その夜は月が無く、寂しい星明りだけの闇でした。あひるはペンダントを外して元の姿に戻り、部屋の前の林を彷徨っていました。闇に沈む楡の緑は、あの、見つめているとどこまでも沈んでいきそうな深い瞳を思わせました。

(ふぁきあ、動けるようになって良かった・・・もう大丈夫だよね・・・ふぁきあってば、ヒトのことバカ、バカっていうくせに、自分だって無茶ばっかりなんだもん。いくら王子のためだからって、無茶だよ)

あひるは立ち止まり、地面に目を落としました。

(そう、全部、王子のためだったんだよね。お父様のことも、あたしを守ってくれてたのも・・・ふぁきあがどんなに王子を大切に思ってるか知ってたはずなのに、気づかなかったなんて、あたしやっぱりバカかも・・・)

心がぎゅっと縮んだように痛みました。

(ふぁきあは、あたしが王子のお妃になるから大切にしてくれてただけ・・・あたし自身は好きじゃないのに・・・あ、でも一度だけ、あたしのこと好きって言ってくれたっけ)

思い出すと、自然に頬が熱くなりました。

(あたしだけの、秘密の思い出だけど・・・)

それは怪しい薬が引き起こした悪戯で、ふぁきあにはそんなつもりも記憶もなかったにせよ、あひるにとっては忘れられない思い出でした。長いようで短かった旅の、今思えば一番幸せだった時の、最後の思い出でした。

(王子のためでも・・・ふぁきあはいつだって傍にいてくれた。離れても、ちゃんと戻ってきてくれた・・・)

淡い月光の下でふぁきあが抱き締めてくれた時のことが幻のように思われました。

(もし、あたしの気持ちを伝えられたなら・・・ふぁきあはあたしのこと、女の子として見てくれたかな?護衛する対象じゃなくて・・・恋・・・をする相手として・・・)

どきどきと胸を高鳴らせたあひるははっと気づいて激しく頭を振り、その罪深い、そして虚しい期待を追い払おうとしました。

(ああ、もう、あたしったら、何考えてるの!それにふぁきあにとってはあたしは初めっから王子の妃なんだし、それ以前に、あたしは敵の人間なんだもん、そんなふうに見れるわけないよ)

分かってはいましたが想いは断ち切り難く、あひるは切ない気持ちで願いました。

(なんの枷もなしに、ただの女の子として、会えてたらな・・・)

衝き動かされるようにあひるは再び歩き出し、自分の部屋のバルコニーから少し離れた木陰に近づきました。

(この辺に・・・立ってたんだよね・・・)

その時、ふと、ある疑問が浮かびました。

(あれ?でも、どうしてふぁきあ、こんなとこに・・・)

ふいに背後で草を踏み分ける音がし、あひるはびくっと振り向きました。

「誰っ?!」

ゆっくりと近づいてきたのはついさっきまで心に思い描いていた人で、不安で早鳴っていたあひるの鼓動は、また別の感情で激しく乱れました。あひるはなんとかそれを隠そうと大きくほうっと息をつき、笑顔を作りました。

「あ、びっくりした。ふぁきあ、大丈夫?まだ寝てた方がいいよ」

表情を変えないその人に戸惑いと落胆を感じながらも、あひるは明るく話し続けました。

「後で行くって言ったのに、行けなくて、ごめんね。なんだか色々あって遅くなっちゃったから・・・」

部屋を訪ねるには少し遅い時間になってしまったのは事実でしたが、本当の理由は違うような気がしました。しかし、それは言うべきことではありませんでした。

「そう、それでね、明日だなぁって思ったら、なんか眠れなくなっちゃって・・・てゆーか、とっくに決まってたことなのに、なんだかほんとのことじゃないみたいな気がして・・・」

あひるは取りとめもなく喋りながら、黙って近づいてくるふぁきあから無意識に顔を逸らせ、距離を保つために身を引こうとしました。突然、痛々しく包帯の巻かれた手で肩を掴まれて向き合わされ、あひるは驚いてふぁきあの顔を見上げて、その瞳の真剣さに一瞬怯みました。

「・・・ふぁきあ?」
「この国を出よう」

切羽詰った声で話された内容は予想もしなかったもので、あひるは耳を疑いました。

「なに・・・なに言ってるの、ふぁきあ?」
「ここにいる限り、お前はおびやかされ続ける。命だって、またいつ狙われるかしれない。俺と一緒にここから離れよう・・・必ず俺がお前を守るから」
 
 
 

一つ一つの言葉にありったけの想いを込めて、ふぁきあはあひるに懇願しました。しかしふぁきあの言葉を聞いていたあひるは表情を曇らせ、哀しみを湛えた瞳で黙って見つめ返してくるだけでした。

