永遠 〜Symphonie Nr.5 : Adagietto〜
(2ページに分けて掲載しております)
 
久しぶりに自室を出て、城門の近く、城内の東の隅にある厩を訪ねたふぁきあに、馬番が掃除の手を止めて声をかけました。

「ふぁきあ様。もう出歩かれて大丈夫なんですか」
「ああ。心配かけてすまなかったな。こいつの世話も任せきりで」

ふぁきあが馬栓棒越しに首を伸ばしてくる自分の馬を撫でながら感謝を述べると、馬番は、一見気難しげな強面に恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべて頭を掻きました。

「いいんですよ、そんなこと。でも良かったですね。明日の結婚式に間に合って」
「・・・ああ・・・」

ふぁきあは一瞬言葉に詰まりましたが、なんとか曖昧な笑顔を作って答えました。ここに到っても王子を妬ましいと思う気持ちは、不思議にも全くありませんでした。王子への忠誠心も変わらずに在り、それは唯一の救いではありましたが、結果として、相容れない二つの願いの間でふぁきあは身動きが取れなくなっていました。王子があひるを、特別に愛しているわけではないとしても、大切にしていることはふぁきあにも分かっていました。そして何よりそれが〈二人の〉望みだということも。

(王子ならあいつを幸せにできる・・・俺とは違って)

あひるを想う気持ちは誰にも、王子にも負けないと知っていましたが、そんなことには何の意味も無いのだということも、よく分かっていました。ふぁきあは、いたたまれない気持ちで厩を後にしました。
 
 
  部屋に居ると、つい、扉の方ばかり見てしまうのが苦しくて外に出てきたふぁきあでしたが、まだ仕事に復帰したわけではないので他に行くあてもなく、なんとはなしに中庭を廻る長い回廊の東端に出ました。穏やかな初秋の陽射しに包まれた午後の中庭には、たまに回廊を行過ぎる人の他には動くものも無く、ただ遠く噴水が輝いているのが見え、全ては、ふぁきあの心とは裏腹に、平和に満ちて静まり返っていました。

(・・・終わってしまう・・・)

死の淵から呼び戻されて以来、ふぁきあの体の傷は皆が驚くほどの回復力で快方に向かっていました。が、それは同時にあひるが去る日が近づくことを意味しており、心の痛みは増すばかりでした。それでもふぁきあは、あひるの喜ぶ顔見たさに、少しでも早く良くなろうと―少なくともそう見せようと努力していました。あひるは、早くふぁきあから解放されたいと願っているはずなのに、王子との約束を律儀に守り、毎朝必ず来て、そして時間の許す限りずっと傍にいてくれました。

どうやらあひるは自分の手で看病することを償いだと考えているらしく、侍女達を連れては来ませんでした。ふぁきあの看病に付けられていた侍女や従者達も、翌日来た義姉が帰してしまい、必要な時だけ呼ぶようにしていたので、部屋に居るのは普段は三人だけでした。とは言ってもあひるが来ると、義姉はふぁきあをあひるに押し付けて―とふぁきあには思われました―出かけてしまうことが多かったので、ふぁきあはかなりの時間をあひると二人で過ごせていました。それは、もうすぐ失われると分かっていても、幸福な、光に満ちた時間でした。しかし時は容赦なく過ぎ、そのささやかな幸せも今日限り消え去ろうとしていました。正式な王子妃になってしまえば、あひるにはふぁきあの看病をするより重要な事が幾らも有り、何よりふぁきあ自身が、そんなあひると間近に接することなどできませんでした。

今日もあひるは午前中に少し顔を見せてくれましたが、あひるの侍女達に、明日の準備で忙しいと連れ戻されてしまいました。あひるが傍にいる間は明日のことも考えずにいられましたが、姿が見えなくなってしまうと、あっという間にふぁきあの思いはそれに捕らわれてしまいました。あひるは「またあとで」と言って去りましたが、それがふぁきあには「さよなら」と聞こえました。思い返すと尚更そうでした。

回廊に出たふぁきあの足は、自分の部屋ではなく―行くべきではないと分かっていても―自然にあひるがいるはずの方角へと向かっていました。失ったと思った後に思いがけず戻ってきた温もりは前にも増して愛しく、どうしても執着せずにいられませんでした。少しでも離れているとそのまま消えてしまいそうで、不安で堪らなくなるのに、再び失うことなど耐えられそうもありませんでした。自分のものになるのなら地獄に堕ちてもいいとさえ思えましたが、騎士としての誇りと、何よりも愛する人の幸せを願う気持ちが、辛うじてふぁきあを引き止めていました。ふぁきあは、あひるの一点の曇りも無い幸福を護りたいと、心から願っていました。けれどその心の片隅に染みついたどす黒い闇はじわじわと広がり、力ずくであひるを穢してでも手に入れてしまえと囁き、ふぁきあはそれに打ち勝とうと必死で戦っていました。
 
