ふぁきあが昏睡から覚めた翌日の午後。侍女が水差しを持ってふぁきあの部屋を出る。あひるはまだ部屋に居た。水の入った小さな器を持って、重ねたクッションに上体を凭れさせているふぁきあに近づく。あひるが水を飲ませようとすると、ふぁきあは器を取り上げ、自分で飲もうとする。しかしまだあまり手に力が入らず、ふらついて水面が波立ち、あひるはそっと手を添えてふぁきあの口元に器を寄せる。空になった器を置くためにあひるがベッドから離れた時、ノックもなくふいにドアが開いて、黒髪の美しい女性が入ってくる。

「ローエングリン!」

(あっ、この人、舞踏会の時の・・・)

あひるの足が止まる。女性は真っ直ぐふぁきあに近づく。

「あなたったらまったく! 」

ぎゅうっと抱き締められてふぁきあは顔を顰める。

「ウルリケ、痛い・・・」
「あら、ごめんなさい。でも死ぬほど心配させたんだから、これくらいは我慢なさい。あなたが危ないって知らせが来て、心臓が止まりそうだったのよ。昨夜は一睡もできなかったわ。夜が明けてすぐに出て、やっと着いたと思ったら、昨日目が覚めたっていうじゃないの。こっちは慌てて駆けつけたっていうのに・・・しかも、ついこの間お城から館に帰ったばかりだったのに、すぐ逆戻りさせられたんですからね」
「・・・ハインリヒに会えて嬉しいんじゃないのか」
「まあ!生意気な口を利くようになったじゃないの」

口の両脇を引っ張られて痛がるふぁきあ。親しげだが恋人という雰囲気ではない。あひるは一人蚊帳の外。

(誰・・・なのかな・・・?)

ぼうっと見ていたあひるの手から持っていた器が滑り落ちた。あひるは慌ててそれを受け止めようと、前屈みに手を伸ばす。器は床の手前で辛うじて受け止めたが、同時に後ろのテーブルにぶつかって、薬瓶を倒す。その騒ぎでウルリケがあひるに気づく。

「あら」

薬瓶を元に戻して決まり悪そうにふぁきあ達の方を見たあひるに、ウルリケが膝を折る。

「御挨拶もしないで申し訳ありません、プリンセス・チュチュ。ローエングリンの姉のウルリケでございます」
「姉・・・」

つい、ほっと息をつき、慌てて挨拶を返す。

「あ、あの、はじめまして、じゃなくって、舞踏会で挨拶してるからはじめましては変で、でもお話しするのは初めてだから、えっと・・・」

ウルリケはおろおろするあひるを優しく包み込むように微笑む。

「わざわざこの子のお見舞いにいらして下さったんですか?」

あひるは両手で持っている器に目を落とし、自信無さげに小さな声で答える。

「えーっと、看病しに・・・」
「まあ、プリンセス自ら?」
「もういいって言ってるのに帰らないんだ」

驚くウルリケに向かって素っ気無く言ったふぁきあは、あひるが寂しそうにちらっとふぁきあを見たのに気づかなかった。あひるはうなだれながら、それでも遠慮がちに理由らしきものを口にする。

「だって王子に頼むって言われてるし・・・それにふぁきあが怪我したの、あたしのせいだし・・・」
「だからお前のせいじゃないって言ってるだろ」

つい、きつい口調で言い返したふぁきあをウルリケがたしなめる。

「あなたプリンセスに向かってなんて口のきき方を・・・」
「あ、いいんです」
「いいんだ」

慌てて執り成したあひるの声にふぁきあの声が重なる。思わず二人は顔を見合わせるが、ふぁきあはすぐに視線を背け、早口で話を変える。

「それよりウルリケ、まさかまた馬で来たんじゃないだろうな。いつまでもお転婆が直らないって、この間父上が嘆いてたぞ」
「だって急いでたんですもの」

あひるが興味を引かれた様子で尋ねる。

「ウルリケさんは馬に乗れるんですか?」
「ええ、子供の頃は弟よりずっと上手でしたよ。今でも短距離を走るだけなら負けないでしょう」

ウルリケは自信たっぷりにふぁきあを見やり、ふぁきあは呆れた顔で目を逸らした。

(そっか、だからふぁきあは、初めて話した時「乗ったことがないのか?」って不思議そうだったんだ・・・)

「いいなあ、あたしは全然・・・ふぁきあも教えてくれなかったし・・・」
「お前には必要ないだろ」
「ローエングリン!」

ウルリケがふぁきあを睨んで、叱る調子で名前を呼ぶ。それからあひるに向き直り、優しく笑う。

「よろしかったら私がお教えしますよ。結婚式の後、落ち着かれたら・・・」

途端に背後で空気が凍りつく気配をウルリケは感じる。ちらっと見やると完全にそっぽを向いている。あひるが、一瞬の間の後、ぎこちなく笑みを浮かべて答える。

「あ・・・うん、お願いします」

ふぁきあは黙って目を逸らしたまま。気まずい沈黙が落ちる。ふいに扉がかたりと音を立て、水差しに水を汲んできた侍女が入ってくる。あひるがほっとしてそちらを見やると、続いてまりいが入ってきて、あひるは顔を曇らす。まりいはウルリケとふぁきあに向かって軽く膝を曲げてお辞儀をしてから、あひるに声をかける。

