏のハーブ園にはそこそこの広さがあり、馴染みは有るものの何だかよく分からねぇ植物が無節操に生えてる―ように俺には見える―が、そのあいまあいまに、幅広の通路か作業スペースのような、ちょっとした隙間が在ったりする。そこに椅子と小さなテーブルをいくつか置いて披露宴の会場にした。思いついたのは言うまでもなくレーネだが、外でやるというのはいい考えだと俺も思ったので、すぐに神父様に掛け合ったら、あっさりOKが出た。そして、たぶん、今日の客の反応からすると、しばらくは、あそこで披露宴をするのが流行るだろう。周りの建物で強い風からは―外界の喧騒からも―遮られてるが、陽射しは十分入って心地良く、俺はふと、ガキの頃、何かあるとよく聖マグダレーネのバラの茂みや、トネリコと菩提樹の並ぶ小さな池の辺りをうろついてたことを思い出したりなんかしていた。だがまあ、それはさておき何より気に入ったのは、日没前にお開きになって、さっさと家に帰って二人きりになれたことだ。レストランなんかでやってたら、いつまでお祭り騒ぎが続いてたか分かったもんじゃねぇ。

「みんな楽しんでくれてたみたいだったな。ダーヴィトも」

レーネが―ダーヴィトのことを話す時はいつもそうだが―ぱっと顔をほころばせ、ちょっと妬けた。果たして俺はこんなふうに、ただ俺のことを思い出すだけで、こいつにこんな嬉しそうな顔をさせることができるだろうか? レーネはそんな俺の気持ちも知らぬ気に、俺の右肩にもたせた頭をかしげて、柔らかな頬を摺り寄せた。

「うん、実はちょっとだけ心配だったんだけど、でも全然そんな心配要らなかったわね?」
「ちゃっかり新しいガールフレンドも作ってたみたいだったしな」

ふふっ、と彼女が漏らした温かな息がこそばゆくて、胸がぞくぞくする。

「あのブーケが役に立って、良かったわ」

披露宴の後、皆との別れ際にレーネが投げた花嫁のブーケは、彼女の友人達の手の上でバウンドして、後ろに立ってたダーヴィトの頭の上に落下した。ダーヴィトは一瞬唖然としたものの、すぐにひざを折って、足元に落ちたそれを拾い、義足の足でひざまずいたまま、隣にいた女の子―教会での式の時、ダーヴィトと話していた女の子だ―に差し出した。手渡すダーヴィトの方も、びっくりしながら恥ずかしそうにそれを受け取る女の子の方も、どちらも初々しくて、見てるこっちまでなんだか新鮮な気持ちになった。

「あれは『勇気』のブーケだったから。きっとあの子達の未来にも力を与えてくれるわね」
「『勇気』のブーケ?」
「ええ、そう。タイムが入ってたの」
「はあ・・・」

当たり前みたいに言われて何となくうなずいたものの、実のところ、何のことやらさっぱりだった。けど、まあ、これからいろいろ教えてもらえばいいか。俺の世界が彼女の世界になるように、彼女の世界も俺の世界になる。ふと、優美な眉がひそめられ、しなやかな指先がそっと俺の左肩に触れた。

「痛む?」
「大丈夫だ。たいしたことねぇ」
「ごめんね・・・」

花のような唇を親指で軽くなぞり、可愛らしい歯が下唇を噛むのを止めさせた。

「前にも言ったが、お前が謝ることじゃねぇだろ。お前に怪我が無くて良かったよ」

物言いたげに開きかけた唇に、さっと己の唇を重ね、彼女の息が上がって軽く短い喘ぎ声が漏れるまで、じっくりと探索した。

「・・・だが、まぁ、できれば俺も、お前に危害が及ぶんじゃねぇかとヒヤヒヤするのは、なるべく御免こうむりてぇけどな。お前も自重して、知らねぇとこやなんかにはあんまり近づかねぇように・・・」

