あひるは戦場にいた。石礫や矢が飛び交い、大勢の兵士達が槍や剣で斬り合って、次々に倒れていく。あひるは立ち竦み、一歩も動けない。その時、遥か前方に見覚えのある姿を見つけた。

(お父様!)

叫んだつもりだったのに声が出ない。両膝をつき、地面に突き立てた剣で体を支えているその人は確かにあひるの父だったが、やや俯き加減の横顔に窺える表情は、あひるの知っている父とは全く違っていた。

(怖い・・・)

あひるが震えながら見つめている間に、その人は憎悪の翳に覆い尽くされた顔を上げてよろよろと立ち上がり、あひるに背を向け、走り出した。

(待って!行かないで!)

次の瞬間、その後姿は馬上に揺られ、真っ暗な闇に向かって疾走していた。

(ダメ!やめて!)

あひるの叫びは空に消え、音にはならない。その人は剣を振り上げ、そして一瞬動きが止まったかと思うと、崩れ落ちた。

(お父様っ?!)

あひるは、望んだわけでもなかったのに、鳥が飛んでいくようにその人に近づいた。仰向けに倒れたその人の、血に塗れた、生気の無い顔は・・・

(・・・ぐっ!)
 
 
 

「いやあぁぁぁぁ!!」

あひるの叫び声が響き渡るのとほぼ同時に、大きな音を立てて扉が開き、ふぁきあが飛び込んできた。おろおろするあんぬとまりいを手で制してベッドを覗き込むと、あひるが涙を溜めた双眸を見開き、がたがたと震えていた。ふぁきあは険しい表情を崩さず、あひるの上にかがみ込み、声を掛ける。

「あひ・・・プリンセス・チュチュ?」

あひるはふぁきあを見つめ返し、震える両手を伸ばしてふぁきあの顔をしっかりと包み込んだ。ふぁきあはぴくりと体を強張らせたが、身を引くことはなく、心配そうに尋ねた。

「どうした?怖い夢でも見たのか?」

あひるは答えず、ただぽろぽろと涙を零しながらふぁきあの頬を撫でる。ふぁきあは困惑しつつも、思わず手を伸ばしてあひるの涙を拭う。

「大丈夫だ・・・怖がらなくていい・・・」

本当は抱き締めて安心させてやりたかったが、侍女達の手前、それはできない。ふぁきあはあひるの手に自分の手を重ねて外させると、あひるの胸の上に戻し、その上に自分の左手を置いた。それすらも人目を思うと憚られたが、この際気にしてはいられなかった。

「ずっとそばにいる。安心して眠れ」

その言葉に納得したのか、あひるは微かに頷き、瞼を閉じた。あんぬが椅子を勧めてくれたがふぁきあは断り、あひるがか細い寝息をたて始めるまで、右手をベッドについて、あひるの上にかがみ込んだままでいた。
 
 
 

夜明けが近づいた頃。ふぁきあはあひるのベッドに腰掛け、あひるの手を握り、あひるの寝顔を見つめたままでいた。じっと考え事をしているような表情で。あんぬとまりいはとっくに長椅子で眠り込んでいる。あひるはその後うなされる事も無く、穏やかに眠り続けた。もうそろそろ手を離しても大丈夫だろう・・・自分は、居るべき場所へ戻らなくては・・・そう思うのになかなか立ち上がれない。その時あひるが小さく声を漏らして顔を少し傾け、前髪が瞼にかかった。ふぁきあは左手を持ち上げてあひるの前髪をかき上げ、そのまま動きを止めた。次の瞬間、侍女達の方を振り返ってから、素早く唇を寄せる・・・あひるの唇にではなく、額に。ほんの一瞬、けれどしっかりと触れ、すぐに立ち上がり、足早に、振り返ることなく部屋を出た。


目次 Inhaltsverzeichnis