あひるはノルドの人々に早く馴染もうと努力していました。世話をしてくれる人達とはよく言葉を交わすので、すぐ友達になってしまいました。あひるは二人の使者とも仲良くなろうと思い、初めはあおとあに話しかけました。あおとあはいくらでも喋ってくれるのですが、半日で、あひるとは気が合わないと分かりました。そこでもう一人の使者に話しかけてみようとしたのですが、まるで避けられているかのように、なかなか機会がありませんでした。その人はいつも視界の中には居るのに、声をかけられるほど近くには決して寄ってこないのでした。移動中も、同じ馬車に向かい合って座っているあおとあとは違い、その人は少し離れて騎馬で付いて来るので、話しかけることはできませんでした。
出立して数日が過ぎた或る日の午後、夕焼け前の柔らかい日差しに誘われて、あひるはこっそり天幕を抜け出しました。ずっと馬車の覗き窓越しか天幕の垂れ布越しに景色を眺めるだけだったので、久しぶりに外の空気にゆっくりと身を浸し、解き放たれたような気分になりました。野営地のすぐそばに小さな川があり、川に沿って細い田舎道を歩いていると、たいして行かないうちに川の中で馬を洗っているその人が目に入りました。
「あ・・・!」
ふぁきあが気配を感じたように振り返り、しまった、という顔をしました。
「プリンセス・チュチュ・・・」
しかしふぁきあは立ち去ろうとはせず、ただ、すっと視線を逸らしてそのまま馬の世話を続けていました。あひるはとにかく何か話しかけなくてはと焦りながら、ふと思いついた疑問を口にしました。
「えっ・・・と、ローエングリン?って名前だったよね?でも皆にはふぁきあって呼ばれてたような気がするけど・・・どうして?」
「さあな」ふぁきあは振り返りもせず、素っ気無く答えました。
「えーと、友達が呼ぶ時の、愛称?みたいなもの?あたしも・・・」
「それがどうかしたか」無作法に遮られたのにもくじけず、あひるは一層元気良く話しかけました。
「うん、その、響きのいい名前だね。どういう意味なの?」
ふぁきあはただ黙って肩をすくめました。ふぁきあ自身にも分からないのか、それとも答える気がないということなのか、あひるには分かりませんでした。
「あたしもふぁきあって呼んでいい?うん、だってあたし達、友達になるんだもん。だからふぁきあって呼ぶね」
ふぁきあは一瞬、何言ってるんだこいつは、という表情で振り返り、すぐにまた顔を背けましたが、返事はしました。
「・・・好きにしろ」
拒否されなかったので気をよくしたあひるは、そのまま低い草の茂る川岸に座り込んで話しかけました。
「ねぇ、ふぁきあって動物好きなの?こないだも小鳥にパンやってたよね」
ふぁきあは後ろ向きにかがみこんで馬の蹄の泥を丁寧にとってやっていたので、あひるからはその表情はよく見えませんでした。
「別に・・・」
気の無い返事にもめげずにあひるは続けました。
「でもふぁきあは、他の騎士達みたいに狩をしたりしないって聞いたし」
「楽しいと思わないだけだ。必要が有ればする」
「でもふぁきあって、あんまり他の人と喋ってるところ見ないけど、動物と一緒にいるのは好きみたいだし・・・」
「何が言いたい」
「えっと、だからね、うん、ふぁきあって・・・優しいね、って」そんなことを言われたことのなかったふぁきあは、つい手を止めて、あひるをまじまじと見てしまいました。振り返ってもらえたあひるは嬉しそうな笑顔を見せました。
「動物ってかわいいよね。あたしもお城にいた頃は毎朝小鳥達に餌をやってたんだ。お料理番のえびーたさんがパン屑とか取っといてくれるの。えびーたさんのお料理はとってもおいしくて、いつも楽しみだったな。レシピを見せてもらったけど、あたしには作れなくって・・・」
止まらないあひるのおしゃべりを、ふぁきあは遮るでもなく、嫌そうな顔もせずに―けれど手は動かしながら、黙って聞いていました。