言ってるうちから、レーネが赤く上気した頬を後ろめたそうに逸らしたのに気づいた。

「なんだ?どうした?」

上目遣いに俺の顔をうかがい、しばし逡巡する様子を見せた後、レーネが―セクシーなかすれ声で―ためらいがちに切り出した。

「あのね・・・実は、来週、会いに行くって約束しちゃったの。あのおばあさんに」
「はぁ?!何だって?!」

がば、とのしかかるように身を起こしたので、レーネがびっくりしてわずかに身をすくめた。

「あの、でも、神父様も一緒だから。だから、心配しな・・・」
「俺も行く」
「え?」

銀の星が散らばる瞳がめいっぱい見開かれ、まじまじと俺を見上げる。

「でも・・・」
「俺も行く」
「ねぇ、ザックス・・・」
「誰が何と言おうと行くからな」

レーネは再び唇をちょっと噛み、心配そうに俺を見た。何を懸念してるのかは、訊かなくても分かった。俺みたいな図体の男が後ろで睨んでたら、威嚇してるようにしか見えねぇのは明らかだ。

「ええと・・・そうね、うん、たぶん、大丈夫だとは思うけど、いちおう神父様に・・・」
「お前一人で行くなんて、絶対にダメだ」
「一人じゃな・・・」
「ダメなものはダメだ。たとえベッドに縛り付けてでも、お前だけでは行かせねぇ」

変な意味で言ったわけじゃなかったが、口にしたとたん、そのイメージが―他の場所も―むくむくと膨らんで、きまり悪くて身じろぎした。おまけに俺の家族が言ってたこと―俺が強引で、頑固だと―を証明しちまったようなもんだということに遅まきながら気づき、ひとつ咳払いして、しぶしぶ口調を和らげた。

「心配するな。動物園の熊みたいにおとなしくしてると約束する」

お前に危険が及ばない限りは―というところは口には出さなかったが、レーネは眉を寄せて深刻な面持ちで俺を見つめたまま、にこりともしない。いらいらして、垂れてきた横髪を乱暴に耳の上に掻き上げた。

「とにかく、お前と年寄りの神父様だけで、害意を持ってる人間のそばをうろつくなんぞ論外だ。・・・ただし、俺が一緒なら、まあ、行ってもいい」

俺が身を挺してでも二人を守る。

「いいな。これだけは譲れねぇ。俺はお前の傍から離れねぇぞ」

レーネがびくっとして、まじまじと俺の目を凝視した。ちょっときつく言い過ぎたか?だが・・・
沈黙が続き、本当に嫌がられちまっただろうかと不安になりかけたとたん、ふいに、綺麗な顔が、こくりと小さくうなずいた。

「うん。私達、二人でひとつだものね。一緒に受け入れてもらえるように、努力しないと」

深く澄んだ湖の瞳に、温かなきらめきが広がり、あっという間に俺の胸を満たす。微笑み一つでこいつは、こんなにもあっさりと、俺の世界を変えてしまう。胸を苛む怒りや痛みは薄れ、流れ込んで来た穏やかな気持ちの中から、なぜか分からねぇが、自信と・・・勇気が湧いてくる。

「・・・レーネ・・・」

光を放つほどの美貌の中でもとりわけ心を惹きつける、夜明け前の闇を湛えた蒼の瞳。その深く静寂な闇の中からあふれ出す、強い光。まるで世界を照らす朝日のように、彼女の内から輝き出て、俺を包む冷たい闇を溶かし去ってしまう、その光・・・

「・・・お、れ・・・」

咽喉が詰まって声がひっくり返った。くそっ、どうして俺はこう、カッコ悪いんだ。

「なあに、あなた?」

ほっそりした優しい指が、無精髭の伸びた頬をゆったりと撫でる。反射的に、ぐい、と顔を寄せ、滑らかなうなじに鼻を埋めた。ああ、この、甘く・・・懐かしい、匂い・・・

「・・・なあ、俺、あいつらが言ってたふうじゃねぇだろ?」
「あいつら?」

レーネが俺の頭の後ろできょとんとした声を出す。俺自身も驚いた。そんなこと気にしてるつもりは全く無かったし、尋ねたりするつもりはさらに無かったんで。つまらんことにこだわってるみてぇで恥ずかしくて、ちょっと早口になった。

