四月付録



 

それは初めて雪が積もった寒い朝だった。
 
 

いつものように手を伸ばして柔らかな温もりをまさぐろうとした彼は、ひんやりしたシーツの感触に跳ね起きた。背筋にぞくっと寒気が走り、頭が勝手に古い記憶を再現する・・・母親がいなくなってしまったと―置いて行かれてしまったと知った時のことを。裸のまま寝室から飛び出した彼は、勝手口から台所に入って来た彼女と衝突しかけた。

「・・・ザックス?」

一瞬、度肝を抜かれたように立ちすくんだ彼女が、頬を染め、首をかしげて苦笑する。彼は自分の格好を気にもせず、さっと手を伸ばすと無言で彼女を掻き抱き、ぎゅっと力をこめた。冷えてごわごわした布の感触になぜか泣きそうな気持ちになり、咽喉の奥で低く唸った。

「ザックス?何?どうかした?」

全力疾走したように激しく打つ彼の動悸を感じたのだろうか、様子がおかしいと気づいた彼女が、毛深い胸板に頭を押し付けられたまま、くぐもった声で心配そうに尋ねた。

「・・・どこに行ってた?」

やっと出た声は奇妙に掠れていたが、なんとか震えなかった・・・と思う。彼女はもがいて頭を起こし、彼を見上げた。

「水を汲みに。今朝はとっても寒いから、泉が凍ってるかも、って思って。もし凍ってたら、時間がかかるでしょ?だから早めに行ったんだけど・・・待った?」

見下ろすと、ほっそりした手に握られた古い木桶がやっと目に入った。思わず熱い溜息が洩れる。彼女が長い睫をしばたたかせて微笑んだ。

「泉は凍ってなかったけど、雪が積もってるよ。やっぱりこっちの方が早い、ね?まだそんな、歩きにくくはないけれど、つい見とれちゃって、ちょっと遅くなっちゃったかも・・・」

きらめきながら彼を包む、不思議と温かな湖の色。切ない安堵が胸に押し寄せ、ぽろりと心の壁が剥がれた。

「・・・お前も行っちまったかと・・・」
「『お前も』?」

しまった。彼女は澄んだ瞳をじっと見開いて彼を見ている。ごまかしはききそうにない。それに今はなぜか心が無防備になっていて、むしろ彼女に聞いてもらいたい気分だった。・・・あとで正気に返った時に後悔するかもしれねぇが。

「おふくろが・・・」

彼女の手から木桶を取りあげて床に下ろしながら、ぼそりと呟いた。

「おふくろが出てったのが、ちょうど、こんな日だったんだ。クリスマス前の・・・」

氷のように冷え切った小さな手を自分の分厚い手で包み込み、ちらと上目遣いに彼女を見た。彼女が何も言わず、ただ目を逸らさずに彼を見つめていてくれるのがありがたかった。彼は咳払いして再び、今度はそっと、彼女の肩を抱きなおした。膨らみ始めたお腹は、幾重にも着込んだ服の上からはよくわからない。だが、襟足から立ち上る女っぽい匂いは、前より少しきつくなった気がする。彼は雪のようになめらかなうなじに鼻を摺り寄せて目を閉じた。

「俺はまだ五つか六つか、そんくらいで・・・その頃でもおふくろは俺をかまってくれたことなんかめったになかった。けど俺を叱る時だけは、俺を見て、俺に向かってしゃべってくれる。俺はそれが嬉しくて、悪さばっかりしては、おふくろをいらつかせてた。俺はその朝も狸寝入りして、おふくろが小言を言いながら起こしに来てくれるのを、わくわくしながら待ってたんだ。前の日にけっこう雪が降ってたから、きっと今朝は積もってるだろう、そしたらおふくろと一緒に出かけて、いつもと違ういたずらができる、なんて考えながら。バカみてぇだよな」

彼は小さくひきつれたような笑い声をたてた。彼女が彼の背中に回した手を上げて、肩の後ろの髪をそっと梳いてくれる。ふっと首の力が抜け、頭がかくりと垂れた。彼は彼女の細い肩に頬をのせ―心もゆだねた。

