八月



 
視界の隅をまた太ったドブ色の塊が走り過ぎた。どうやらここのネズミは食い物には不自由してねぇらしい。わずかに床にこぼれた硬いパン屑には見向きもしやしねぇ。つまりこんな山ん中でも、ここには充分に物資が行き届いてて、満たされた環境で安穏と暮らしてるってわけだ・・・
 
 
 
 
 

「16?!」
「か、17か。そんなもんだってよ」

聞きたくもなかったが、その声は勝手に耳に入ってきた。

「10代だとは思ってたが、16なんて、まだとさかも生えたてのひよっこじゃねぇか。なんでそんで実戦の指揮なんか任されてるんだ?騎士にだってなりたてだろう?」

酒場は酔って騒ぐ下っ端の兵隊仲間でいっぱいで、隣の声もろくに聞こえないくらいにうるさい。その喧騒をすかして、彼は素っ頓狂な叫びが聞こえた方をちらと見やった。粗末な木の長テーブルの反対側の端で大声を張り上げている男は、まだ兵隊に来て2年にもならない。年もはたちかそこらだったはずだ。向かいの相方も似たようなものだ。彼から見ればいずれもひよっこに変わりはなかった。

「いや、そうじゃねぇらしい。実ぁ、こないだ伝令で行った先の町で、指揮官殿が前にいた砦のヤツらに会ったんだけどよ、そいつらが言うには、もう何度か実戦の経験もあって、大きな手柄も立てたらしい。そいつらはえらく指揮官殿のことをほめてたなぁ。なんでも王様のお気に入りだって話で・・・」
「へっ、そのお気に入りが何をやらかしてこんなところに飛ばされてきたんだか」

話の腰を折られた男は、だが気を悪くしたふうもなく、大きくうなずいた。

「そうなんだよな、そこんとこがよく分からねぇんだよ。指揮官殿はここに来る前にも作戦に失敗したことなんかいっぺんもねぇらしいし、それだけじゃなくって、なんでも、一緒に戦ってた別の部隊が取り残された時に、指揮官殿がすぐに気がついて、シディニアの奴らを、ほら、背後から挟み撃ちみたいにして、壊滅しかけた味方を救ったこともあるんだとさ。けど、そん時だって指揮官殿には何の恩賞もなくって、それでも指揮官殿は不平も不満も一言も口にしないで、その上自分の部下には働きをねぎらって褒美を与えたんだと」
「そりゃよっぽどのバカなんじゃねぇのか?」

聞き手の男が鼻先でせせら笑った。男にしなだれかかっていた酒場女が口を挟む。

「ねぇ、その騎士さんって、見た目はどうなの?イイ男?」
「さあなぁ」

男は言い渋ったが女にせっつかれて仕方なさそうに答えた。

「まぁ、女から見りゃイイ男の部類に入るかもな。異国っぽい黒髪で、お上品な顔立ちの、痩せてヘナヘナした色男さ」

新しい指揮官の、すらりとして若者らしい生気に満ちた姿が、意図せずして彼の脳裏をよぎった。女は、男の悔しまぎれのような言い方にも関わらず、興味を惹かれたようだった。

「へぇ。今度連れて来てよ。可愛がってあげるからさ。もちろん、あんたたちにもイイ思いさしてあげるよ」

向かいの男が答える。

「さて、どうだかなぁ?今度の指揮官殿は、俺達とつき合わねぇってわけじゃねぇが、こういうトコには来ねぇんじゃねぇかな。堅物っぽいから。別に妬いてるわけじゃねぇぜ」

女に腕を回した男が、これみよがしに剥き出されたふくよかな胸をまさぐりながら茶々を入れた。

「あわよくばなんて思ってるのかもしれねぇが、ちょっと相手が幼すぎるんじゃねぇか?坊やが相手じゃ、たいして貢がせられやしねぇだろうし、あっちの方だってそんなに期待できないだろ」

女はふんと鼻であしらった。

「バカねぇ、ウブな坊やにはそれなりの楽しみがあるのよ」
「ねぇあんた、もう飲まないの?なら、今夜はあたしと『上』にあがらない?」

無意識のうちに話に聞き入っていた彼の袖を、いつのまにか隣にもぐり込んでいたもつれた黒い巻毛の酒場女が引っぱり、顔を寄せてきた。彼はしなだれかかろうとするその女を乱暴に押しやった。

