四月



 

「・・・おい」

彼女が驚いたようにさっと振り向き、ぱあっと顔を輝かせた。

「ザックス!早かった!」

その声があんまり嬉しそうで、彼はそれまでの憤懣をぶつけることができなくなってしまった。彼女は岸辺の石に腰掛けたまま、首をひねって無邪気な笑顔で彼を見上げている。彼は大股に歩み寄りながら、ぶつぶつと呟いた。

「なんでこんなとこにいるんだ?けっこう捜したんだぞ」

その彼を偶然見かけた近所の粉屋の内儀が、彼女は山の猟師小屋へ行くと言っていたと教えてくれなければ、彼は今も妻を捜して町中をうろうろし、皆の失笑を買っていたことだろう。

「うん、ごめんなさい、あんまり気持ちいいお天気だったし、このところおじいさんの顔見てなかったから。それにザックス、今日は遅くなるって言ってたから、ちょっとゆっくりしてた・・・」

彼女が腰掛けている平たい石のすぐ脇の草むらに腰を下ろすと、ちょうど肩の高さが同じになった。足元の小さな黄色い花をよけて大きく脚を広げ、前に投げ出す。

「探してた材料がわりとすぐ見つかったんだ」
「そうなの?良かったね」

彼女が微笑んでそっと寄り添い、彼の肩に頭をもたせかける。そのまましばらく二人で黙って湖を眺めていた。湖の周りはすっかり雪も溶け、黒い森にも春らしい彩りがそこかしこに萌え出ている。やや霞がかった青い空に、遠く、白い峰が、夕暮れ前の柔らかな日差しに輝いていた。ややあって彼はぽつりと尋ねた。

「あっちのこと、考えてたのか?」
 
 

お気に入りだった場所に座り、湖の向こうの、雪の消え残る連嶺をじっと見つめている彼女の姿を見た時、彼は心臓を絞り上げられるような気がした。傷ついて一羽だけ取り残され、故郷に帰り損ねた渡り鳥のように見えた。何と声をかけるべきか分からず、結局さっきみたいなぶっきらぼうな言い方になってしまった。
 
 

彼女はわずかな間の後、彼にもたれたままゆっくりと首を振った。

「ううん」
「でも・・・」
「そうだけど、そうじゃない」

彼女が静かに頭を起こし、美しい顔を彼に向けた。

「ただ、思い出してたの。あれからもう半年以上になるんだなぁって」

深い蒼の瞳は、いつもと変わらず、湖に沈む無数の銀の粒のようなきらめきを帯びて澄み切り、何の曇りも迷いも見えなかった。

「そう・・・か」

南から吹く風が、針葉樹の葉をざわめかせて湖面を渡り、彼女の柔らかな羽毛のようなおくれ毛をふわりと揺らして通り過ぎていった。

・・・言わなきゃな。

彼はごくりと唾を呑み込んだ。

「心配だろ?向こうのこと・・・お前の家族とか・・・お前がいなくなって、きっと悲しんでるよな。・・・俺、お前をこっちに引き留めようって決めてから、そのことを一度も考えなかった・・・」

彼女は何も答えず、彼を見つめ返している。妙に気が急き、早口で言葉を継いだ。

「お前を帰してやることはできねぇが、でも、どうにかして、お前が無事でいるって知らせる方法が・・・」
「それはダメ」

きっぱりと拒否されて彼は驚き、いぶかしげに首をかしげて彼女を見た。

「なんでだ?だって・・・」
「それは、王様との約束にそむくことになるから」

あっと思った。

「それに・・・」

言いよどんだ彼女が再び話し出すのを彼は待ったが、彼女は足元の萌黄の若草に目を落としたきり、動かなくなってしまった。

「それに、何だ?」

促してみたが、彼女が口を開く気配は無い。彼は思い切って訊いてみた。

「・・・話してくれねぇか?お前の家族のこととか・・・その、お前の婚約者だったヤツのこととか・・・」

困ったように彼を見る彼女に、彼は慌てて、すぐさま質問を撤回した。

「いや、イヤだったら別にいいんだ、無理に言わなくても、思い出したくないならそれで。聞いたからって何が変わるわけでもねぇんだし・・・」

彼女がつと顔を逸らし、囁くような声で呟いた。

「・・・それに、私がいなくなって悲しんでるかどうかは、分からない」
「はあ?何言ってんだ?」

お前みたいに可愛い娘を失くして悲しまねぇわけがねぇだろう?そう続けかけた彼は、そっと首を振る彼女の表情を見て口をつぐんだ。そのままじっと見つめていると、しばらくして彼女は顔を上げ、束の間、彼の表情を探るように見つめた。そうして、何か心を決めたようにうなずいた。

「腹違いの兄が二人。二人とも、私が生まれる前に結婚して、家族がある」
「親は?」

彼女は黙って首を振った。

「そっか。悪ぃ・・・」
「ううん」

気まずさをごまかすように彼は軽く咳払いし、しどろもどろに言葉を連ねた。

「お前の、その、着てたものも悪いものじゃなかったし、物腰やなんかも、なんて言うか、ちゃんとしてて・・・てっきりお前は、両親揃ってて苦労しない暮らしだったのかと・・・」

