十二月
クリスマスが来た。あれからもうひと月になる。
彼女はとてもうまくやっていた。最初のうち彼は彼女にぴったりとつききりで、外に出す時などは過剰なほどに彼女の周りに目を配っていた。だがそのうち、彼女が思っていたよりもすんなりとここの生活に馴染み、町の人々とも屈託無く付き合えることが分かってくると、少しずつ警戒を緩めた。彼女は明るく人好きのする性格で、他人に笑われることにも怖じけづかなかったので、ほとんどの人々に好意的に受け入れられた。もちろん、国王が認めたという事実が大きく効いたということも、否定するつもりはない。
あの翌日、あの老騎士が彼らを訪ねてきた。彼らがもう結婚したと聞くと老騎士は驚き、そして嬉しそうな笑顔で彼らを祝福した。それから、では少し遅くなってしまいましたが、と前置きして、古めかしい銀の指輪を差し出した。
「陛下からの結婚の贈り物です。お二人のこれからの・・・幸福な生活のために」
彼は老騎士の意を汲み、ありがたくそれを頂戴した。彼女を守るための武器は少しでも多い方がいい。それから老騎士は彼女に向かって、たぶんシディニアの言葉で、何か言った。彼女が恥ずかしそうに頬を染めて笑みを浮かべたのを見て、彼は、自分もシディニアの言葉を覚えようと固く心に決めたのだった。
結婚したばかりの頃、彼女は朝方悪夢を見て飛び起きることがあったが―彼女がそんなものに悩まされていたのを知らなかったことに、彼はひどく自責の念を覚えた―その度にしっかりと抱き締めて、今は夫の腕の中に守られていることを教えてやった。そのうちにいつしかそんなことも無くなった。
彼は、彼女の意識から辛い記憶が消えつつあるらしいのを、心から喜んでいた。感情を抑えて冷静に考えれば、彼女を襲ったのがシディニア兵だったのは不幸中の幸いだった。奴らならそこらでうっかり出くわす心配もない。彼自身は、万が一彼女の過去が暴露されようと正面から立ち向かう覚悟はできていたが、彼女にしてみれば、思い出さずに済むならそれに越したことはないだろう。そいつらのことは千回殺しても飽き足りないくらいだったが、彼女のために彼は報復を諦め、シディニア兵達には永遠にまみえないことを願った。彼女の過去が彼女を苦しめることがないよう、彼は全力を尽くすつもりだった。彼は思ってもみなかった。まさか自分の過去が彼女を危険に晒すことになるとは。
「いいえ」
ちらつく雪の中、頼まれた品を近くの村に届けて戻ってきた彼が、かじかむ両手をこすりながら足早に我が家の前の小道に入ってきた時、仕事場の窓の隙間から、彼女の凛とした声が響いてきた。
誰か来ているのか?
彼はいぶかり、小走りに扉に近寄ったが、相手の言葉を聞いてその場に凍りついた。
「あいつは俺の女房と寝たんだ。それだけじゃねえぜ、鍛冶屋んとこの娘とも、豚飼いの後家ともだ。もちろん近在の玄人女は全員、ヤツとはねんごろさ。それも商売抜きでな」
酒場の亭主だ。つぶれた濁声ですぐに分かった。だが彼は一歩も動けなかった。その言葉はほぼ事実だったから―彼女には一番知られたくなかった事実だったから。
「一晩に一人以上の女と一緒でなけりゃ寝たことがなく、しかも二晩続けて同じ女と寝たこともねぇってのがあいつの評判だったんだぜ」
「それは全部、前のことです。今ではありません」きっぱりと言い切る彼女の落ち着いた声が、彼の意識を引き戻した。嘲るようなせせら哂いが続く。
「どうだかな。今だって何をしてるか、分かったもんじゃねぇぜ。この辺の町にゃ、いたる所にあいつの馴染みの女がいるし、あいつはいざとなりゃ仕事が速いからな。ああ、そりゃあんたも知ってるか」
胸の悪くなるような下卑た忍び笑いが洩れ聞こえる。
「たしかにあんたはてぇした美人だが、あの飽きっぽいヤツが、いつまでもあんた一人で満足してられるわけがねぇ。あいつは何の罪の意識も無く、あんたを裏切るさ。あんただって、攫われてあっさりあいつのものになっちまったくれぇだから、相手なんて誰でも良かったんだろ。あいつの道具がどれほどのもんか知らねぇが、俺のだって充分あんたを楽しませてやれ・・・」