「寄るな。お前は俺の趣味じゃねぇ」
「なにさ、他の女はみんな抱いたくせに、あんな赤毛のチビよりあたしの方がよっぽどイイ・・・」

女が割り込んでくるまで彼の隣だった男が、憤慨する女の尻を撫で、自分の膝に引き寄せた。

「こいつは黒い髪は苦手なのさ。他はなんにも選り好みしねぇのによ、よっぽど酷い目に遭わされたんだろうさ、黒髪の女によ」
「・・・うるさい」

彼の声は炎も凍りつきそうな冷気を帯びていたが、脅された男は気にする様子もなく、機嫌を直して抱きついてくる女のスカートに手を突っ込みながらふてぶてしく言い返した。

「なんだよ、本当のことだろ。お前たぁもう何年も同じ部隊にいるが、女ならなんでも手当たり次第ってお前が、どんな美人でも黒髪だけは手を出さねぇ。こりゃ相当こっぴどくやられたとしか思えねぇじゃねぇか?もったいねぇ、黒髪の女は赤毛とおんなじくらい情熱的で具合がイイのに・・・」

いきなり立ち上がり、しどけなくはだけられた女の胸元に口を寄せている男の襟元を掴んで床に殴り倒した。女が悲鳴を上げて飛びのく。仰向けに転がった男の上に飛びかかろうとする彼の腹を、男が足で蹴り上げる。蹴りはみぞおちに入り、彼はうっと呻いて前かがみになったが、腹を押さえ、足を踏ん張って堪えた。込み上げた唾を床に吐き捨て、立ち上がろうとする男の動きを目の隅で捉えて、その顎に強烈な一撃を見舞う。吹っ飛んで背中で床をすべった男は、しかしすぐさま跳ね起きて猛烈な勢いで彼に飛びつき、二人はもんどりうって床に転がった。粗末な作りの椅子やテーブルが跳ね飛ばされ、木片や素焼きの陶器のかけらが散乱する。あっという間に野次と悲鳴で酒場中が騒然とした。

今日はツイてるぜ。

彼は内心でほくそえんだ。今日の喧嘩相手は比較的強い。もし相手が自分をのしてくれれば、朝までぐっすり眠れるというもんだ。それがダメでも、せめて痣だらけになるくらいまで殴ってくれれば、少しの間忘れることができる・・・・・・痛みを。

だが彼の期待はあっさりと裏切られた。

「やめろ!」

低いが凛とした涼やかな声が怒号と騒音を制して響き渡り、途端に酒場の中は水を打ったようにぴたりと静まり返った。

「騒ぎの元はそこか」

長靴の足音が近付いてくる。

「二人とも離れろ」

彼に馬乗りになって拳を振り上げていた男がしぶしぶ手を離して立ち上がった。彼はのろのろと身を起こしてその場であぐらをかき、そっぽを向いた。彼の喧嘩相手の方は、一応、上官に恭順の意を表して、その人物と向かい合って立ったが、彼にはそんな殊勝な態度を示す気はさらさらなかった。

「今は作戦前だ。今夜は全員、兵舎で待機するよう通達を出しておいたはずだが。聞かなかったのか?」

喧嘩相手の男が後ろめたそうに言い訳する。

「まだ『今夜』っていうほどの時間じゃないですぜ」

若い指揮官は、口答えをされても全く動じた様子はなく、穏やかに、しかしきっぱりと言い渡した。

「僕が『今夜』という時は、日没以降はそれに該当する。今後は覚えておくように」

なぜか不平の声一つ聞こえてこなかった。

「全員、兵舎に戻れ」

男達は逆らうこともなく、子羊のようにぞろぞろと外に出た。彼も無言で立ち上がり、目の前の上官には目もくれず、軋む床を踏みしめて、狭い戸口に向かった。扉の外には副官をはじめとする数人の兵士が控えていた。彼らに付き添われるように、兵舎に向かってぶらぶらと歩き出す。酒場の壁に沿って歩いていた彼が、明かりのこぼれている、高い位置で開いた小さな窓の下を通りかかった時、中の声が洩れ聞こえてきた。

「すまなかった。今夜の件に関する請求は砦の方へ知らせてくれ。僕が何とかする・・・」

血の味のする唾を地面に吐き捨て、彼は振り返りもせず立ち去った。
 
 
 
 
 

くそっ。あいつが現れて以来、何もかも見込みが狂っちまう。歳まで同じで・・・

同じ?誰と?