 
 

無意識に導かれるように回廊を進み、閉ざされた図書館の前にさしかかった時、後ろから声がしました。

「死にかけていたというのに、意識を取り戻してからわずか五日で歩き回れるようになるとは、たいしたものだな、ふぁきあ」

ふぁきあは溜息をついて立ち止まりました。

「プリンセス・チュチュがずっと付ききりで看病してくれたそうだから、そのおかげか?」

ふぁきあはあおとあをちらっと見ただけで返事をしませんでしたが、あおとあはふぁきあの態度など全く気に留めていないようでした。

「僕は顔を出すのを遠慮してたんだが、君に話があるので今日中には会いに行こうと思っていた。彼女は一緒じゃないのか?」

辺りを見回すあおとあを睨んで、ふぁきあは無愛想に答えました。

「ああ」
「それは都合がいい。彼女には聞かせたくない話だからな。と言うか・・・」

一方的に話し続けるあおとあに、ふぁきあは溜息を堪えて切り出しました。

「あおとあ、俺も訊きたいことがあったんだが・・・」
「なんだ?君のを先に聞こう」

あおとあの言葉を不審に感じたのが表情に出たのか、あおとあが言い足しました。

「僕の話は多少込み入っているのでね」

そう言いながら、あおとあは中庭の向こう側の回廊を通り過ぎる人影を目で示し、歩きながら話すようにふぁきあに促しました。まだゆっくりとしか歩けないふぁきあに合わせて一歩ずつ足を進めながら、あおとあが尋ねました。

「それで、君の訊きたいこととは?」
「奴らをどうした?」
「奴ら?・・・ああ、図書の者か」

あおとあは一瞬眉を寄せましたが、すぐに気づいて頷きました。

「取りあえず結婚式までは監禁しておく。その後は常時監視付きの軟禁に移行だな」
「それだけか?」

声を尖らせたふぁきあを、あおとあは平然と見返しました。

「それ以上の厳しい処分は無理だろう。下手に騒ぎ立てれば、国王夫妻に累が及ぶ」

ふぁきあは苦々しげに視線を落としました。

「王子は・・・それでいいと?」
「ああ」

黙り込んだふぁきあにあおとあが尋ねました。

「不安か?」
「当たり前だ」

吐き捨てるように言ったふぁきあの様子をあおとあは少し窺っていましたが、ふいと目を逸らして前を向き、あっさりと言いました。

「いい考えがある。・・・これが僕の話だったんだが」

尋ねる表情をあおとあに向けたふぁきあは、次の言葉を聞いて思わず立ち止まりました。

「彼女を連れて行け」

あおとあも立ち止まってふぁきあを振り返り、淡々と続けました。

「この国を去って、二人でどこか遠くで暮らせ。それが一番いい」
「・・・俺を試してるのか?」

表情を硬くして睨みつけるふぁきあに、あおとあはやれやれというように肩をすくめました。

「僕は真面目に言ってるんだが。彼女の命を守ろうと思うなら、この国から出た方が賢明だ。後のことは僕が何とかする」
「なぜだ?」
「なぜ?」

ふぁきあの返事が意外だったのか、あおとあは不審気に眉を顰めました。

「なぜ俺にそんなことを言う?あいつのことは諦めろと、お前が言ったんじゃないか」
「・・・そうだな・・・」

あおとあは少し顔を逸らせて中庭の方を向き、静かに光の雫を撒き続ける噴水を眺めました。

(君達を見ていて、引き裂こうと思う人間などいるわけがないだろう)
「あおとあ?」

あおとあはふぁきあに視線を戻しました。

「僕は、破綻の無い、安定した本当の幸福をこの国にもたらしたいと思うだけだ。王子もきっとそうだろう。とにかく君は今夜中に彼女を連れて城を出ろ。いいな」
「だが、あいつは王子を・・・」

ためらうふぁきあにあおとあは呆れ、あからさまに見下した調子で告げました。

「時々おそろしく鈍いな、君は。彼女は王子と結婚することなど本当は望んでない」
「えっ・・・?」

絶句したまま動かなくなったふぁきあを見ながら、あおとあは不機嫌に考えました。

(なんで僕がこんなことまで教えてやらなきゃならないんだ)

あおとあはふぁきあの返事を待たずに歩き出しましたが、ふと振り返りました。

「ふぁきあ。君は言葉をおろそかにしすぎる。本当に望むなら言葉を尽くせ。・・・この間の会議の時のようにな。言葉は大切なものだ、時には命と引き換える価値があるほど」

それだけ言って、歩み去ってしまいました。


 
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