凄まじい音を轟かせて扉を引き開け、彼女の腕を掴んだ男が目に入った次の瞬間には、その男は顔面を鼻血で染めて部屋の反対側の隅に吹っ飛んでいた。
「うせろ!今度こいつを侮辱しようとしやがったら殺す!!」
亭主が顔を押さえてこそこそと逃げ出した後も、彼はその場に立ちすくみ、血のついた拳を握り締めて震えていた。とても彼女の顔は見られなかった。ただただ恥ずかしく、惨めで、いたたまれなかった。しばらくして背後で彼女が動く気配がした。
「おかえりなさい」
彼女の手が背中に触れ、彼はびくりと震えた。
「大丈夫?手・・・」
彼女が彼の血塗れの拳に手を伸ばしてきた。彼は思わず飛びのいて身構え、はずみで彼女と目が合ってしまった。あの澄んだ深い湖のような瞳が、物問いたげに彼を見つめている。
何を言えばいいんだ?酒場の女将は向こうから誘ってきたんだし、浮気相手も俺だけじゃないって?どの女も皆、孤独と焦燥を埋めるための体だけの関係で、それも皆、納得ずくだったって?・・・だからって自分が不道徳な生活を送ってきたという事実は変わらない。まともな人間になら、軽蔑されても仕方のないような、自堕落な生活を。
全身をこわばらせて彼女を見返す彼を見て、彼女は溜息をこらえた。過去に彼と関係を持った女達が多くいることは、酒場の亭主に言われるまでもなく気づいていた。もちろんこれほどあからさまに言われたことはなかったが、彼女は勘が悪い方ではなかったし、町の女達と話していれば、遠まわしなほのめかしや意味深な目配せで、嫌でも気づかされる。それでも彼に対して嫌悪や不信を抱いたことなどなかった。
彼女の彼への信頼はゆるぎないものだった。誰が何と言おうと、傷ついた彼女をその力強い腕で包み込み、彼女が再び心を開くまで辛抱強く、優しく見守ってくれたのは彼だ。彼女自身すら拒絶した彼女を受け入れ、自分には生きる価値があると思わせてくれたのは彼なのだ。
たとえ本人に落ち度が無くとも、貞操を奪われ、しかもその証を背負ってしまった女は、貶められ、花嫁にふさわしくないとみなされても仕方がない。でも彼はただの一度も彼女を責めたり蔑んだりしなかった。彼女を守ると誓い、彼女のために憤ってくれさえした。それは、もしかしたら彼が、もともとそういう偏狭なこだわりを持たない人だったからかもしれない。何を知ろうと、何を言われようと、彼を愛している。どう言ったらそれを分かってもらえる?
「ザックス・・・」
彼女は伸ばした手を下ろして静かに呼びかけた。
「あなたは言った。過去は消せない。でも全部引き受ける。そう言ってくれたね?」
彼は絶望的な眼差しを彼女に向けて凍りついたまま、ぴくりとも動かない。
「私も同じ。過去に何があったとしても、あなたはあなただから」
鋭く息を呑む音が聞こえた。ちらっと金色の光が瞬いた彼の瞳を覗き込む。彼の方へゆっくり一歩踏み出しながら、一語ずつ強調して、はっきり発音した。彼を想う気持ちだけでも、正しく伝わるように祈りながら。
「あなたのどんなところも、否定しようなんて思わない。全部、大切な、あなただから」
「俺・・・は・・・」
声が咽喉にひっかかって掠れた。彼は視線を落とし、再び彼に向けてそっと差し出されたほっそりした腕を―あの聖女像を思わせる、だがずっと柔らかく温かな掌を、見つめた。勇気を掻き集めて顔を上げ、ごくりと唾を呑んで言葉を押し出した。
「・・・もし、お前に逢えるって知ってたら、絶対、そんなことは、しなかった・・・」
言いながら自分でも情けなくて吐き気がしたが、彼女は優しく微笑んでくれた。
「うん」
彼はおずおずと血のついていない方の手を出して彼女の手を取り、そっと引いた。彼女はためらわず彼に身を寄せた。彼は胸に引き寄せた小さな手をぎゅっと握り締めた。