強く頭を振り、意識に上りかけた考えを振り払った。とにかく気にいらねぇ。俺の思惑をことごとく邪魔しやがって。あの時もそうだった。
 
 
 
 
 

「行くぜ」
「行くって、ヤツらを追うのか?だって指揮官殿は・・・」
「命令なんぞ知るか。ヤツらを逃がしやしねぇ」

ためらう仲間の声を一蹴し、さらに挑発するように続けた。

「どうした?いっぱしの男が、まだ乳離れもしてねぇガキみてぇな指揮官殿の御機嫌を損ねるのが恐くて、びくびくしてんのか?ここで逃がしちまったら、せっかくここまでヤツらを引っ張り込んだ俺達の苦労が水の泡なんだぞ」
 
 

そもそもこの作戦を聞いたときから、彼は不信を抱いていた。長く軍にいたおかげで、軍略の知識など無くても、その作戦行動がどういう意味を持っているかぐらいは分かるようになっていた。彼らが囮として非常に危険な役割を負わされるのは明白だったのに、数ヶ月前に来た新しい指揮官は、そんなことはおくびにも出さなかった。いつものように自信に満ちた態度でとるべき行動を説明し、戦場では自分の指示に従うようにと言っただけだ。

『勇気あるところにのみ、栄光はある。僕について来てくれ』

年若い指揮官がお決まりの文句で締めくくった時、彼は内心で―表に出さないだけのわきまえはあった―唾を吐いた。勇気だけでは守れない。栄誉も、幸福も・・・大切なものも。
 
 

「俺達にゃ恐れるものなんぞ何もねぇ。そうだろ」

捨て駒に過ぎない下層兵士の命など、誰が気にする?どうせ全ては運命だ。運命は変えられない。あのこざかしげな指揮官殿に思い知らせてやる。ものごとは、願った通りにはならないということを。
 
 

だが、またしても運命は彼の期待を裏切った。待ち伏せていたらしい敵兵の反撃を受け、彼らはあっという間に幾重にも取り囲まれてしまった。逃げ道は無い。やっと死ねると思ったその時、黒い疾風が、はるか後方から敵兵を蹴散らして駆け込んできた。
 
 
 
 
 

あの時、あいつさえ現れなければ。そうすれば全部終わっていたはずだった。どんなにあがいても安らぎの得られぬ苦しみも、癒しようのない虚しさも。閉じ込めた記憶の裏側から心を苛み続ける嫌悪感も。こんなカビだらけの、動物臭のひどい、しけた半地下の石牢に、むさくるしい男どもと閉じ込められ、バカげた繰り言を聞かされることもなかった。

「ああ、かあちゃんを抱きてぇなあ。俺ぁ何人もの女を抱いたが、やっぱり女房が一番落ち着くぜ」

くそ。なんでここの床石はこんなに冷てぇんだ?

口の中で悪態を吐いて、彼は落ち着きなく身じろいだ。

これまで何度も同じような言葉を聞いた。それでも一度も心を動かされたことなんか無かった。なのに、なんで今さら動揺する?

「クリスチャン様はどうなんですかい?可愛い人が待ってるんでしょ?」

喧嘩を始めた兵士達に割って入った指揮官に、誰かが訊いた。返事は聞こえなかった。

「クリスチャン様は男っぷりがいいからな、きれいな姫様達が山程待ってるに決まってらぁ」

別の場所から上がったダミ声に苦笑気味の声が答える。

「・・・一人でいいよ」

その言い方に彼はふと興味を惹かれた。なぜかそれが一般論ではなく、特定の人を指しているように思えた。思わず振り向いた途端、その人が真剣な表情で皆を見回して言った。

「皆を待ってる人がいるんだ。必ず皆で帰ろう。大切な人達のところへ」

その言葉が、一人の男の心にどれほど深く突き刺さったか、若く聡明な指揮官は知らなかっただろう。


 

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