「やっぱり俺を赦せないのか・・・」

ふぁきあは苦々しげに顔を歪めて呟きましたが、あひるは首を振りました。

「ううん、違うの・・・ふぁきあの気持ちはとても嬉しい・・・でも、できない・・・」
「あひる!」

ふぁきあはあひるの肩を掴んだ手に力を込めましたが、あひるはただ静かに微笑みました。

「ふぁきあは優しいね・・・あたしのことそんなに心配してくれて、ほんとに嬉しい。でもあたし、王子を助けるって、約束したの。あたしは、あたしにできることを一生懸命やらなくちゃ・・・それに、あたしのためにふぁきあを犠牲にはできないよ。だから・・・ありがとう」
「あひる、そうじゃない、俺は・・・」

ふぁきあは唇を噛んでうつむきました。けれどふぁきあが危惧していた通り、ずっと抑え込んできた想いは、一度溢れ出してしまうと、もう止められませんでした。ふぁきあは顔を上げ、あひるの目を真っ直ぐに見据えてはっきりと告げました。

「俺は、お前を愛してる」
 
 
 

一瞬息が止まり、あひるの体をぞくりと震えが走りました。強く掴まれた肩から熱が体中に拡がり、頭がくらくらしました。

「こんなことを言うべきじゃないのは分かってる。だが、このまま・・・何もしないままお前を失うなんてできない。お前を誰にも渡したくない!」

ふぁきあの瞳の奥で燃える炎が、あひるを包んで焼き尽くそうとしているように感じられました。熱に煽られて舞い上がる心地で口を開きかけたその時、不意にあひるはある契約を思い出し、一気に血の気が引きました。

『愛を告げるとお前は消えてしまうよ』

「ふぁきあ、あたしは・・・ダメ・・・」

あひるは震えながら言葉を搾り出しましたが、ふぁきあがその意味を知るはずもありませんでした。

「お前を愛してはいけないってことは承知している!諦められるものなら、とっくにそうしたさ!・・・お前に相手にされてないと分かってても、どうしても忘れられなかった。ずっと黙ってるつもりだったが、でも、もう、この気持ちを抑えられない。誰のものにもなるな!俺の傍にいてくれ・・・!」

あひるは胸を甘く軋ませて顔を逸らし気味にうつむき、あひるを引き寄せようとするふぁきあから精一杯体を離して、消え入りそうな声で囁きました。

「でも、あたしは明日・・・」
「そうだ、だからもう時間が無い。このまま、お前を攫ってでも・・・」
「ふぁきあ、ダメだよ・・・あたしのために罪を犯さないで」

(だって、あたしは・・・ふぁきあに応えられない・・・)

今、抱き締められたら、禁じられた言葉を口にしてしまいそうでした。

「そんなことしたら、ふぁきあはきっと後悔するから・・・」
「お前を失ったらもっと後悔する!」

血を吐くような叫びが、あひるの胸を抉りました。

「お前を得られるなら、他の全てを失ってもいい。お前が欲しい。そのために世界中を裏切ることになっても・・・」
「・・・そして、自分自身も裏切るの?ふぁきあ」
「・・・え?」
 
 
 

山上の泉のように澄んだ瞳に射抜かれ、ふぁきあは一瞬怯みました。

「騎士としての身分も使命も捨てて、あたしを連れてこの国を出て・・・」

瞳の水面が揺れて、ふぁきあの心を乱しました。

「・・・どこか遠くで、この国が見舞われた不幸を聞くの。戦争の歯止めになるはずだったあたしがいなくなって、また今までのように殺し合いが始まって・・・何人もの子供が、親や自分の命すらなくして・・・王子は一人で大烏と戦うしかなくて、苦戦して・・・そしてこの国は滅んだって」
「・・・」
「・・・できないよ・・・ふぁきあにはできないよ・・・この国を捨てるなんて・・・」

じっとふぁきあに向けられた青い瞳から、透き通ったしずくが零れ落ちました。

「王子を守るって、言ってたじゃない・・・」
「・・・あひる・・・」

ふぁきあは返す言葉がありませんでした。あひるは、ふぁきあ自身よりもふぁきあの心を深く理解し、そしてふぁきあが本当に幸せになれるようにと真剣に考えてくれていました。ふぁきあは、自分が誇りを捨てようとしていることをあひるが心から悲しんでいるのを感じ、泣きたいような気持ちになりました。あひるの悲しみは王子のためではなく、ふぁきあのためであると、素直に思えました。

(だが・・・お前にとって俺はあくまで『王子の騎士』なんだな・・・)

それは乗り越えることのできない壁かもしれませんでしたが、憎まれてはいないと分かった以上、諦めることはできませんでした。しばらく黙ってあひるを見つめ返していた後、ふぁきあは静かに口を開きました。

