細く揺れる蝋燭の炎が、彼女の蒼白な顔に、弱々しい、淡い黄色の光を投げかけている。彼女はもう、身じろぎもしない。彼の呼びかけにも、何の反応も示さない。息は細すぎて感じ取れなくなってしまったし、胸も動いているようには見えない。ただ時折、既にひっそりと逝ってしまったのではないかと思わされる頃になって、唇がかすかに動き、何かうわごとをささやく・・・彼には分からない言葉で。彼はベッドの隅、彼女の足元に座り込み、壁に頭をもたせかけてぼんやりと彼女を眺めていた。周りにはもう誰もいない。話を聞いて駆けつけてきた者も含めて全員、彼が追い出してしまった。どうせもう何もできない・・・何もかも、現実とは思えなかった。
 
 

ふと扉の軋む音がし、しばらくして視界に、白い眉をひそめて厳しい表情で彼女の方へ身を屈める老人の姿が入った。しわだらけの日焼けした顔からさっと血の気がひく。しゃべるつもりは全くなかったが、彼の咽喉から、耐えかねたように乾いた声が洩れた。

「・・・どうしても、起きてくれねぇんだ・・・俺が呼んでも答えねぇ。きっと俺のことも忘れちまったんだ」

その時、彼女の唇が動いた。

「... chéri ...... Mon chéri ......」

彼は顔をしかめ、苦しげに吐き捨てた。

「ずっと同じ言葉だ。俺にはわからねぇ。こいつが何を言ってるのか・・・どうして欲しいのか!」

拳を叩きつけた勢いで壁がみしりと揺れた。老人が静かに顔を上げた。

「お前を呼んでいるんだ」

ぎろりと睨むように向けられた疑わしげな眼差しを、老人はたじろぎもせず真っ直ぐ見返した。

「お前だよ、ザックス」

彼の顔に一瞬の戸惑いと、それから怒りに似た表情が浮かんだ。

「どう・・・して・・・」

押し殺したように声が掠れ、震える。だが老人はただ、首を横に振った。

「レーネはお前を呼んでいる。この子が求めているのはお前だけだ。最後まで傍にいてやれ」
「いいかげんなことを言わねぇでくれ!」

ベッドから飛び降り、圧し掛かるように怒鳴った彼にも、老人はひるまなかった。

「よく聴け、わしは・・・」
「同情なんかいらねぇ!俺が欲しいのはこいつだ!こいつだけなんだ!」

片手で鋭く空を薙ぎ、彼は叫んだ。

「出て行け!!」

老人はいったん口を開きかけたがそのまま閉じ、静かに彼を見つめた。彼は拳を握り、震える唇を噛み締めてぎゅっと目を閉じ、がっくりと頭を垂れた。

「・・・出て行って・・・くれ・・・」
 
 

しばらく間があって、かすかに扉が軋んだ。再び訪れた静寂の中に、彼はうなだれたままじっと立ちすくんでいたが、やがて頭を上げ、のろのろと傍らを見やった。壊れた人形のようにぎくしゃくと枕元に近づき、ぎこちない動きで彼女の上に屈み込む。間近で見ると、現実を否応無く突きつけられる。絶望が全身を襲う。体中の力が抜け、半分崩れ落ちるようにがくりと膝をつき、そっと彼女の手を取った。

「レーネ・・・」

彼女は答えない。はっきりと死相の浮き出た顔を正視できず、彼は目を伏せた。

「俺の・・・」

彼女の手がかすかに動き、彼の手を握り締めた。彼の言葉が聞こえたのかどうかはわからない。ただ苦しくて、反射的に手に力が入っただけかもしれない。それでも彼は、ますますしっかりと彼女の手を包み込み、彼女の頬に額を擦り寄せた。

「レーネ・・・戻って来てくれ・・・愛してるんだ・・・レーネ・・・」

ふいに彼女の頭が動いた気がした。鈴の音のような響きが耳元をかすめる。

「・・・フィーレン・・・ダンク(どうもありがとう)・・・ザックス・・・」

彼ははっと顔を上げた。彼女のあの、銀色を帯びた美しい深い蒼の瞳が開き、彼を見つめている。まっすぐに、彼だけを。

「あ・・・レー・・・」

彼が言葉を返す間もなかった。

「ダンケ・シェーン・・・」

その言葉を最後に、たった8ヶ月の幸福は終わった。
 
 
 

