五月



 

どれほどの苦しみを経て手にしたものであろうと、そしてそれをどれほど大切にしていようと、失う時は一瞬だ。 彼はそれを思い知らされた。これ以上ないほど残酷な方法で。
 
 
 

彼は幸福の絶頂にいた。全てがうまくいっている。彼女のために真面目に仕事をするようになり、もともと器用だった彼の仕事の評判は、近在の町でも日を追うごとに良くなってきた。懸念していた周囲との関係でも、酒場の亭主をぶちのめした以外、特に問題は起こっていない。どうやら亭主は彼の乱暴ぶりをあちこち触れ回ったようだが、それで彼の評判が悪くなるということも無く―乱暴なのはもとからだったのだから、それ以上悪くなりようがない―むしろ彼の真剣さが知れ渡り、彼女にちょっかいを出そうという気を起こす男も二度と現れなかった。彼は次第に町の人々から信頼され、重んじられるようになり、その妻である彼女も敬意を持って受け入れられていた。それが実は、彼女が町の人々のために献身的に尽くし、さらに彼に対する絶大な信頼を常にはっきり示していたお陰で、はみ出し者だった自分までもが人々に認められるようになったのだということなど、彼には知る由もなかった。彼はそれらを全て、自分が彼女を守っているからだと信じ込んでいた。 むろん、そんなふうに彼を変えてくれたのが彼女だというのは、疑いようもなかったが。
 
 
 

彼女が本来は積極的な性格だということは、初めて彼女を抱く前からなんとなく気づいていた。だが日が経つにつれ、実際に彼女が、出逢った頃の彼女からは想像もつかないくらい、前向きで行動的だということがはっきり分かってきた。
 
 

年が明けてしばらくしたある日の夕方、彼女と町を歩いていると、商売女が―つまり彼の昔の女が、ふざけて彼に抱きつき、べったりとキスをしてきたことがあった。とっさのことで彼はよけきれず、慌てて女を引き剥がして突き放した。周囲の好奇の視線が―あるいは嘲笑の視線が―降り注ぐ。彼が女を怒鳴りつけようとした瞬間、彼女が横から飛び出し、まるで旧知の友人にするように女を抱き締め、頬にキスして親しげに笑いかけた。

「こんにちは、私はレーネ。よろしく。新年おめでとう」

女はもちろん、彼もびっくりして、あんぐりと口を開けたまま彼女を見つめた。彼女が首をかしげて彼を見た。

「『新年おめでとう』はもう言わない?それとも『こんにちは』が変?」

女が慌てて挨拶を返す頃には、周りの雰囲気までがらりと変わっていた。その後、彼女は目当てのハーブを手に入れるのを女に手伝ってもらい、手を振って別れた時には本当に友達になっていた。
 
 
 

彼女は常に明るく、愛らしく、そして優しかった。ただ意外に頑固で、自分を曲げない気の強さもあり、たまに彼女のそういう面に手を焼かされることもあったが、だいたいにおいて彼女は理知的で辛抱強く、思いやり深かった。彼は彼女と暮らす中で、数え切れないほどのちょっとした驚きと喜びを重ねていった。彼女を知るほどに、愛しく思う気持ちが増した。妊娠の影響で―と産婆のゼンタは言っていた―精神的に不安定になったこともあったが、最近は落ち着いている。結婚当初は食も進まず、食べてもほとんど吐いているように見えたが、今は元通り以上の食欲があるようだ。この間など、彼はつい口を滑らせてしまった。

「よく食うな、お前」

彼女は褒められたと思ったようで、にこにこ笑って大きくうなずいた。

「そう。とても元気」
「・・・そりゃ良かった」

そうして鼻歌を歌いながら大きなお腹を揺らしてくるくると働き、近所からの頼み事も、嫌な顔一つせずこなす。はたから見ていても大変だろうと思うのだが、彼女は疲れた様子も見せない。

「子供がいるんだから無理するな」

彼女の体を気遣い、彼はしばしば注意したが、彼女はいつも笑顔で答えた。

「大丈夫。私が意外としぶといの、知ってるでしょ」

そう言ってすんなりした首を伸ばし、彼の顎の下にキスをしてくれる。あっという間に欲望に火を点けられ、思わず抱き寄せて柔らかな唇を貪る。仕事を邪魔された彼女は、笑いながら身を捩って彼の抱擁から逃れようとするが、それでもたいていすぐに彼に応えて熱いキスを返してくれた。たまに他愛ないケンカをすることもあったが、そんな状態にはどちらも長く耐えられず、どちらからともなく謝り、仲直りの印に唇を合わせ―時にはそのまま体も合わせた。
 
 

心から愛されるという幸せを、彼はものごころついて以来初めて味わっていた。彼女は尽きることの無い喜びで彼を潤してくれる幸福の泉だった。彼女の傍からいっときも離れたくなかった。彼女は彼を、内に抱え込んだ暗闇ごと抱き締め、天使が掲げる道標のように、優しい明かりを投げかけてくれた。彼女と一緒なら、光の中を歩いて行ける。彼女がいなかった時どうだったかなど、もう思い出すこともなかったし、彼女のいない世界など、想像もできなかった。彼女を苦しみに遭わせないためなら、全ての苦しみを自分が被ってもかまわない。彼は本気でそう思っていた。

自分がこれほど満たされ、幸福になれると、どうして想像できただろう?町の人々が羨ましそうに彼らを見るにつけ、誇らしい気持ちでいっぱいになる。その上もうすぐ子供も生まれるのだ。彼はもうすっかり、生まれてくるのは自分の子だと思っていた。
 