「俺は決してお前を裏切らねぇ。誓うよ。この先お前以外の女は愛さないし、二度とお前以外の女とは寝ない」
彼女は嬉しそうに頬を染め、けれど少し困ったような顔をした。
「うん、私、あなたを信じてる。でもね・・・」
でも、は無い。そう言おうとした彼を押し止めて彼女は続けた。
「運命がどうなるかなんて、分からないの。私はそれをよく知ってる。だからこれだけ約束して?どんな時でも、決して自分をおろそかにするようなことはしない、って。そしてどんな時も、あなたがそうすべきだと思うことを・・・それが正しいことだって思える道を選ぶって」
彼は反論しようと口を開きかけ、そして閉じた。深く、どこまでも澄んだ蒼銀の光が真っ直ぐに射し込んで来る。複雑な想いでそれを受け止めた。静かな声が響く。
「私、あなたが言ったとおり、生きることを、愛することを、選んで良かったって思う。どうか私を信じて。何があっても、絶対あきらめないで。愛することも・・・愛されることも」
彼女が何を言おうとしているのか、完全に理解できたわけではなかったし、納得したわけでもなかった。だが愛しい人のひたむきな願いを拒むことなどできなかった。
「・・・わかった。約束する。必ず、正しいと思うことをする。どんな時も」
心底嬉しそうな彼女の笑顔に、彼は、とりあえず彼女の言葉を受け入れたのは間違いではなかったと確信した。
こいつが弱気になってるようなのはちょっと気に入らないが、あんなことがあったんだ、仕方ないだろう。そのうちに分からせてやればいいんだ。俺の気持ちは絶対に変わらない。何があろうとこいつの傍を離れないし、絶対に裏切ったりしない。いつかこいつも、俺が正しかったと言ってくれる。
彼女が彼の胸に沿って手を滑らせ、彼の太い首に回してふんわりと抱いてくれた。
「ありがとう」
彼は彼女の腰に両腕を回して愛しい笑顔を引き寄せた。片手を上げて彼女の頬に触れようとして甲の汚れに気づき、慌ててズボンの後ろでこすってから、薄紅色の頬を宝物のように包み、軽く親指でなぞった。
「悪かったな。こわかっただろ?」
「ううん」はにかんだように笑って、彼女は首を横に振った。
「自分がちゃんと立ち向かえるって、知ってた。だって、あなたが愛してくれてるから」
体の芯が、それから全身の隅々までが、かあっと熱くなる。彼女は真っ直ぐ彼を見上げて言った。
「さっき、あの人に迫られた時、気がついたの。今の私はあの時とは・・・あなたに会う前のあの時とは違う。ずっと強くなった、って・・・たぶんあの時の私は、見捨てられたショックで、弱くなってたと思う。何もかも、自分自身も、信じられなくなって。嫌なことに、ちゃんと抵抗できなくなってた・・・」
唇を震わせて目を落とした彼女は、小さく息をついてすぐに顔を上げ、曇りの無い眼差しで彼を捉えた。
「でもザックスは私を見捨てない。どんな時でも。何があっても」
喉が詰まって、何も言えなかった。言葉を失った彼をじっと見つめていた強い蒼の瞳が、ふいにいたずらっぽくきらめいた。
「それにね、ここはザックスの仕事場だもの、いざとなったら、その辺の物で相手を殴ってでも、逃げられるよ」
いくらなんでもそれは無理だろう。もちろん自信を持ってくれたのは嬉しい―自分がそれに貢献できたんだとしたら、ものすごく嬉しい―し、ちゃんと立ち向かってくれるのはいいことだ。が、あんまり無茶をされても困る。それにお前を守るのは俺の役目だ。
「レーネ・・・」
たしなめるように言いかけた彼の唇を優しい手が押さえた。
「ちゃんと分かってる。いつでも、あなたが守ってくれてるって」
心に響く、湖面を渡る鳥の囀りのように心地良い声。
「愛してる。ザックス」
俺を―俺だけを見ている、きらめく深い湖の瞳。
「俺もだ、レーネ。お前を愛してる。心から・・・」
彼女の幸せそうな笑顔が、最高の宝物だった。
俺の人生で一番の、大切な、大切な宝物。
胸が張り裂けそうな切なさで、固く彼女を抱き締めた。