「…そうか。分かった」

ふぁきあはじっとあおとあに注いでいた視線を外すと、傍らの椅子に右手を伸ばした。その先に在る物に気がついて、あひるは慌てて翼でふぁきあの胸を押し止めるように押さえた。

<ふぁきあ?>
「いいんだ。どうせこいつは俺が何者か知ってる」

ふぁきあは口の端を歪めてかすかに笑い、ぞくっとするような冷たい一瞥をあおとあに投げた。会話するふぁきあとアヒルをちょっと怪訝そうに見ていたあおとあは明らかにひるんだが、目の前に突き出された紙束を見て眉をしかめた。

「何だ?」
「読めば分かる」

あおとあはうさんくさそうな表情でその紙束を受け取り、その場で立ったまま目を通し始めた。その顔色がみるみる蒼白になっていく。あおとあがショックで強張った顔を上げ、ふぁきあを見た。

「座れ」

ふぁきあが顎で示した椅子に向かってあおとあは震える足取りでよろよろと進み、崩れるように座り込んで、すぐにまたむさぼるように読み始めた。日が傾いて陽射しが当たり始めていたが、あおとあは気づいていないようだった。一枚、一枚、夏の太陽の白い光を反射しながら、紙が椅子の足元に落ちていく。あひるとふぁきあは少し離れて水際をゆっくりと歩きながら、それを見ていた。

<…ほんとに、よかったのかな…>
「分からない」

見上げるとふぁきあは緊張した面持ちで、ちらちらと光を反射する湖面を見据えていた。

<ふぁきあ…>

暗い色の瞳があひるを見下ろす。そのつややかな闇の中に緑色の光が瞬いた。

「だが俺は、物語を俺の力でねじ曲げるようなことは絶対にしない。たとえそれで俺自身の存在が危うくなろうと」

ふぁきあは、口を開きかけたあひるの頭を撫でて黙らせ、強張った顔にわずかに笑みを浮かべた。

「たとえ決められた運命でも、強い意志があればそれを乗り越えることができる。これはそういう物語だ。…そんなことお前は最初から分かってたんだろうけどな」

なんだか自分に言い聞かせてるみたい。あひるはそう思った。
 
 
 

あおとあはまったく顔を上げることもなくその長い物語を読み終わると、しばらく放心したように座り込んでいた。が、やがてふらふらと立ち上がり、あひるとふぁきあには目もくれず、そのまま来た道へと戻りかけた。

<あ、あおとあ?>
「知りたいことは分かったか?」

ふぁきあが声をかけると、あおとあはぼんやりした顔で振り返った。

「僕は…これは…いや…」

小さく頭を振り、やや気を取り直して言った。

「今はよく分からない。時間が必要だ」

よろよろと帰っていくあおとあを見送り、あひるはぽつりと呟いた。

<だいじょうぶかなぁ…>

ふぁきあはあひるを地面に下ろして手早く辺りを片付けながら、あひるの方は見ずに尋ねた。

「あいつが?それともこの物語への影響か?」
<ええと。両方>

椅子をたたみながらふぁきあは肩をすくめた。

「あいつはああ見えても結構ずぶとい。少々のことではくじけないし、すぐに立ち直る。物語の方にも、たぶん、それほど害はないさ」

そうじゃなくて、ほんとは、心配なのはふぁきあのことだったんだけど。 あひるは小さくため息をついた。

<でもこれで、二人だけの秘密じゃなくなっちゃったんだね>

ふぁきあがちらっとあひるを見た。

「気になるか?」
<うーん、気になるっていうかなんていうか…でもちょっとほっとしたかも。秘密って、なんかさ、重いじゃない?けど、ドキドキする感じも減っちゃって、それはちょっと寂しいかな>
「だが、全部じゃない。俺達だけしか知らないこともある」
<そっか…>

ふぁきあとの間の絆がどんなものかとか。あたし達が本当に得たものはなんだったかとか。

<うん。そうだね>

あひるはこっくりとうなずき、陽射しにかざすように羽を広げた。
 
 
 

再びふぁきあの腕に抱かれて家路を辿りながら、あひるははたと気がついた。

<あれ?そういえばあたしが『あひる』だってちゃんと言わなかったけど、あおとあ、気がついてたかな?>
「さあな。あれをちゃんと読めば分かったはずだが。まあそれは別に、今でなくてもいいんじゃないか。あまり一度にショックを受けない方がいいだろう」
<それもそうだね>

ふぁきあが苦笑した。

「この先、機会はいくらでもあるさ。あいつのことだ、どうせしつこく押しかけてくるに違いない」
<だいじょうぶ!ふぁきあのジャマにならないように、あたしが相手してあげるよ>
「当てにしてる」

さらっと返して、ふぁきあは道の段差をひらりと飛び越えた。しばらく歩いてからあひるは再び口を開いた。

<ねぇふぁきあ、ほんとは…>

誰かがあの物語のことを―みゅうとやるうちゃんやうずらちゃん達がいた時のことを―思い出してくれるのを、ふぁきあも心の中で願ってたんじゃない?

「うん?何か言ったか、あひる」

ふぁきあが片手で藪を分けながら訊いた。

<う、ううん、別に。なんでもない>
「そうか」

予想に反してしつこく問い詰められなかったので、あひるはほっとしたようながっかりしたような、微妙な気持ちになった。

<『言いたくないなら最初から黙ってろ』って言わないんだね>
「なんだそれ」
<昔、そう言ったじゃん>
「そうか?」
<そうだよ>
「お前は特別だ」
<…えっ? >

ヘンだ。心臓がドキドキする。

<えーと、えーと、それって…>
「お前がそうしたいなら、それでいい。そう思えるようになった。俺はお前を信頼してるし、ある意味ではお前のことを尊敬してるからな」

かあっと頬が染まった。

<そ、そう…>
「お前と一緒にいると、体の底から力が湧いてきて、なんだってできそうな気がしてくる。あおとあのことにしても、お前がいなかったらたぶん、こんなに落ち着いてはいられなかっただろう」

その瞬間、体の奥深いところでふぁきあとつながっている導管から、一気にふぁきあの意識が流れ込んできた。あひるのそれと完全に重なって、疼くような熱を放つ。

「ありがとう、あひる」

暗い響きを持つこの声を、冷たくて怖いと感じたこともあった。でも今は…

<ふぁきあ、あたしも…>

けれどあひるが言葉を返そうとしたとたん、ふぁきあががらりと口調を変えた。

「だが、日常生活一般に関しては別だ。お前は自己管理がなってない上に、そそっかしいんだからな。俺の言うとおりにした方がいいんだ」

ぐっと言葉を呑み込んだ。
まったくもう、ふぁきあってば。

<わかってるよ>

ふぁきあに向かって顔をしかめてみせながらも、あひるの心は空を舞うように軽やかだった。湖を渡ってきた涼風が、膨らませた羽根の間を心地良くすり抜けていく。濃緑の針葉樹の、深く、優しい香りがした。
 
 
 
 
 
 


 

 

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