「結局おふくろは二度と俺の前に現れることはなかった。昼近くまで待ってた俺は、とうとう我慢できなくなって起き出して・・・そんでやっと、待っても無駄だってことを知ったんだ。・・・ばあちゃんが俺に言った。あのあばずれはお前を置いて行っちまった、もう戻ってこない、あんな女はいない方がいい、って。親父は何も言わなかったよ。俺には、何が起こったのか、よく理解できなかった。俺は、俺が悪い子だったからだろうか、俺があんまりにも言うことを聞かねぇから、それでおふくろは怒っていなくなっちまったんだろうか、そんならちゃんと謝っていい子になるって約束すれば、戻ってきてくれるんだろうか、って思って・・・知ってる限りの場所を一生懸命探して、探して・・・日が暮れて何も見えなくなるまで、ずっと・・・雪はとっくに溶けかけてて、俺はぬかるみで転んで、全身泥まみれで家に戻った。でも叱ってくれる人は・・・もう・・・」

痙攣したようにひくひくと震える背中の筋肉を、小さな手が静かに撫でてくれる。そのほのかな温もりが少しずつ体に沁み込み、心の隅に凍りついていた泥だらけの冷たい塊をじわじわと溶かしていく・・・そう、感じた。

彼は深く息を吸い込み、それからゆっくりと吐き出した。

「そのあとかなり長い間、俺は誰にも叱られたことがなかった。親父は、俺だけじゃなくて、誰に対しても無関心だったし、ばあちゃんは俺を甘やかし放題で、叱ったりすることなんか絶対になかった。周りの他の誰も、俺と関わりたくねぇってのが見え見えで、あれこれ非難がましく言うくせに、面と向かって俺をたしなめようってヤツは一人もいなかった・・・じいさん以外は。次に俺を叱ったのはじいさんさ」

その時のことを思い出して、つい口許に苦笑が浮かんだ。

「おふくろがいなくなって、何年も経ってからだ。俺は山ん中で、鳥の巣を採ろうとして木から落ちて、足をくじいて動けなくなっちまってな。だんだん寒くなってくるし、腹は減るし、それに夜中にでもならなきゃ誰も俺を探しにきたりしねぇって分かってたから、めちゃくちゃ惨めな気分だった。そこに偶然じいさんが通りかかって・・・それがじいさんに会った最初だったんだが、すげぇむっつりした無愛想な顔で手当てしてくれて、みっちり説教したあげく、俺をおぶって家まで連れてってくれた。痛ぇし、怖ぇし、さんざんさ」

彼は笑ってみせたが、それは咽喉の奥で奇妙にひしゃげた。

「けど俺はなんでか・・・なんでだろうな、それからじいさんとこに入り浸りになっちまって・・・もっともじいさんに叱られたのもそん時くらいで、その後俺が行っても、じいさんは、ほとんど俺に構うことはなかった。追い返されもしなかったけどな。まあ、怒らせると怖ぇから、俺もおとなしくしてたってのもあるだろうが・・・あそこは妙に居心地が良くって、たぶん俺はあそこを・・・俺の逃げ場所を、失くしたくないって思ってたんだろう」

温かなうなじに顔を埋めたまま、小さな背中を抱きしめた。彼女は手を止めず、黙って彼の背を撫で続けてくれた。

「俺はただ・・・おふくろにも、他の誰にも・・・俺を見てほしかっただけなんだよな。俺自身を。俺は幼稚で、愚かだったが、悪気があったわけじゃない。ただ、分かってなかっただけだったんだ。想いを伝えるには、下手なはかりごとなんかせず、自分の心を素直に、恐れずに、さらさなきゃならないんだってことを・・・」

彼女は何も言わなかったが、それで良かった。何も言わなくても彼女が彼の言葉をちゃんと受け止めてくれているのはよく分かっていたし、彼女が聞いていてくれる、ただそれだけで心が安らいだ。ゆっくりと、筋肉の緊張をほぐすように往復する手の心地良さに、彼はそのまましばし身をゆだねた。しばらくして彼が頭を起こし、ぎこちなく笑みを浮かべると、彼女は柔らかな眼差しで静かに微笑み返してくれた。

