生贄 〜Le Sacre du printemps : Le sacrifice〜
 
(これでいいんだよね・・・)

自分に言い聞かせるように、あひるはずっと同じ事を考えていました。あひるは、肩口の膨らんだ袖とふわりと広がるスカートの、白いドレスを着せられ、じっとおとなしく椅子に座っていました。きれいに結い上げられた髪に、座ると床まで届く長さの薄いヴェールをまりいが付けてくれました。あんぬが小さな金の冠を被せながら言いました。

「とってもきれいですよ。これならきっと王子様も他の方々も、チュチュ様を愛して大切になさらずにはいられないですよ」
「でも私達は、いつもの、色気も飾り気もさっぱり無い、素朴過ぎるチュチュ様も愛してますよ」

(そっか・・・ふぁきあは、ペンダントの力できれいなお姫様になったあたしじゃなく、ありのままの、本当のあたしを愛してくれたんだ・・・)

容赦無いまりいの言葉に対して人形のように固まって動かないあひるを、あんぬが不審そうに覗き込みました。

「チュチュ様?」
「あっ、うん」

気がついて相槌は打ったものの、あひるの意識はすぐにまた迷路に嵌り込んでしまいました。考えても仕方がないと知りつつ、あひるは浮かんでくる想いを止められませんでした。

(・・・もし、ふぁきあと一緒に行ってたら・・・もし、ふぁきあが無理にでもあたしを連れてってくれてたら・・・もし・・・)

けれど科せられた制約によって結ばれないと決まっている以上、それはふぁきあも自分も苦しめるだけでした。

「・・・様?チュチュ様!」
「えっ?何?」

あひるは再び現実に引き戻され、慌てて顔を上げました。

「このところちゃんとしてらしたのに、今日はまた、ぼーっとされちゃって。どうしちゃったんですか?」
「あらぁ、チュチュ様はこれが普通なのよ」

楽しげにまりいが言うのを呆れ顔で見やり、あんぬは、分かってますよと言いたげな表情であひるに尋ねました。

「昨日、嬉しくて眠れなかったんでしょう?」
「え・・・あ、う・・・ん」

あひるは目を伏せがちに曖昧に答えました。

「とうとうあのステキな王子様と御結婚ですもんね」
「待ちに待った、窮屈で気苦労の絶えない日々ね」

(そうだ、あたしは、あたしを守ろうとしてくれたるうちゃんや、あたしに期待してくれてる王子や、みんなを裏切れないよ)

あひるは想いを振り払うように勢い良く立ち上がりました。

(あたしはふぁきあの命を守れたんだから、それで充分。ふぁきあにとっても、きっとこれが一番いい・・・ちゃんと光の中で暮らして・・・そのうち、他の誰かと愛し合って・・・)

途端に眩暈と吐き気に襲われ、足を踏み出しかけていたあひるは、つまずくようにしゃがみ込みました。

「チュチュ様?!」

あんぬとまりいがさっと両脇から素早くあひるを支えました。

「まあまあ、さっそくつまずくなんて、さすがチュチュ様」
「いつもよりちょっと歩きにくいでしょうから、気をつけて下さいよ」
「むしろ本番でも全員の前で派手に転んで欲しいわぁ」
「・・・嬉しそうよ、アンタ」
「うそお?」

いつもと変わらない二人に、あひるは救われた気がしました。胸の不快感も少し軽くなったようでした。

「だ、だいじょうぶだから。行こう」

(そうだよ。これでみんなが幸せになれるんだから。あたしにできるのは、それだけなんだから)

あひるは顔を上げ、再び歩き始めました。

(あたしの心はふぁきあと同じ。ふぁきあと一緒に、王子を守る)
 
 
 

「なんと、まだ希望を失わないとは、たいしたものだ。・・・まぁ頑張っておくれ、あひるちゃん。苦難を乗り越え、懸命に努力してこそ、いっそう悲劇になるというもの・・・さて、そろそろ私も行くとするか」

老人はニヤリと笑って立ち上がりました。
 
 
 

城砦の中心にある聖堂では、既に参列者が揃い、式典が始まるばかりでした。城砦内で最も高い塔の真下にある扉は開け放たれ、あおとあは王子の侍従長として花嫁を迎えるため、そこに立とうとしていました。扉を出る直前に堂内を振り返ってざっと見渡し、側廊まで溢れるほどに立ち並んだ人々の中に、或る人が―本来はそこにいるはずの人物が―いないことを確認して頷いたあおとあは、ふと不穏な気配を感じて上を見上げました。しかしそこには、華麗な装飾の施された木造天井が、上方の明かり取り窓からの光を浴びて厳かに広がっているだけでした。