 
 

あれは雪が溶け始める頃のことだったろうか。恍惚として彼にもたれかかる彼女を後ろから抱きかかえたまま―その頃にはそうやって愛し合うことが多くなっていた―彼はふっくらした重そうなお腹を撫で、溜息交じりに言った。

「だいぶ膨らんできたな」

彼女がちょっと不安そうに首をかしげた。

「みっともない?イヤ?」

上目遣いに彼を窺う様子があまりに可愛らしくて、思わず笑みがこぼれた。

「そんなわけねぇだろ。ただなんて言うか・・・ほんとに子供が入ってるんだなと思ってさ。だんだん大きくなってるんだって思うと・・・不思議な気がする」
「うん。私も」

彼女が愛しげに、腹に置かれた彼の手にそっと手を重ねる。しっくりと、溶け合うように重なる肌のぬくもりが心にせまり、二人が一つだと、強く感じた。わずかに前に傾けられたうなじに横から唇を寄せ、汗ばんだ肌を吸うと、彼女がくすぐったげに身を捩った。

「赤ん坊って動くんだろ?すごいよな、生まれる前から動いてるなんて」
「うん、でも、まだ・・・あっ」

彼女が急に体をこわばらせ、彼はぎくりとして、すんなりした肩の方へ這い下りかけていた唇を止めた。

「な、なんだ?どうかしたか?」
「今・・・動いたかも・・・」
「ほんとに?!」

そんなことがあるんだろうか?そういう話をした途端にそんなタイミング良く動き始めるなんて?

彼女がくすくす笑った。

「きっと私達が話してるのが聞こえたんじゃない?自分のこと話してるって分かったから、それで返事してくれたのかも」
「ああ・・・そうかもな」

せり出したふくらみを下から支えるようにそっと手を動かした。確かな温もりと重みに、限りない愛おしさが込み上げる。

「おい、聞こえるか?お前の親父だぞ。俺にも挨拶してくれよ」
「・・・ザックス・・・」

澄んだ鈴の音のような声が彼の名を鳴らして余韻を残す。潤んだ銀蒼の瞳を見つめ返し、そっと微笑み合った。
 
 
 

ああ、早く会いてぇなぁ。俺の最初の子供。ぜいたくは言わねぇが、できれば女の子がいい。きっとあいつに良く似た黒髪の美人だ。思い切り甘やかしてやろう。町の男どもなんざ、絶対近づけないぞ。名前は・・・

「ザックス!何やってんだい!早く家に戻んな!」

悲鳴のような金切り声が甘い白昼夢を引き裂いた。彼の家がある方角から、粉屋の内儀が血相を変えて走ってくるのが見える。

「レーネが!!」

彼は無我夢中で走り出した。
 
 
 
 
 

「急だったんだよ。それまで普通に話してたのにさ、突然二つ折りになってしゃがみ込んじまって・・・」

粉屋の内儀がうろたえたネズミのように部屋の中をおろおろと歩き回っている。それを除けば、町外れの小さな家の中は動くものもなく、ひっそりと静まり返っていた。彼は床に膝をついて冷たい手を握り、血の気の失せた顔を見つめたまま、声を出すこともできなかった。彼女は、彼が戻った時には既に意識が無かった。そして数時間もしないうちに彼らの子供は冷たくなって布にくるまれ、彼が早々に用意していた赤ん坊用の眠り籠に安置された。呆然とした彼が何もできずにいる間に、親切な内儀が、小さな―小さすぎる―体を洗い、きれいな布でしっかりと包んでくれたらしい。

「シュテファンは今どこにいるのかねぇ。早くゼンタが見つかるといいけどねぇ・・・」

産婆のゼンタはどこだかの町のお産に呼ばれて留守だった。彼は酔っ払って寝ていたシュテファンを叩き起こし―仲間内で彼だけが馬車を持っていたので―すぐにゼンタを連れて来なければぶちのめすと脅して迎えに行かせた。そうしている間にも出血は止まらず、呻き、苦しむ彼女の体は、どんどん冷たく、青白くなっていく。そんな彼女を目の前で見ながら、彼は何一つできなかった。本当に、何一つ。
 
 
 

シュテファンは命が惜しかったので、言われたとおり馬車を飛ばして、翌朝までにはゼンタを連れて戻ってきた。必死の努力によって出血は止まった。が、全ては手遅れだった。神さえも自分を見捨てたことを、彼は知った。
 
 
 

「そんな!」

ぼんやりした頭に、非難を帯びた、押し殺した叫び声が隣の部屋から洩れ聞こえてきた。

「レーネはとっくにこっちの人間だよ。終油も受けさせてやれないなんて・・・」

悔しそうな粉屋の内儀の声にシュテファンのひそひそ声が答える。

「それどころか、墓地への埋葬もダメだって。レーネはこっちに来てまだ一年も経ってないだろ。ここの信者とは認められないって言うんだ。子供の方は、ザックスの子供だから、まあいいだろうって・・・」
「赤ん坊と母親を離れ離れにしろってのかい?!そんなことできるもんか!」
「けど、坊さんがどうしてもうんって言わないんだよ。なんか文句言ったヤツもいるらしくてさ。ほら、レーネってさ、その、商売女なんかにも分けへだてなく接してただろ、だからあんまりよく思ってなかったヤツらもいたらしくて・・・」
「ああまったく、どうすりゃいいんだろうね。国王様にお願いしようにも、今は都においでだし・・・」

それ以上は聞かなかった。聞く必要も無かった。


 

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