やがてふぁきあは馬を洗い終わり、手綱を牽いて川から上がってきました。固く絞った布で馬の体を拭き始めたふぁきあに、あひるは思いつくままに質問してみました。
「あっそうだ、王子様ってどんな人?」
「どんなって・・・」
「ほら、見た目とか、性格とか」ふぁきあは王子をどう思うかなど考えた事が無かったので、改めて訊かれて返事に困り、仕方なく城の人々が普段言っているとおりに言いました。
「・・・美しく、聡明で、心優しく、全ての者を愛し、全ての者から愛されている」
(ただ、純粋すぎて心配だが・・・)
心の中で付け足したふぁきあは、あひるに促されて戸惑いました。
「それから?」
「えっ?」
「ふぁきあはよく一緒にいるんでしょ?王子様って強い?」ふぁきあは力を込めて答えました。
「わが国で一番の勇者だ。どんな強い敵も恐れず、いつも弱い者を守ろうとする。そして人々のために自分が犠牲になることも厭わない」
「ふうん・・・ふぁきあは王子様が好きなんだね」
「好き?」ふぁきあは意表を衝かれて、あひるの顔を見つめました。
「うん、だって、とっても嬉しそうに王子様のこと話すんだもん。王子様のこと大好きなんだな、って思ったの」
そう言われてふぁきあは改めて思い返しました。
(ずっと王子を守るのが当然だと思っていたから、王子のことを好きかとか考えたことは無かったが・・・)
「・・・そうかもな」
「うんっ!ふぁきあみたいな人にも好かれてるんだもん、きっと素敵な人なんだね。あっ、ごめん、ふぁきあみたいって、別に変な意味じゃなくって、気難しそうっていうか、あんまり人懐っこくなさそうっていうか・・・あの、その」あひるは両手をばたつかせながら慌てて言い訳しようとしましたが、ふぁきあはそれには構わず、拭き終わった馬に鞍を着け、腹帯をぎゅっと締めると無愛想に言いました。
「戻ろう」
「あ・・・うん」あひるはしょんぼりと立ち上がりました。傾きかけた夕陽の中、穏やかに輝く川に沿ってとぼとぼと歩き始めたあひるに、ふぁきあが後ろから声を掛けました。
「乗っていかないのか?」
「これに?直接?」
「どうした?馬に乗ったことがないのか?」
「・・・ないよ・・・」人差し指の先を合わせて所在なげに答えるあひるのところまで馬を牽いて近づいて来ると、ふぁきあは無言であひるの前にしゃがみ込み、あひるの膝の周りにがっしりと両腕を回して抱え上げました。
「えっ?」
あひるはびっくりしてふぁきあの広い肩に手をつきましたが、次の瞬間には鞍の上に横座りをするように、すとんと下ろされていました。慣れない高さに怯えて、慌てて鞍にしがみつくあひるに、ふぁきあは無造作に言いました。
「大丈夫。静かに乗っていれば、振り落とされたりはしない」
あひるは恐る恐る手を伸ばし、洗い立てのつやつやしたたてがみを撫でました。それを見たふぁきあが、ふっ、と小さな笑みを漏らしました。
「あっ」
「なんだ?」
「ふぁきあ、今、笑ったでしょ」あひるは怒っている風ではありませんでしたが、ふぁきあは指摘されて初めて自分が笑った事に気がつき、少し気まずく謝りました。
「・・・すまない」
「そうじゃないよ。初めて笑ったとこ見たからびっくりしたの。ふぁきあ、笑うといい感じだね」
「・・・何言ってるんだ、バカ」乱暴な返事は、顔が熱くなるのを感じたためでした。
「だってそっちの方がいいなって思ったんだもん。それに、友達が素敵な笑顔だと幸せじゃない?」
ふぁきあは心に漣が立つのを抑えて、努めて冷淡に言い捨てました。
「言っておくが、俺の仕事はお前を守ることだ。お前の友達になることじゃない」
「うん、分かってるよ。でも、ずっと一緒にいるんだし、友達になった方が楽しいでしょ?」ふぁきあは小さく溜息をつき、それ以上反論するのを諦めました。黄金色の夕焼けが、馬上のあひるとその馬を牽いて行くふぁきあを、優しく包んでいました。