あおとあは不審げに少しだけ首を傾げた後、扉を出て、入口階段の最上部の踊り場に立ちました。涼しくなってきたとは言え、雲一つない午時の太陽は眩しく、あおとあは左手を目の上に掲げて、城のある右手寄りの方角を見やりました。あおとあが待っている人は来ないはずでした。あおとあは頭の中で、この後持ち上がるはずの騒動と、それを収めるために構想した手順を反芻し始めました。しかし、最後まで思いを巡らし終える間も無く、高らかに蹄の音を響かせながら、色とりどりの花と布で飾られた瀟洒な馬車が道の先に現れ、あおとあは眉を顰めました。嫌な予感を覚えながらあおとあが見つめる中、馬車は聖堂の前で止まり、あんぬとまりいに付き従われて、純白の衣装を纏ったその人が降り立ちました。

(プリンセス・チュチュ?まさか・・・)

あおとあは慌てて聖堂の周りの人波に目を遣り、向かいの建物の並びの右の角に、もうここにはいないはずの男を見つけました。他の人々がそれぞれ分に応じて着飾っているのに対し、その男は黒い騎士の装束に身を包み、馬に跨ったまま、人々の波から少し下がって建物の陰に隠れるように佇んでいました。

(ふぁきあ、なぜだ?どうして僕の言った通りにしなかったんだ!)

あおとあは今すぐにでもふぁきあを取っ捕まえて問い詰めてやりたいと思いましたが、いずれにせよもはや手遅れでした。幻のように儚く美しいプリンセスが、ゆっくりと石段を昇りきって立ち止まり、静かにあおとあに微笑みかけました。

(まるで全て終わったという笑顔だな・・・)

あおとあは苦々しく考えながらも、他にどうすることも出来ず、ただ黙って膝を折り深々とお辞儀をしました。聖堂の中、人々の間に、祭壇に向かって真っ直ぐに通路のように開けた空間には、壁面のステンドグラスから差し込む陽が薔薇色の光を投げかけていました。花嫁は深く息を吸うと、その光に向かって再び歩き始めました。

(本当にいいのか?これで・・・)

やりきれない気持ちであおとあはふぁきあの方に目を向けましたが、ふぁきあは石像のように固まったまま、眉一つ動かしませんでした。
 
 
 

(・・・行かなきゃ)

あひるは胸の痛みを押して深呼吸し―わずかに、本当にほんのちょっぴりだけ、痛みが紛れたように感じながら―得体の知れない力に引き寄せられるようにゆっくりと、重い足取りで歩き出しました。

(あたしは、もう・・・こうするしかない・・・)

機械仕掛けの人形のように歩みを進め、眩い陽射しの降り注ぐ青空の下から、扉の内に淀む闇に足を踏み入れたその瞬間、白い衣装の襟元で赤いペンダントが鈍く禍々しい光を放ち、あひるはぎょっとして立ち止まりました。突然、まだその時ではないというのに、鐘楼の鐘がガランガランとけたたましく鳴り響き、あひるは両手で頭を抱えるように耳を押さえて、思わず―その行為が花嫁にとって不吉であるにも拘らず―後ずさりました。敷居部分の床石に踵が引っ掛かってよろめきながら町を振り返り、息を呑んで動きを止めました。

先程まで美しく晴れ渡っていた空には灰色の雲が垂れ込め、町を包んでいた明るく華やかな祝賀の雰囲気は跡形も無く消え去り、地を這うような低い地鳴りが空気を震わせました。人々が凍りついたように見つめている聖堂の左手、南側の空に目を向けると、その薄暗い空の中ほどに現れていた染みのような黒い影が、見る見るうちに濃く、大きくなり、赤く光る目を持つ巨大なカラスの姿になって、一声鋭く啼き声を上げました。カッと開かれた口の中は血のように紅く、暗く、全てを呑み込もうとするような不気味な貪欲さで、あひるはゾッと身震いしました。

『大烏は古い伝説の魔物、人の心を蝕む絶望、世界を闇の中に眠らせる』

閃光のようにあひるの脳裏に甦ったのは、以前、ふぁきあの生家の裏の湖で聞いたエデルの言葉でした。

「これが・・・大烏・・・?」

激しい地響きと共に建物が崩れ始め、あっという間に、何百年も前に見捨てられた廃墟の様相を呈していました。見慣れた世界は、まるで突然物語の中に呑み込まれでもしたかのごとく一変し、薄闇の中、口汚く罵りあいながら我先に逃げ出そうとする人々の周りには、黒い翳がまとわりついているようでした。