ああ、この顔を見ると溶けそうになる。・・・こいつに逢えて、本当に良かった。

「このことは誰にも、じいさんにもしゃべったことはねぇ、お前だけだ」

彼女はうなずき、それからゆっくりと穏やかな声で尋ねた。

「お母さんは・・・今は?」
「さあな。どっかの貴族の目に止まって、一緒に都に行ったって話だが、それも大昔のことで、それきり噂も聞かねぇからな。あのあと、探そうと思ったこともねぇし」

肩をすくめて答えた。

「いいんだ。俺ぁもう、おふくろを恨んじゃいねぇ」

それはただ彼女を心配させないために、深く考えずに言っただけだった。が、その言葉を口にした彼は、それが強がりではなく、事実であることに気づいた。

「ああ・・・そう、そうなんだ。そりゃ最初は悲しくて、悔しくて、何でこんなことができるんだって腹も立った。それから俺は、おふくろの記憶を消し去り、独りで生きることに慣れて、それを乗り越えた。けど、今になってみれば、色んなことが分かるんだ・・・おふくろだけが悪かったんじゃねぇ、みんなそれぞれに落ち度があったんだって。だからおふくろが、自分で自分の人生を掴んだんなら、それでいいさ」

彼女は彼の表情を注意深く見つめていたが、やがて納得したように小さくうなずいた。

「うん。そうだね」

ほっと息を吐いて微笑み合い、彼は胸にひっかかっていたものがすとんと落ちるような感触を覚えると同時に、ふいに自分が今までつまらない事にくよくよこだわっていたような気がして、恥ずかしくなった。

「・・・悪ぃ、俺、こんなカッコで飛び出して、お前の邪魔して・・・」

極り悪げに身を引こうとした彼を、細い腕がきゅっと締まって引き止めた。豊かな胸のふくらみがぎゅっとみぞおちに押し付けられ、心臓がどきりと飛び跳ねる。彼女が小首をかしげ、ためらいがちに彼を覗き込んだ。

「ザックス?」
「ん?」
「もしお母さんがここにいたら・・・お父さん達が生きてたら、私を紹介してくれた?」
「はあ?」

彼はあんぐりと口を開けて彼女を見返した。あまりに突拍子もない質問に、さっきまで感じていた羞恥もどこかに消しとんだ。

「何言ってんだ?当たり前だろ?俺の大事な嫁さん紹介しないでどうすんだよ」

彼女は嬉しそうに頬を染め、蒼い瞳の中の銀の星をきらめかせた。

「ありがとう」
「バカ」

腕の中に彼女の恥じらうような笑顔を見ただけで、体が熱くなる。心臓が見苦しく高鳴るのを気取られぬよう、彼は早口できっぱりと告げた。

「明日から水汲みは俺が行く。あの泉は凍っちまうことはまずねぇが、道が斜面になってて、滑って危ないからな」
「だいじょう・・・」
「俺が行く。いいな?」

強引に決めつけた彼に、彼女はちょっと微笑んで素直にうなずいた。

「うん。ありがとう」

たおやかな腕が彼を抱きしめ、甘い匂いが脳髄を直撃する。裸の全身をぶるっと震えが走った。さっきから腹の底で怪しい気配を見せていた疼きがあからさまに激しさを増し、血流とともにどくどくと体を駆け巡った。奇妙に咽喉が渇き、彼はごくりと唾を飲んで身じろぎした。

「・・・体が冷えた」
「あっ、すぐに火をおこすね。ザックスも早く服着て・・・」

腕から抜け出て背を向けようとする彼女を掴んで引き寄せ、彼女が彼の意図を理解する前に素早く抱き上げた。

「こっちの方が早い」
「えっ?・・・あっ」

柔らかな唇を強く唇で塞ぎ、そのまま有無を言わさず大股で隣の部屋に戻った。


 

 続き Fortsetzung

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