「チュチュ様、そろそろ戻っていただかないと?お式の準備もありますし」

あひるは逃れられない現実を、諦めと共に受け入れる。

「・・・うん」

少し目を落として答えてから、ふぁきあを振り返る。

「じゃあ、ふぁきあ、また来るから」

ふぁきあは一瞬、もう来るなと言うべきかと考えるが、人前でもめるのを憚り、顔を背けたまま短く答える。

「ああ」

拒否されなかったのでとりあえずほっとしたあひるは、そのまましばらく待ったが、ふぁきあが振り向く様子はなかった。あひるが小さな靴音と共に出て行くと、ふぁきあははっとして縋るようにそちらを見るが、既にまりいが扉を閉めているところ。そのまま扉を見つめていたふぁきあは、ウルリケにじっと見られていたことに気づく。

「なんだよ」

ウルリケは真面目な顔でふぁきあを見つめ、諭すように言う。

「ローエングリン。無理に『良い子』でいなくてもいいのよ」

ふぁきあは怪訝そうな表情になる。

「は?」
「どうしてあなたはいつも我慢してしまうの?まったくじれったいわね。そんなだからいつだっていじめたくなっちゃったのよね」

腰に両手を当ててぶつぶつと呟くウルリケを見上げてふぁきあは首をかしげ、顔を顰めた。

「はあ?いったい何の話・・・」
「いいこと、ローエングリン、何があっても、誰がなんと言っても、あなたは私達の家族なんだから。いつまでも私の世話の焼ける弟よ。お父様だって、あなたが立派な騎士になったから可愛がってるわけじゃないわ。私達にとってはあなたは『ローエングリン』なのよ」
「なんだよ、改まって」
「いいから覚えておきなさい。この先あなたがどんな道を選ぼうと、私達はあなたの味方よ。いいわね?」

ふぁきあはウルリケの迫力に押されて頷く。

「ああ・・・分かった」

ウルリケは、心配そうな、けれど愛情の籠もった眼差しでわずかに微笑んだ。
 
 
 

部屋が薄暗くなってきて、ウルリケが明かりを灯す。侍女はウルリケが帰してしまったので、今はいない。ふぁきあはうとうとしながらも幾度となく扉の方に目をやる。扉がノックされる音に、ふぁきあの胸で何かが羽ばたく。自分でも予想していなかった自分の反応に、ふぁきあは隣のウルリケに感づかれるのを恐れて仏頂面で返事をする。

「どうぞ」
「遅くなってごめんね、ふぁきあ」

期待通りあひるが顔を出す。それだけで幸福感に満たされる。

「今日また来るとは思ってなかった」

嬉しそうな声にならないように苦労しつつふぁきあは答える。あひるは近寄ってきて、首を傾げて覗き込む。

「具合どう?」
「・・・そんなすぐに良くはならねぇよ」

そんな二人の遣り取りをウルリケは微笑を浮かべて見守っていたが、ふと気づいて立ち上がる。

「すみませんがチュチュ様、しばらくお願いしてもよろしいですか?折角来たので会っていきたい人もあるものですから」
「あ、はい」

そこでウルリケは少し考えた後、あひるに近づいて手を取り、あひるの目を見つめる。

「この子を・・・頼みます」

あひるは不思議そうな顔になるが、頷いて肯定の返事をする。ウルリケは優雅にお辞儀をして去る。あひるは憧れの眼差しで見送る。

「ウルリケさんって、とっても綺麗だね」
「ああ、そうらしいな」
「そうらしい、って・・・」

ふぁきあの気の無い返事に、あひるは少し不満げな顔でふぁきあを振り返った。

「子供の頃からずっと見てるからな。そんなふうに思ったことがない」
「そうなの?」

そういうものなのだろうかとも思ったが、自分は子供の頃からるうを綺麗だと思っていたことを考えると、何となく納得できない響きになった。

「ウルリケはああ見えても、気は強いし、相当なお転婆だ。求婚者もたくさんいたが、残ったのはハインリヒだけだ」

勿論、ウルリケがハインリヒと婚約したのはそれだけが理由ではないことはふぁきあにも良く分かっていたが、敢えて他の事には触れなかった。

「ハインリヒさん?」
「この間会っただろう?俺の替わりにお前の護衛についてた・・・」
「ああ、あの・・・」

穏やかで誠実そうな青年を思い出し、あの人とならお似合いかも、とあひるは思った。ふと、舞踏会で初めてウルリケを見た時の不安感が甦り、いけないと思いつつ、あひるは訊かずにはいられなかった。

「ふぁきあ・・・は?」
「え?」
「ふぁきあにはそういう人いないの?」
「・・・なんでそんな事訊く?」

そう言ったふぁきあの表情が怖くて、あひるは慌てて言い訳する。

「ああああ、あの、その、だってほら、ウルリケさんとふぁきあって、ほんとの姉弟じゃないかもしれないけど、ちょっと似てるし、ふぁきあもモテるのかなぁって・・・あっ、そうそう、ふぁきあがシディニアに来た時も、あんぬ達がカッコイイって騒いでたし、きっとそうだよね」

ふぁきあは苦笑する。

「俺にはウルリケみたいに人を惹きつけるところがない。誰も近づいて来ないさ」
「そんなことないよ、ふぁきあも笑うととっても素敵だよ。いつも笑ってればいいのに・・・」

(ならずっと俺の傍にいろよ)

思わず口から出かけた言葉をふぁきあは辛うじて飲み込む。そして代わりに一言だけ。

「・・・バカ・・・」


目次 Inhaltsverzeichnis