「ダメ!」

思わず叫んだ途端、聞き覚えのある老人の声が響きました。

「ごくろうさま、プリンセス・チュチュ」
「えっ・・・?」

カツッという音がして、以前にも感じた、時間の止まる感覚がありました。はっ、と声のした方を振り返ると、いつのまにそこに在ったのか、転びそうになっているあおとあの横で棺桶のような大きな箱の蓋が開き、あの老人が現れました。

「止まってしまっていた物語が、お前のおかげで動き出したよ」
「物語が動き出した?」

あひるは意味が分からず、ただ鸚鵡返しにそう尋ねました。

「そうとも。私としたことが、ちょっとばかりドジを踏んでしまってね。物語を封じられてしまって、ココから閉め出されたのさ。私の腕を切り落とした奴らに・・・いや、これから切り落とすことになる奴らと言うべきなのかな?ま、それはどうでもいい。ともかく、それでお前に少し手助けしてもらったってわけだ。せっかく物語を書いたのに、続きが見られないなんてつまらないからねぇ」

あひるにはさっぱり理解できませんでした。

「物語を書いたって、どういうこと?続きって何?」
「王子は私が書いた物語の中の王子さ。両親が望んだとおりの理想の王子。だがその物語は同時に、王子が戦うべき敵―大烏を呼び込んだ。腹に底無しの絶望を持つ魔物・・・そして、人々が己の幸せのみを願う心や、それを阻むものを憎む心を喰らって成長し、やがて世界を闇で覆い尽くす、大烏を。それで奴らは、物語の続きが王子に不幸をもたらすのを怖れて、私を抹殺しようとしたのさ」

あんぐりと口を開けたまま声も出ないあひるを、老人は楽しげに見て言いました。

「そして物語の呪いを運ぶとされた敵国の姫、つまりお前も、消そうとした。そのペンダント・・・」

手袋をはめた手で指差され、あひるは思わず手を上げて胸元を押さえました。

「本当はそのペンダントこそが、この呪われた物語を動かす鍵だったんだよ。だが、奴らはそれに気づかないまま、運んでいるお前が元凶だと思い込んだ。ま、確かにお前がいなくちゃ役には立たなかったんだが。しかも厄介なことに、ペンダントの力を使う者だけは物語の力を撥ね返してしまう。その二つはもともと同じ力だからね。お前の運命だけは、私にも操ることができなかった。実際、お前が奴らに消されてしまわないかとヒヤヒヤさせられたよ。ま、それも物語の楽しみの一つだ」

老人はさも愉快そうに声を立てて哂いましたが、あひるは今までの様々な出来事を思い出して―そしてそれが周囲の人にもたらした結果に思い至って、愕然としました。

「あたしが、物語を動かした・・・」
「そうだよ。この場所にはちょっとしたカラクリがあってね。人質として差し出された悲劇の姫君が、運命を恨み、心に闇を抱いたまま物語の鍵を運び込めば、そのカラクリが動き出し、物語の続きが現れるという仕掛けだ」
「でもあたしは、運命を恨んだりは・・・」

否定しかけたあひるの声に被さるように、嘲笑を含んだ老人の声が響きました。

「お前は願いの叶う別の世界を望んでいただろう?同じことさ。それこそ物語の世界。お前がそれを望んだんだ」
「あたしは・・・!」

きっぱりと否定し切ることはできませんでした。ぎゅっと唇を噛んだあひるの動揺を見透かすように、老人は鼻先で嗤いました。

「なんと美しくも哀しい挿話だろう!王子の騎士との赦されない恋とは!!私が思いもつかなかった苦しみで、お前達が私の悲劇に華を添えてくれた」

あひるははっと顔を上げました。

「じゃあ、ふぁきあを助けてくれたのは・・・?」
「そりゃ、その方がおもしろいからさ。もっともお前にはこの場所に来てもらわなきゃならなかったから、少し意地悪させてもらったけどね。・・・だがお前の騎士はちょっと期待外れだったね。あれの父親の方がまだ甲斐性が有った」
「ふぁきあの、お父様・・・?」

怪訝そうに顔を顰めたあひるに、老人は目をぎょろつかせて嬉しげに答えました。

「おや、言わなかったかい?彼の本当の父親は国王の騎士だったが、国王に嫁ぐはずの宰相家の姫を攫って逃げたのさ。そそのかしたのは今の王妃。こっちも血筋かな?だが今回の蛇は、私欲が無いぶん、力不足だったな」