「もう、裏切ってる」

驚いた表情になったあひるに、畳み掛けるように言葉を重ねました。

「どうしようもないほどお前を愛してる、そのことが、既に、裏切りだ。それでも、俺自身の信念にも、意志にすら反していても、俺はお前を愛さずにはいられない。そしてこれ以上欺き続けることはできない・・・王子も、皆も・・・俺自身もだ」

強く掴み過ぎてしまったらしく、あひるが肩を震わせて身を捩り、ふぁきあは手の力を少し緩めました。

「この気持ちが間違いだとは思えない。いや、間違っていると言われるならそれでもいい。王子の信頼にも、自分の責務にも、俺は偽りのない心で向かい合いたい。お前がいなければ、他のものには何の意味もない、それが俺にとっての真実だ」

ふぁきあは、実際にあひるの生命が消えかけたことを思って戦慄しました。

「ここは、お前には本当に危険なんだ。お前を失うなんて絶対にできない。そうさせないためなら、なんだってやる。だが・・・もしもお前が・・・」

言いかけてふぁきあはいったん言葉を切り、それでもあひるに対して誠実でありたいと願って、先を続けました。

「お前が王子を愛していて、どうしてもここに残りたいと言うなら・・・なんとかしてお前の望みを叶えてやる」

動悸が早まって胸が苦しくなりましたが、ふぁきあは深く息を吸ってあひるの肩を掴み直し、一日中頭を離れなかった問いをあひるに向けました。

「これで最後にする。だから、本当の気持ちを聞かせてくれ。お前は王子と結婚したいのか?王子を・・・愛してるのか?」

(違うと言ってくれ・・・どうか!)

みっともなく声が上ずり、ふぁきあはぐっと腹に力を入れて、心を見通すようにあひるの瞳を覗き込みました。

「もしそうでないなら・・・俺はお前を諦めない。絶対に」
 
 
 

あひるは、今にも溢れ出しそうな気持ちを必死に抑え、唇を噛み締めながら、じっとふぁきあを見上げていました。込み上げる喜びと哀しみで、あひるの胸は引き裂かれそうでした。

(いっそ・・・言ってしまった方が・・・)

「お前が俺を・・・俺を愛してもいいと言ってくれるなら、俺は何も恐れない。失うことも、裁かれることも」

ふぁきあの強い瞳に絡め取られ、あひるは目を逸らすことすらできませんでした。

「あひる。俺に望みはあるか?」
「あたし・・・あたしは・・・」

言い淀むあひるをふぁきあはただじっと見つめていました。適当な言い逃れや嘘をつくことなど、あひるは考えつきませんでした。答えないあひるをどう思ったのか、ふぁきあの表情は次第に凍りつき、その瞳は絶望の色に閉ざされていきました。それを見てあひるは焦りましたが、どうすることもできませんでした。

「ダメ・・・なんだな」
(違うの、そうじゃないの!でも・・・)
 
 
 

ふぁきあは苦笑に似た表情でなんとか笑いました。

「いいんだ。分かってた・・・ダメだってことは」

(最初から・・・)

そう、それは初めから決まっていた運命でした。この恋は始まる前に終わっていて、ふぁきあが自分の気持ちを認めた時にはもう、全てが手遅れでした。あひるは言い訳も、ふぁきあを慰めるようなことも何も言わず、ただ大きな瞳で哀しげにふぁきあを見つめ、静かに涙を流していました。ふぁきあはあひるの肩を掴んでいた手を離して、両手であひるの頬を包み、涙の筋を下から上へ撫でるように拭いました。

「困らせて、悪かった・・・」

そう言っていったんは離しかけた手が止まり、あひるの頭と肩をそっと抱き寄せました。

「もう言わないから・・・だから泣くな、あひる・・・」

しかしあひるは微かに震えながらふぁきあの胸を濡らし続け、ふぁきあは途方にくれて、頼りない小さな体を抱き締めました。ふぁきあはあひるを力ずくで奪い去ることもできました。味方してくれる人がいれば、逃げ切ることも可能かもしれませんでした。しかしふぁきあは、己の欲望の命ずるままにあひるを手に入れるには、あひるを愛しすぎていました。

「何があっても、必ずお前を守る・・・騎士として、王子とお前を必ず・・・俺の心も、命も、永遠にお前達のものだ・・・あひる・・・」

身を裂かれるような思いで体を引き離したふぁきあは、しかし、あひるの瞳にまた新たに涙が盛り上がり、零れ落ちようとするのが目に入った途端、考える前に唇を寄せてそれを受け止めていました。拒む気配を見せないあひるの頭を強く引き寄せ、次々と零れ落ちる涙を残らずついばみながら、ふぁきあの唇は知らぬ間に言葉を紡いでしまっていました。

