「うわぁ」あひるが素っ頓狂な声を出すのにも慣れてきたふぁきあは、落ち着いて尋ねました。
「なんだ?」
「こんなの初めて見た」あひるの目は二人の眼下に広がる太い流れに釘付けになっていました。
「川を見たことがないのか?」
「あるよ。でもこんな大きなのは初めて」それは確かにノルドでも一、ニを争う大河で、茶色味の強い緑の流れは、緩やかに蛇行しながらきらきらと輝いていました。
「この川のむこうは王家の直轄地だ。明日中には城に到着できる。もう狙われることもないだろう。川を越えた先の町であおとあ達が待っているはずだ」
「じゃあ、もうすぐみんなに会えるんだね」嬉しそうに声を弾ませるあひるをちらっと見下ろし、ふぁきあは葡萄畑の間の道を下って船着場へと向かいました。街道筋ではないので質素な船着場でしたが、筏状の渡し舟は、荷車も載せられる大きなものでした。真昼間なので客は少なく、あひるとふぁきあの他には、どこかに収穫物を運ぶらしい農夫と、商人風の男の二人だけでした。
他の客達と離れて船端に座り、川風に吹かれて熱心に水面を見ていたあひるがぽつりと呟きました。
「・・・『海』ってこんななのかなぁ・・・」
「は?」ふぁきあは面喰ってあひるの顔を見つめました。
「シディニアのずうっと南の方に『海』があるの。とても大きい湖みたいなんだけど、ずっと水が動いてて、流されちゃうんだって。お父様に聞いたんだ。いつか連れてって下さるって約束・・・だったんだけど・・・」
途中で言葉を濁し、川面に目を落としたまま笑みを浮かべようとするあひるの哀しげな横顔に胸を締め付けられるようで、ふぁきあは黙り込みました。後悔に似た思いが、ふぁきあの胸に芽生え始めていました。
あの時―あひるの父親を殺した時のふぁきあには、他にとるべき道はありませんでした。そしてまた、それがノルドの勝利を確実なものにしました。今まで何度か戦に出た中で、敵を倒すのをためらったことなどありませんでした。しかし、だからこそ、敵の命を奪うことで勝利しているということは、認識しているつもりでした。
(だが、俺は本当に考えたことがあっただろうか?・・・俺が相手を殺したことで、俺と同じように悲しんだり苦しんだりする人があることを?)
苦い思いでふぁきあはあひるから目を逸らしました。あひるを悲しませ、そしておそらくあひるの人生を変えてしまったのは、他でもない自分だという事実がふぁきあに圧し掛かりました。王子の言うとおり、もし戦わずに済んでいたならそうしたかったと、今では思わずにいられませんでした。王子とあひるがそのためにしている努力を、今更ながら尊く感じました。
(俺にできるのは、こいつを守り、王子の許に送り届けて・・・そして失うこと?)
胸を刺す痛みと共にそう思った途端、ふぁきあは気づいて否定しました。
(何を考えてるんだ俺は!あひるはもともと俺のものじゃない)
しかしその認識は痛みを一層悪化させ、ふぁきあは胸を押さえて俯いてしまいました。ずっと川を見ていたあひるが、ふいに振り返って尋ねました。
「ねぇ、ふぁきあは『海』って見たことある?」
「・・・ああ。北方に行った時に見た」ふぁきあは顔を起こし、ぎこちなく答えました。
「どうだった?やっぱり大きい?」
「向こう岸が見えないくらい、どこまでも広がっている」
「そっか。見てみたいな。いつか連れてってくれる?」ふぁきあにはそれが不可能なことだと分かっていましたが、無碍に撥ねつけることもできず、曖昧に微笑みました。
「・・・そうだな・・・」
あひるはそれで満足したらしく、にっこりとふぁきあに笑いかけてくれました。
反対岸に着いた二人は、他の客がそれぞれの目的地へと向かい、渡し舟が元来た方へと帰っていくのを、その場で見送りました。昼下がりの川辺には人影も無く、涼しい風が並木の葉をそよがせているのみでした。
(もし、このまま・・・)
不意に形になりかけた考えを慌てて追い払い、ふぁきあは預かっていたあひるのペンダントを懐から取り出しました。そして、なおも何かを訴えている心の声を無視して、赤いペンダントをあひるに差し出しました。
「ありがと。つけてくれる?」
頷くふぁきあに背を向け、あひるは首を傾げながら、おさげに編んだ髪を右手で右肩の前へと垂らしました。白く細いうなじがふぁきあの目を刺しました。ふぁきあは高鳴る動悸を気づかれないように気を遣いながら、あひるの首の両脇から前に手を廻しました。右手がおさげをくぐり、また戻る時、ふぁきあの胸は妖しくざわめきましたが、手は止めませんでした。なめらかな肌の上で鎖を留めた瞬間、赤い光が広がり、やがて消えました。
ふぁきあの目の前にいたのは、村娘の格好をしていても美しい姫君にしか見えないプリンセス・チュチュでした。そしてペンダントの石は見慣れた卵形ではなく、涙の雫の形に戻っていました。