目覚めた翌日からは、さすがにあひるもふぁきあの部屋に泊り込んだりはしなかった。けれどあひるは毎朝、少し息を切らせながら心配そうに顔を覗かせては、ふぁきあが目を開けているのを見てほっとし、それから扉を閉める間ももどかしく、小走りにベッドに近づいてきた。ふぁきあの顔色を診るためであろうが、真っ直ぐふぁきあを見てくれるあひるに、ふぁきあは言いようのない幸せを感じた。

「この調子なら、すぐに元気になるね」

きれいに食べ終わった食器を載せたトレイをテーブルに置いて振り返り、ベッドの上に自力で体を起こしているふぁきあに、あひるは嬉しそうに言う。その笑顔が嬉しいのか哀しいのか、ふぁきあの胸がぎゅっと軋む。

「ふぁきあは強いね。王子も言ってたけど」
「王子が?」
「うん。だからじきに外にも出られるようになるよ」

だがその頃には・・・と考えかけて、ふぁきあはその思考を中断した。楽しげに王子のことを話すあひるから目を逸らし、ふぁきあはふと約束のことを思った。あれはまだ有効だろうか?それならまだ、あひるにしてやれることが有る。自分の体が元通りになって、そしてあひるが・・・王子妃として落ち着いたら。ふぁきあはどんな無理をしてでも約束を守るつもりでいた。あひるさえその気があるならば。

「あの話だが・・・」
「あの話?」

あひるはベッド脇の椅子に座りながら首を傾げた。

「海に連れてってやるって・・・」

あひるはどきりとした。それが色々な意味で無理な頼みだということは、今はあひるにも分かっていた。ふぁきあの王子への忠誠につけ込むようなことはしたくない。わざと明るく答えた。

「あ、それはもういいの。ふぁきあが元気になってくれたらそれで充分。もうふぁきあにわがまま言わないって決めたから」

ふぁきあは落胆を表に出さないよう注意して、短く答える。

「・・・そうか」

もう一つ、あひるには懸念が有った。以前その約束をしていた父親は、約束を果たさずに死んでしまった。そしてまたふぁきあを失いかけて、あひるはその偶然に怖れを抱いた。

「それにもともと・・・」

あひるは途中で気づいて口を押さえる。

「あ」

父親との約束を守れなくなった原因を作ったのはふぁきあだった。

「なんだ?」
「ううん、なんでもない」

あひるは口早に言って目を逸らし、そのままふぁきあの方を見ようとしない。あひるの様子からふぁきあは察した。少し考える。聞かないほうがいいのか。だが、このままずっと避け続けるのか?・・・いや。

「・・・お前の父親のことか?」
「!」

図星を指されてあひるは飛び上がった。

「えっと、えっと、あのね・・・」

ふぁきあは落ち着いてあひるを見つめ、静かに言った。

「話してくれ、あひる。俺は知りたい。お前の父親のことを」
(・・・俺が殺した人が、どんな人だったのか・・・)

それがふぁきあにできる唯一の贖罪だという気がした。あひるは驚き、ふぁきあの顔を伺いながら少し迷っていたが、心を決めたように話し始めた。

「あのね、お父様は、ほんとはあんまりお城にはいらっしゃらなかったんだ。いつもどこかに出掛けてて・・・でも帰ってきた時には、お父様が行かれた遠い土地のお話を、いっぱい聞かせて下さったんだよ。それがとっても楽しそうで、あたしはいっつも、一緒に行きたいってお父様を困らせてた。今思うと、お仕事なんだから、そんなに楽しいことばかりじゃなかったはずなのにね・・・でも、海だけはどうしても見てみたくって、一生懸命お願いして、いつか連れてくって約束してもらったの。ずいぶん前、四、五年前だったかな?」

一度話し始めると思い出は次々に甦って止まらなかった。そうしてそれをふぁきあに聞いてもらうと、とても安らかな気持ちになれた。あひるは思いつくままに語り続けた。城の近くの湖にピクニックに行って、あひるとるうに水遊びをさせてくれたこと。小さかったあひるが、夜、雷が恐くて泣いた時、古株の侍女達が甘え癖がつくと渋るのにも関わらず、あひると一緒に寝てくれたこと。それから、あひるの母親との思い出を、とても幸せそうに話してくれたこと。

「そうか」

あひるの話を、一言も口を挟まず聞いていたふぁきあは、それだけ言って俯き、しばらく黙っていた。それからおもむろに顔を上げ、あひるの顔を真っ直ぐに見た。

「あひる。俺はお前に謝ることはできない。でも、これだけは言っておく。俺は、お前を悲しませたことを忘れない。そして、そうやって悲しみ、苦しむのはもう、俺達で終わらせたいと思ってる。もちろんこんな状況では難しいのは分かってるが、王子は平和を望んでいるし、俺も王子を援けて、そのためにできるだけの努力をする」

あひるはふぁきあをじっと見つめ返していたが、やがてふぁきあの手に自分の手を重ねて静かに微笑んだ。

「・・・うん」

熱く強い想いが体を流れた。


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