あひるそっちのけで一人不満げにぶつぶつと呟いた老人は、ふと我に返って説明を続けました。

「ま、それはともかく、彼は本来、宰相家の正当な跡取りで、裏切り者の息子だ。父親と同じように主君を裏切ってくれるかと期待したんだがねぇ。そうやって足掻くほどに陰惨な悲劇になっていくのに・・・罪は白日の下に晒され、騎士は汚名にまみれて処刑され、王子の心に消えない瑕疵を残す!いいと思わんかね?」

あひるは一瞬絶句した後、拳を握り締めて叫びました。

「何言ってるの!皆が苦しむ方がいいなんて、そんなわけないじゃない!!」

老人は両手を横に広げて肩をすくめました。

「やれやれ、話にならんね。まあいいさ。とりあえず目的は達せられた。代用品にしては、お前は良くやったよ」
「だ・・・代用品・・・?」

虚を衝かれてあひるは目を丸くし、それから急に得体の知れない不安に襲われました。

「そう。私が考えていた筋書きでは、運命の姫君はプリンセス・クレールのはずだった。美しさと賢さとつよさを兼ね備えた姫君。だがシディニア王が余計な浅知恵を働かせたおかげで、姫君が入れ替わってしまった。だからお前にも同じものを授けなければならなかったのさ」

言いながら老人はまたペンダントを指し示しました。

「まあ、それについてはそれほど苦労しなかったが。プリンセス・クレールがお前の身を案じて、お前を守るためにそれを取りに来てくれたからね。それがお前を苦しめることになるとも知らずに・・・強過ぎる愛情は不幸を呼ぶ」

そう言って、老人は意味ありげに口の端を上げました。

「所詮、決められた運命は変えられない。シディニア王は娘を守ったつもりだったかもしれないが、一層悲惨な結末を招いた。プリンセス・クレールは悲劇からは逃れられない、それが運命だ」

あひるは恐れに駆られながらも、思わず一歩踏み出しました。

「るうちゃんに何かあったの?!」
「知りたいかい?本当に知りたいのかい?」
「教えて!」

もったいぶる老人にじりじりしながらあひるは迫りました。

「ハッハッ・・・それでは教えてあげよう。シディニアの王と王女は、同盟国によって消されたよ」
「えっ!・・・」

絶句したあひるを楽しそうに見やり、老人は得意げに話し続けました。

「シディニア王はノルドへの憎しみで冷静な判断を失くし、オストラントと手を組んだものの、臣下の謀反で暗殺された。もちろんオストラントの差し金だ。シディニアを狙ってたオストラントにとっては、またとない好機だったからね。王女はオストラントの妾妃になることを拒み、処刑された。こうしてシディニアは滅亡しました、というわけさ」
「うそ!・・・るうちゃんっ!!」

あひるはその場に泣き崩れ、老人はいっそう楽しげに高哂いしました。

「プリンセス・クレールは死を望んでいたのさ。あの姫君は賢かったからね、戦争を止めるなんて難しいってことも分かっていた。しかも、あひるちゃんを助けようとする自分の心をそのペンダントに封じてしまったせいで、戦争を避けるために自ら行動を起こすことが何一つできなくなってしまったんだよ。プリンセス・クレールはそんな自分を責め、そればかりか、いずれは女王となって攻撃を命じなければならない運命を呪って、絶望の闇の中にいたのだ」

あひるは座り込んだまま、一言も発することができませんでした。るうの苦しみが胸に詰まり、涙も止まってしまいました。

「私の最初の筋書き通りにしていれば、こんなことにはならなかったかもしれないね。お前がしゃしゃり出てきてくれたお陰で、一段と楽し・・・いや、哀れな悲劇になった!」
「そんな・・・だってあたしは・・・みんなが幸せになれるように、って思って・・・」

あひるは震える声で呟きましたが、老人の声は無情な返事を響かせるばかりでした。

「残念だったね、プリンセス・チュチュ。そうそう思い通りにはならないよ。言っただろう?愛が深過ぎると自分も相手も滅ぼすものさ。誰のためにもならない。それが悲劇の約束だ」

呆然とするあひるをせせら笑うように、老人は問いかけました。

「お前のせいでみんなが苦しみ、そして命を落とす。さあ、どうする?」
「あたしの・・・せいで・・・」

あひるはふらふらと立ち上がり、石段を降りて聖堂を離れましたが、動き出した物語はもう止まりませんでした。

「大烏が現れて、世界は闇に呑み込まれつつある。呼び出したのはお前なのだから、お前はその生贄となるがいい。それがお前に定められた運命だ」

高らかな哄笑を残して老人の姿が掻き消え、それと同時に、再び時間が流れだしました。動きを取り戻して逃げ去ろうとする人々の流れに逆らい、あひるは何かにあやつられるように大烏に向かって進んでいました。


 
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