「・・・今夜だけ・・・今夜一晩だけ、傍にいてくれ・・・」

それは頼みというよりも、心の叫びでした。

「ふぁきあ?」

あひるは頭を押さえつけられたまま掠れ声で囁き、少し首を傾げました。その動きにふぁきあの腕の力が強まりました。これを拒否されたらもう生きてはいられない、そんな気さえしました。

「決してそれ以上は望まない。だから・・・」
「・・・うん・・・」

その一言は、ふぁきあが望み得る最高の、そして最後の幸福を与えるものでした。小さくうなずくようにふぁきあの胸に額をつけたあひるの頭を、ふぁきあは愛おしげにそっと撫でました。

(分かっている。お前は王子のもの。そしてノルドとシディニアのもの。夜が明けたら行ってしまう。だけど今夜だけは・・・お前は俺のもの・・・)

ふぁきあはあひるを抱き上げ、暗い楡林の中を、館とは反対の方角へ向かいました。
 
 
 
 
 

空の色が薄くなり始め、物の形が分かるようになってきて、人目を遮るヴェールのように二人を優しく包み込んでいた闇は無情にも消えていこうとしていました。二人で旅していた頃とは違い、朝の空気は冷え冷えとしていましたが、ふぁきあの腕の中は温かく、頼もしく、心地良くて、そこがあひるの居るべき場所のようにすら感じられました。樫の木の根元に、幹に背を預けて座り込んだふぁきあの胸に凭れかかり、あひるはじっと力強い鼓動に聴き入っていました。今は穏やかに、規則正しく響くその音を、そしてその温もりを―もう二度とは戻らない今の幸せを、あひるは心に刻みました。永遠に記憶に留めておけるように。

遠く小鳥が囀り始める気配を感じ、あひるは顔を上げました。

「・・・行かなきゃ」

広く硬い胸を押して立ち上がろうとした途端、そっとあひるを抱いていたふぁきあの腕がぎゅっと―怪我をしているとは思えないほど強い力で―締まって、あひるの動きを拒みました。

「だめだ」
「ふぁきあ」
「だめだ、離せない」
 
 
 

ふぁきあは、自分が手を離しても離さなくても後悔することが分かっていました。それでもふぁきあは、約束に従い、手を離そうと努力していました。しかしふぁきあの努力にも関わらず、ふぁきあの腕は頑なにあひるを抱き締めたまま、放そうとしませんでした。

(いっそこのまま夜が明けてしまえば・・・)

もはや意志の力で自分を動かすことはできず、自暴自棄になった感情のまま、大切に守ってきた全てを壊してしまいそうでした。ふぁきあは悲痛な声で助けを求めました。

「離せないんだ・・・あひる、助けてくれ・・・」
 
 
 

辛そうなふぁきあの様子に、あひるは胸が痛みました。あひるは、自分の一言で、ふぁきあをその苦しみから救えることを知っていました。しかしそれは同時に別の苦しみを負わせることになり、あひるにはどうしても言えませんでした。あひるは痛みと共にその重い言葉を飲み込み、心の奥深く沈めました―この先もずっと隠し通す決心を鎖として、堅く縛り付けて。あひるは深く息をつき、暗い緑の瞳を見つめて静かに囁きました。

「目を閉じて。ふぁきあ」
 
 
 

「・・・?・・・」

ふぁきあは戸惑いましたが、あひるは小さな手を片方、ふぁきあの頬に当て、同じ言葉を繰り返しました。

「目を閉じて?ふぁきあ」

ふぁきあはしばらく逡巡しましたが、あひるをじっと見つめた後、ゆっくりと目を閉じました。そしてふぁきあは、自分の唇に、羽のように柔らかく降りてきたものを感じました。

「あたし達は、一緒に力を合わせて王子を守ろう」

柔らかな声が、張り詰めた胸に滲み通りました。あひるはふぁきあの腕の中で向きを変え、あひるを抱いているふぁきあの手に手を重ね、包み込むように握ると、そっと自分から外させました。そしてふぁきあの手を握ったまま、その腕をくぐって静かに立ち上がりました。ふぁきあはまるで麻痺したように、全く体を動かすことができませんでした。

「・・・あたし達の心は二つで一つのもの。例え体は離れても、触れられなくても・・・心はずっと一緒にいるから・・・」

伸ばしきった腕の先の、さらに伸ばしきった指の先が離れ、ふぁきあの腕はぱたりと落ちました。少し間があって、あひるが走り去る足音が聞こえましたが、ふぁきあは座り込んだまま、目を開けることすらできませんでした。あひるが両手で心臓を抱えるような仕種をして、その手をふぁきあに向かって差し延べたのを、ふぁきあは知ることはありませんでした。


 
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