夜の明けぬうちに彼は、息絶えた妻と、この世で一度も呼吸をすることのなかった―だが、もう、ちゃんと人間の姿をしていた―娘を抱えて、そっと家を出た。もう何の甲斐も無い今になっても、彼女を守りたいという気持ちだけが、残り香のように彼の体に染みついていた。誰にも彼女に触れさせたくなかった。自分達の間に、何者も入り込ませたくなかった。同情されるのもまっぴらだ。彼女にとって必要なのは彼だけのはずだ。そして彼が傍にいて欲しいと望むのも、彼女だけだった。
 
 
 

うっすらと白みかけた暁闇の中、二人の思い出の場所に辿りついた彼は、途中、老人の家の納屋から持ち出した綱で自分達を縛り、崖下に降りた。そして何の道具も無く、素手で岩だらけの谷底を掘り始めた。爪が剥がれ、頑丈な手もぼろぼろに傷つき、血が滲んだ。だがそれでも彼は黙って掘り続けた。肉体の痛みにしろ、心の痛みにしろ、何かを感じているのかどうかもよく分からなかった。彼はただ、何かに取り憑かれたように、手を動かし続けた。その作業は陽が傾くまで続き、最後に彼は、その底に愛しい人を横たえ、その胸の上に小さな体を抱かせた。自分もそこに身を投げなかった理由はただ一つ、彼らを誰の目にも―憐憫にも好奇心にも―触れさせたくなかったからだ。跡が分からぬよう、しっかりと土と石で覆った後、彼は石の隙間に、青い涙のような蕾をつけた一輪の花を挿した。彼女の白く細い指にそっと握らせるように。
 
 
 

早朝の霧の中、一人戻った家はいつもと何も変わらなかった。無意識のうちにふらふらと作業場に座り込む。台所から彼女が鼻歌を口ずさむ声が聞こえてくるような気がする・・・そう、彼女はしょっちゅう歌っていた。ナイチンゲールのようにきれいな声で。ほとんどが詞の無いものか、変な具合に詞をメロディーに押し込んだものだった。シディニアの歌なのかと訊いたら、自分で適当に作るのだと言って、恥ずかしそうに笑っていた。それが普通の光景だったのだ。つい三日前の朝までは。

突然彼は激しい怒りに駆られ、目の前の作業台上の物を、全部まとめて手で薙ぎ払った。凄まじい音を立てて工具や材料が吹っ飛び、壁際に置いてあった物にぶつかって、全てがばらばらに散乱した。混ざっていたナイフで手が切れ、鮮血が飛び散ってそれらを汚した。
 
 

なぜ運命がこれほどまでに残酷になれるのか、どうしても理解できない。彼女にはもっと幸せになる権利があったはずだ。彼女は素晴らしい人間だった。優しく、思いやりがあり、快活で、健気だった。どんな酷い目に遭っても、運命を恨まず、一生懸命に生きようとしていた。絶対に許せない。彼女の人生を狂わせた何もかも。彼は怒りに任せて辺りの物を手当たり次第に投げつけ、ひっくり返し、作業場も、台所も、家中のあらゆる場所をめちゃめちゃにした。完全に統制を失った頭の中で、誰かが囁く声がする。

口先だけの役立たず。

谷中に轟き渡るような雄叫びを上げ、彼は、彼女が横たわっていた―毎夜彼女を抱いて眠った―ベッドに突進し、全ての寝具を小さな端切れになるまで引き裂いた。彼女のために作った柔らかな枕から白い羽毛が飛び散り、部屋中に舞った。
 
 
 

彼女との生活を痕跡も留めないまでに破壊し尽くしてしまうと、彼は抜け殻のように座り込んだ。もう何もかもどうでもよかった。どうせ運命に逆らうことはできない。彼は敗北したのだ・・・運命から彼女を奪い取る戦いに。どこかで誰かの勝ち誇った笑い声が聞こえた気がした。だがそれもどうでもいい。胸の中で、息が止まりそうな激痛と共に、一つの言葉だけが葬送の鐘のようにこだましていた。

守れなかった。

彼の光は消えた。


 

 続き Fortsetzung

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