それから数日もしないうちに、絶好の機会が訪れた。

その雨は降り始めた時から異様な強さで、彼は、石壁の上部に設けられた小さな明かり取りの窓に密かに注意を払っていた。外の地面の高さにあるその窓は、今はぼんやりとした光を放っているだけでいつものような明るさはなく、地面に叩きつけられる雨の音に混じって、時折地響きのような雷鳴が聞こえてきていた。皆が寝静まってからも、闇の中に響く凄まじい雨音は一向に衰える気配を見せず、吹き荒ぶ風はますますひどくなっていく。険しい山間部で強い雨が降った時どうなるか、彼は良く知っていた。そして彼は、空気の匂いだけで、ここがそういう場所であることを感じ取っていた。

夜が明け、時間が経つにつれ、彼の期待は確信に変わった。昼近くなっても小さな窓から明るい太陽の光は差し込まず、代わりに泥水が流れ込み始めた。他の兵士達も気づいて不安げにざわめきだした。石の床にわずかに敷かれていたいぐさが浮き上がって漂い始める。ついに誰かが口を切った。

「クリスチャン様・・・」
「このままでは、わしらは・・・」

彼は指揮官の方へちらっと目を走らせた。端正な顔をしかめ、普段は見せないような厳しい表情で黙り込んでいる。

さすがの優秀な騎士様も天に見放され、万策尽きたってわけか。このまま全員、水没した牢の中で死ぬんだろう。あんまり見栄は良くねぇし、楽な死に方でもねぇが、この際ぜいたくは言わねぇ。

口の端にうっすらと嘲笑に近い薄笑いが浮かびかけた時、重い鉄の扉が軋んだ。現れた目つきの鋭い敵の騎士の言葉に、彼は耳を疑った。

「貴様らを移す」

また・・・おあずけなのか?
 
 
 

外は想像していた以上の土砂降りで、彼らはあっという間に全身濡れネズミになった。しかも手を後ろで縛られているので、歩きにくいことこの上ない。ぬかるんだ地面に足を取られ、シディニア兵達にこづかれながら、崖沿いの細い道を上がって行く。もし逃げるつもりがあるなら今しか機会はないだろう。だが彼らの指揮官殿にはその気は無いようだった。

見かけに似合わず気概も度胸もあるヤツかと思っていたが、買いかぶっていたのかもしれねぇ。

ふいに行列が止まり、彼は前の男にぶつかりかけた。しかめっ面を上げて辺りを見回すと、そこは数歩で横切れるほどの幅しかない細長い空間で、川に面しているとおぼしき右側に、彼の胸くらいの高さの低い城壁がずっと続いていた。その城壁の先の方に何人ものシディニア兵が群がり、ばたばたと慌しく騒いでいるのが見えた。しかしその声は激しい風雨で掻き消され、彼のところまでは届かなかった。

駆け寄ってきた兵士に呼ばれたのか、彼らを連行していたシディニアの騎士が、彼らをその場に留めたまま、城壁の兵士達の方に近づいて行く。彼は雨粒の激しく跳ね踊る地面に目を落とし、口の中でののしりの言葉を呟いた。

こんなとこで足止めしてねぇで、早く雨風しのげる屋根の下に連れてってくんねぇかな。その気があるんならだが。

「何をする!やめろ!」

突然甲高い警告が響き、彼ははっと顔を上げた。何が起こっているのか、すぐには理解できなかった。彼らの指揮官が縛られたまま敵の騎士ともみ合い、引き倒されて、派手な水しぶきを上げて泥の中に倒れ込むのが見えた。

「クリスチャン様!」

周りの仲間達がいっせいに走り出し、巻き込まれた彼も一緒に動かざるをえなかった。

「動くな!おとなしくしていろ!」

彼らを囲んでいた監視の兵達が、棍棒や槍の柄で彼らを殴り、打ち倒そうとする。彼は後ろ手のまま、肩で体当たりして相手を突き飛ばした。

「やめろ!」

前方から聞こえてきた一喝で、双方の兵士の動きがぴたりと止まった。泥水の中に膝をついて前かがみになっていた彼の肩から、シディニア兵の手が引かれる。のろのろと体を起こして立ち上がった彼の目に、低い城壁越しに、川の様子が飛び込んできた。
 
 

普段は細い谷川だと思われるそれは、今はばかでかいうわばみのように周囲の木や岩を呑み込み、押し流しながら、不気味な轟音を立てて大きくうねっていた。―そしてその強大な流れのただ中に、絶望的に繊細な木組みの櫓が突き出ていて、三人の男がしがみついているのが見えた。
 
 

彼はすぐさま目を逸らした。この後どうなるかはすでに明白だった。敵とはいえ、それを高みでのんびり見物するほど、彼は悪趣味ではなかった。シディニアの騎士が、捕虜の移送を再開するよう、監視の兵達に指示を出す。彼が歩き出そうとしたその時、咆哮する嵐の音をくぐって、凛とした声が耳に届いた。