彼女の微笑がかすかにひきつり、彼はふと気になった。

「そういやお前んちの仕事は何だったんだ?兄さん達は?」

数瞬のためらいの後に彼女は答えた。

「・・・騎士」
「騎士?!貴族か?!お前・・・」

声が跳ね上がり、つい怒鳴るような口調になってしまった。彼女が苦笑いのような表情を浮かべて首を振る。

「だって親父や兄貴が騎士ってことは・・・」
「半分はそうだって言えたかも。私のお母さんはお父さんと結婚してなかったけど、でも、もし、お父さんがちゃんと本当にお父さんだったら。・・・それに騎士って言っても・・・」

後の方は聞いてなかった。

そうか、それでか。

「俺がおふくろのこと話したから・・・それで黙ってたんだな?おふくろが俺を捨てて貴族の囲われ者になったから、お前が貴族の私生児だって知ったら、俺がいい気はしないと思って・・・」

それは初めて雪が積もった寒い朝だった。 ふとしたはずみに古い記憶が蘇り、彼は、つい彼女に打ち明けてしまったのだ。

「けど、あん時に言ったろ?俺はもう、おふくろを恨んじゃいないって。今ではおふくろの気持ちも分かるって」

毎日、姑とのいさかいが絶えず、夫は事なかれ主義の無関心。思うままに子供を慈しむこともできず―そう、彼はその時になって思い出していた、母親が自分を抱き締めようとするたびにいつも祖母に妨げられたことを―結局、子供と接するのは叱る時だけ。そんなふうに、誰からも愛されていないと感じながら暮らすのが、どんなに辛くてみじめか、よく分かるから。

だが彼女が何か返事をしかけた時、彼は、さっきの彼女の妙な言い回しに気づいた。押し止めるように片手を彼女の唇の前にかざして再び遮る。

「・・・待てよ、本当にお父さんだったら、ってのは?」
「これ」

彼女は言いかけていた言葉を呑み込み、お下げに編んだ黒くつややかな髪を手にとって彼に示した。

「私のお母さんの髪は蜂蜜色。お父さんも。私が生まれたのはお母さんがお父さんに拾われた後で、お父さんは私を自分の子供として扱ってくれてたけど・・・でも、私は誰にも似てない。たぶん、本当のお父さん以外は」

何と言っていいか分からなかった。

「お母さんは、六年前に病気で死んでしまったけれど、本当のお父さんのことは最後まで教えてくれなかった。私も訊かなかった。だって私のお父さんはすごく優しくて、いい人で・・・そのお父さんだけで充分だったから」

はるか空の彼方に目をやり、彼女は懐かしそうに微笑んだ。

「お父さんは、とっても私を愛してくれた。歳をとってからもうけたたった一人の女の子だから、可愛くてしょうがないんだって言って。ずっと手元に置いておきたいって、縁談もみんな断ってたんだけど、おととし、亡くなる直前に、私のこと心配して、婚約を整えてくれて・・・私は一年間の喪が明けたら、お父さんが残してくれたかなりの遺産と一緒に、近くの地主の息子のところへ嫁ぐはずだったの」

つまりそいつが例の『婚約者』というわけだ。自分で尋ねておいて理不尽だとは思ったが、一瞬、胸がむかつくのは抑えられなかった。 彼女自身と持参金と、そいつにとっては、いったいどっちが魅力だったんだ?

「お兄さん達にとっては、納得し難かったと思う。庶出の、しかも、ほんとにお父さんの子供かどうか怪しい私にそこまでするのは。だけど、それでも遺言通り私を嫁がせてくれようとしてた」

彼女はそこで視線を落とし、一つ溜息をついた。

「でもね・・・たぶん、私がいなくなっても、それほどショックは受けなかったんじゃないかって気がするの・・・それに私を待ってもいないと思う。友達は悲しませてしまったかもしれないけど、でも、もうあきらめてるだろうし、あの人は・・・あの人も、今さら私の話を聞いても、たぶん、困るだけだろうから・・・だから、何も知らせない方がいい。このままで」

彼は再びまっすぐ彼に向けられた澄んだ瞳を―その穏やかな落ち着いた表情を注意深く見つめ、そして言った。

「・・・わかった」

凪いだ温かな空気の中に、彼女がほっと息を洩らすのが感じられた。彼女の膝に手を伸ばし、その上に軽く投げ出されていた小さな手をそっと握った。

「俺達はここで家族をつくろう。新しく、俺達自身の家族を」

微笑んだ彼女の柔らかな唇に吸い寄せられかけた時、背後から呼ばれた。

「レーネ。ザックス」

またかよ。

低く不機嫌な唸り声を上げながらも、顔を廻らせて怒鳴るように返事する。

「なんだ?」
「そろそろ食事にせんと、帰るのが遅くなるぞ」

彼は彼女に向き直り、片方の眉を上げて見せた。老人は彼らが夕食を一緒に摂るものと決めてかかっていたが、彼らは二人だけに分かる微笑でそっと笑み交わしただけで、異議は唱えなかった。

「今行く」

彼女に手を貸してゆっくりと立ち上がらせる。彼女はスカートの後ろを両手で叩いて埃を払い、彼を見上げた。その顔にいたずらっぽい表情が浮かんだと思う間もなく、彼女はさっと彼の頭を引き寄せて顎にキスし、にっこり笑った。


 

 続き Fortsetzung

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