雨は翌日には上がった。彼は、死へと引き込まれようとする人の手を、今度こそしっかりと掴んだ。だが彼の腕の中で気を失ってしまった指揮官は、そのまま彼らと引き離されてどこかへ連れて行かれたきり、どうなったか分からなかった。彼らはその場から引っ立てられ、かろうじて水没を免れた古びた塔のほぼてっぺんの小さな一間に、再びいっしょくたに押し込められた。上方の細い狭間からわずかな光と共に雨上がりの湿ったすきま風が吹き込んでくる。先が見えず、皆、不安げに押し黙り、時折、指揮官殿の安否を気遣う言葉が漏れる以外は、ほとんど会話も無かった。暗く狭い牢に囚われていることは今までと変わらないのに―むしろ半地下の牢より湿気が少なくて過ごしやすいはずなのに―一人の人間がいるかいないかでこうも違うのかと、彼はあらためて思い知らされた。そして数日後、再び何の前触れも無く、運命は急転した。
 
 

監視役のシディニアの騎士の後ろから、その人は現れた。取り上げられていたはずの古めかしい剣を携えている。その背後を固めたシディニア兵達の態度のせいか、まるでその人が兵士達を従えているように見えた。その人はわずかに片足を引きずりながら牢に入ってくると、まるで天気の話でもするかのような穏やかさで言った。

「帰れることになったよ」

特に何も言うことはなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

砦の見張り台に立つ彼を、夏の夜風が心地良く包み、吹き過ぎて行く。月は無く、濃い蒼味を帯びた暗い空には、一面、銀をばら撒いたように星がまたたいている。

・・・きれいだ。

わずかに心が疼いたが、それはかつてのような身を苛むいたたまれなさではなく、苦味を帯びながらもほんのりと甘く、優しいものだった。

ここに、いたんだな。・・・
 
 

夜は短いとは言え、まだ夜明けまでには少し間がある。足元の森の中で、かすかに、暗闇で活動する動物達の気配がするが、砦の内にも外にも人の姿は見えず、ひっそりと静まり返っている。と、いまやすっかり聞き慣れた長靴の音が静かに近づいてくるのに気づいた。

「眠れないんですかい?」

足音がすぐ後ろまで来たところで、彼は城壁に寄りかかったまま、そちらは見ずに声をかけた。

「ああ・・・いや、なんとなく目が冴えてね」

声に少し元気が無いような気がして、彼はその人の顔に目を遣った。その人は城壁の縁に片手を置き、空を見上げた。

「良く晴れているな。このぶんなら予定通り兵の移動ができるだろう」
 
 
 

彼はその人と共に戦い続けるうち、その人の部下である自分達の幸運を思い知っていた。いや、それが幸運だと思えるのは、彼の気持ちが変化したからに他ならない。自分よりひと回り以上年下のたぐいまれな指揮官から、彼は戦術的なことや、それ以外にもさまざまなことを学び取ってきた。
 
 
 

「・・・次の作戦はどうしても成功させたい。亡くなられた陛下のためにも・・・」
「待ってる人には、会いに行かなくていいんですかい?」

その人は珍しくぎょっとした様子で彼を見た。

「いろいろと心配なんじゃねぇですか?今年は春からずっと出ずっぱりで、全然休みをとってねぇでしょう」
「それはお前もだろう?」
「俺ぁ別に、待ってる人はいねぇんでね」

そのまま二人とも黙った。
 
 
 

シディニアから生還した後、故郷へ帰ってもよかった。なぜそうしなかったのかは、自分でも分からない。
 
 
 

「騎士様ってのは、シディニアの言葉も勉強するんですかい?」

突然変わった話題にその人は驚いたかもしれなかったが、表面上はただ穏やかに答えた。

「まあ、そういうこともあるが、僕の場合は・・・必要に迫られてね」
「へぇ」

それ以上は詮索しなかった。それよりも尋ねたいことがあった。

「『シェリ』って何のことだか、ご存知ですかい?」

その人は、彼の口からそんな言葉が出てきたのが信じられないとでも言うように、目をぱちくりさせた。彼は真面目な顔で真っ正面から見つめ返した。

「俺はくににいた時、多少シディニア語を聞きかじったことがあるが、その言葉は意味が分からなかったんでね」
「ああ、そうか。『シェリ』っていうのは・・・」

軽くうなずき、一呼吸置いて、その人は言葉を噛み締めるように言った。

「『最愛の人』という意味だよ」
「『最愛の人』」
「そう」

ぼそりとおうむ返しにした彼の横顔を、その人がじっと見ているのは感じたが、彼はもう何も言わなかった。彼はただ、わずかずつ色を薄め、またたきの消えていく空を、惜しむように見つめ続けていた。


 

 続き Fortsetzung

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