「 J'irai à ses secours. (僕が救助に行く)」

考える前に口から言葉が飛び出していた。

「正気ですかい?!ヤツらは敵ですぜ?!」

二人の騎士が同時に彼を見た。シディニアの騎士の方はまたすぐに目の前の人物に視線を戻したが、もう一人の方は彼に目を止めたまま、驚いた表情で尋ねた。

「シディニアの言葉が分かるのか?」

しまった。だが今さら後には引けない。

「国境近くじゃ別に珍しくもねぇ。そんなことより、なんでヤツらを助けようなんて?ここで死んでくれれば儲けもんじゃねぇですか」

質問の形で言いながらも、彼にはこの賢い指揮官のもくろみが手に取るように読めた。

ご立派そうに見せかけてても、しょせんは卑怯な小心者じゃねぇか。いざとなりゃ、俺達なんぞさっさと切り捨てて一人で逃げるってわけだ。無理に監視を破ろうとしなかったのも、こういう機会を待ってたからだろう。

だが指揮官は表情を厳しくして彼を見つめ返し、意外に真剣な声で言った。

「今、とりあえず闘わなければならない相手は彼らじゃない。それに彼らにも待っている人はいるんだ」
 
 

『・・・私は毎日死にそうに心配しながら、あなたの帰りを待つよ・・・』
 
 

雷に打たれたような衝撃。彼は息も忘れて立ちつくした。突然頭の中に響いた、柔らかで清らかな、鈴の音のような、その声・・・

「戦場で剣を交えるなら、殺すことも殺されることも承知の上だ。だが、こんなふうに命が失われるのを見て、良かったと思うことはできない」

『・・・私がどこにいようと変わらない。ノルドでも、シディニアでも、どこでも・・・』

ああ・・・この声・・・

仲間の兵士達が指揮官と何か話をしていたが、彼は聞いてはいなかった。彼の意識は完全に頭の中の声に呑み込まれていた。もうすっかり忘れてしまったと思っていた・・・記憶から締め出し、消し去ろうとした、甘い、優しい、温かい声。不意に甦ったその声が―その声が彼に引き起こすあらゆる感情が、前触れもなく湧き上がった泉のようにすさまじい勢いで彼の内に噴き出し、あっという間に枯れ果てた彼の心に滲みわたった。

『・・・ザックス・・・ありがとう、ザックス・・・ありがとう・・・』
 
 
 

彼が我に返った時、若い指揮官はすでにすらりとした体にロープを巻いて城壁の上に立ち、今しも濁流の中に飛び込もうとするところだった。その唇が『菩提樹』と動いたように見えた。何のまじないだろうといぶかしく思う間も無く、裸足の騎士の姿はしなやかに城壁を蹴って消えた。

城壁ぎりぎりに立っていた彼は、慌てて胸でごつごつした壁に寄りかかって首を突き出し、暗く渦巻く土色の水面を覗き込んだ。待つほどの間も無く、黒い頭が浮かび上がった。そのまま押し流されるように、だが確実に例の櫓へと近づいていく。

信じられねぇ。

ほんとにこいつには不可能ってもんがねぇんだろうか?櫓の脚にしがみつき、そこにいた男達に引き上げられるように梯子をよじ登る指揮官の姿を、彼は呆然と眺めていた。どんな交渉があったのか、しばらくして取り残されていた男達が順々にロープを伝ってこちら側に渡ってくる。城壁の兵士達が活気づき、歓呼の声を上げて迎えていたが、彼の目は、ずぶ濡れで櫓の上に立つ歳若い騎士に釘付けになっていた。

こいつは・・・

その時悲鳴のような声が上がった。彼がはっと城壁の方へ顔を向けた瞬間、目の前でロープがちぎれ飛んだ。もうすぐ城壁に到達しかけていた二人目の男が、あっという間に滑り落ちる。

ダメか。

しかしその男は死に物狂いで命綱に掴まっていた。城壁の際で激しい流れに洗われながら、身を捩り、ロープを体に巻きつけようとしている。その男の、生きようとする強烈な意志に、彼は殴られたようなショックを受けた。シディニアの兵士達が大慌てでロープを引き、男を引っ張り上げる。奇跡のようなその光景を、彼は言葉もなく見つめた。

俺は・・・何をしてるんだ?

急に頭が冴え、はっと気づいた。ロープが切れちまったってことは・・・指揮官殿は?

二人の騎士は傾いた櫓に辛うじてしがみついていた。だが・・・

どうする?どうすべきなんだ?

答えを求めて視線を彷徨わせた時、上流からかなり大きな岩が転がりながら押し流されてくるのが目に入った。その岩が一直線に向かう先には・・・

「クリス様!」

木組みがばらばらに崩れ、すらりとした姿が吸い込まれるように落ちていく。ほどけた黒髪が風に吹き上げられるさまに、一瞬、過去の記憶が重なった。

「クリス様!クリス様!」

濁った水面に向かって狂ったように叫ぶ。

神様。助けて下さい。あいつを助けて下さい。お願いします。

祈りが聞き届けられるとは思ってなかった。けれど祈らずにはいられなかった。そのままずいぶん長い時間が経ったような気がした。ふいに、流れに揉まれる木の葉のように、その姿が濁流の中に浮かび上がったと思うと、水に半分ほど沈んだ大鎖に引っ掛かって止まった。素早くその大鎖を捉えた指揮官のもう一方の腕に、一人の人間が抱えられているのを見た時、彼は悟った。本当に守られていたのが誰だったか。小さく、か弱く、守るべきものとしか見ていなかった彼女が、いかに強かったか。

同じだ。

そう思った瞬間、彼は叫んでいた。

「 J'irai à ses secours ! (俺が助けに行く!)」


 

 続き Fortsetzung

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