「ああその、なんだ、俺が頑固だって、俺の家族が・・・」

ふふっ、と、首筋に彼女の密かな笑みがこぼれるのを感じた。

「ええ、そうね」

しなやかな腕がふんわりと俺の肩に巻きつき―といってもレーネの華奢な腕では背の半分にも届かないが―そっと肩甲骨の上辺りをさする。

「心配しないで。あなたは私を、正しく愛してくれてる。そして、とても愛してくれてる。それは、私、分かってるから」

繊細な指先が羽根のように背筋をなぞるたび、体の芯がぞくぞくする。そろそろいいか?別の愛の言葉を―体で伝える言葉を―語っても・・・

「あ、ねぇ、そういえばイゾルデが・・・」

ああくそ、今はあいつらの話なんかどうでもいい。

「教会の式の前に着付けしてた時、言ったの。あなたのタキシード姿見たら、惚れ直すわよ、って」

彼女の話が終わるまで辛抱するつもりで、すらりとした背に所在無くさまよわせてた手が、ふと止まった。うん?何か似たようなことを聞いたような覚えが・・・

「私、そんなことないだろうと思ったんだけど・・・あ、別に、あなたにタキシードが似合わないって思ってたわけじゃなくてね、あなたがすごく格好良いって、じゅうぶん知ってるから、これ以上惚れ直すなんてできないだろうって・・・」

思わず頭を起こした。雪花石膏のように輝く白い頬をほんのりと染めつつ、レーネは真剣な眼差しで俺を見返した。

「でも、あなたのタキシード姿、本当に堂々としてて、すごく素敵で・・・心臓が飛び出しちゃうんじゃないかって思うくらい、ドキドキしちゃった。どうして着るの嫌がってたの?とってもよく似合ってたじゃない?私はタキシード着てるあなた、好きよ」

・・・何も着てない時に、そんなこと言われても・・・

俺が返事に詰まったせいか、あるいは俺の心の声はこいつに丸聞こえなのか、レーネが慌てて言い添えた。

「あ、でも、もちろん、そのままのあなたもすごく素敵だけど。大きくて、逞しくて、魅力的で・・・ええと、だからつまり、その・・・」

まさに大きく逞しくなったモノが下腹部に当たるのを感じたんだろう、レーネが真っ赤になって口ごもった。

「俺もだ」
「え?あっ・・・」

腰を引いて一突きで繋がり、奥まで差し入れた。さっきの余韻で潤ったままの温かな内部が、歓迎するように、張り切った俺を包んで蠢く。のけぞったしなやかな体を、両腕でしっかりと抱え込んだ。

「俺も、お前に、惚れ込んでる」
「あ、あぁ、あ・・・」

俺の律動に、彼女が応える。二人の動きは自然に同調し、完璧なハーモニーを奏で出す。俺の下で、上で、生き生きと踊る、美しく柔らかな、温もり・・・

「・・・きれいだ、な・・・お前は・・・」
「あ・・・なた、も・・・んんっ」

熱く大きな塊が腹の底からせり上がり、体も思考も、何もかもが炎になる。俺の周りで彼女が痙攣し始め、俺を締め付けだす。と、思う間に俺も続いた。ああ、くそっ、早過ぎる、もっと・・・だが、止めることはできなかった。
 
 
 
 
 

それは妙に馴染み深い光景のように思えた。彼は立ち木に片方の肩を預け、幸せそうな若い夫婦とその子供を眺めている。細身だが鍛えた体の、黒っぽい髪の男が、ひょろひょろした手足の、小柄な妻を腕に抱いている。やんちゃな子供は歓声を上げ、時々転びそうになりながら、辺りを走り回っている。彼も笑みを浮かべ、それを見守っている。だが、心には常に一抹の空隙があった。何故ならこの夢を見る時はいつも―いつも?―彼の『彼女』は、そこにはいなかったから・・・

その時、そっと反対側の肩に何かが触れた。何気なく振り返り、息を呑んだ。言葉も無く見つめる彼の隣に立ち、『彼女』は彼の太い腰に腕を絡めて身を寄せ、一緒に若い家族を見つめた。これまでもずっとそうしてきたかのように。彼は恐る恐る腕を回して、ほっそりした肩を抱く。煌く夜明け前の蒼が彼に微笑み、彼は、体中にじわりと―やがて爆発的に広がる悦びにさらわれた。ぎゅっと、柔らかく温かな体を両腕で抱き締め、野の花のような香りを胸に深く吸い込む。彼は悟った。

俺は、もう、独りじゃない。
俺は―俺達はついに、運命を変えたんだ。
 
 
 
 
 


 

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