愛の死 〜Tristan und Isolde : Präludium und Liebestod〜
 
ふらふらと歩み出てきたあひるを見て、大烏は嬉しそうに笑いました。

「哀しみと苦しみで染まり、闇色に輝く、若く美しい心臓。その心臓を我に」

動き始めた大烏は次第に大きさを増して、南の空全体を覆うほどにもなっており、あひるは既にその翼の下に入りかけていました。降り注ぐ瓦礫の下を群集が悲鳴を上げて逃げ惑い、辺りが騒然とする中、あおとあは階段の上の踊り場に転んだまま、逃げることもできずに、際限なく巨大化していく大烏を見つめました。このままではこの国だけでなく、世界中が大烏の力で覆い尽くされてしまうのではないかと思われました。その時、大烏があひるを捕らえようと、黒光りする爪を持ち上げるのが目に入りました。あひる目掛けて一直線に襲い掛かったそれが白い衣装にかかるかと息を呑んだ瞬間、あひるの背後を駆け抜けた黒い影が華奢な体を攫い、尖った爪はすれすれを掠めて宙を掴みました。
 
 
 

『行くな!あひる!』

突然頭の中に響いた声にあひるの足は不意に止まり、途端に、ふわりと体が浮かんでいました。袖口と手袋の隙間から覗く痛々しい包帯を見るまでもなく、あひるは、自分が誰の腕の中にいるのか分かりました。

左手で手綱を掴んだまま身を乗り出すようにして右腕であひるを掬い上げたふぁきあは、体を起こしてあひるを胸元まで抱き寄せると一瞬顔を顰め、苦しげに息をつきましたが、すぐに左手で手綱を器用に操って向きを変えました。そして聖堂から飛び出してきた王子のところまで駆け戻りながら、あひるを後ろから抱き締め、ヴェール越しに耳元で囁きました。

「・・・お前に会えて良かった・・・」
(な・・・に・・・どういう意味?)

あひるは聞き返す暇も与えられずに地面に降ろされ、王子の方へ押しやるように突き放されました。つんのめるようにニ、三歩進み、王子に手を取られて振り返ったあひるの目に、懐かしい騎乗姿のふぁきあがあひるを見つめているのが映りました。

「あきらめるな」

ふぁきあはそう言って王子とあひるに静かな笑顔を見せたかと思うと、馬首を返して大烏の方へと駆け出しました。

「ふぁきあ!」

王子は後を追おうとしましたが、駆け寄ってきた他の騎士たちに引き止められ、あひると共に石段の上まで引き戻されてしまいました。その間にふぁきあは、どこからともなく現れたカラスの群れに囲まれていました。
 
 
 

闇の中で老人は安楽椅子に腰掛けると、それに揺られながら楽しそうに嘲いました。

「ほほう?王子の前に哀れな騎士が引き裂かれるのか。どのみち王子と大烏が戦う運命は変えられないのに、愚かなことだ。いや結構、無意味な犠牲ほど悲劇的なものはない、これは使える」

老人は身を乗り出して頷きました。

「決して手に入らない姫君を、命を捨ててもいいほどに愛してしまったのだから、仕方ないねぇ?だが、それは私が書いたお話じゃないよ。お前自身が紡いだ物語、選んだ結末だ」
 
 
 

思うように動かない体で、満足に戦えないことはふぁきあにも分かっていました。それでも逃げ出すことができない以上、他に選ぶ道はありませんでした。大烏が人々の心に引き起こす恐怖はふぁきあにも例外ではなく、近づくほどに強くなる不安に背筋がぞっとしました。覚えのない絶望感と闘いながら、襲ってくるカラス達を切り裂いて道を開き、何とか前に進もうとするふぁきあに、大烏は不敵に笑いました。

「希望を失った哀れな騎士。その心臓を我に捧げよ」

大烏はふぁきあの苦しみにつけ込んで誘い込もうとしました。

「心臓を失くせばその苦しみからも逃れられる」
「・・・俺は絶望に囚われたりしない!」

大烏の誘惑は、かえってふぁきあに、見失いかけていた己の心をはっきり認識させました。ふぁきあは瞳に強い意志を宿して大烏を睨み、苦しげに息を切らせながらも重い剣を掲げ上げました。

(あいつに出逢って、俺は憎しみを乗り越えることができた。そしてあいつの心が俺の心に寄り添い、勇気を与えてくれる・・・絶望に立ち向かう勇気を)

最も強く望んだものを失ったはずの騎士は、それでも心に灯り続けている光を感じていました。その幽かな光を消さないために、騎士は、身を挺して戦うことを選んだのでした。
 
 

地面にできた大きな割れ目を跳び越えたふぁきあは、降りた時の衝撃で馬の背に叩きつけられるように強く揺られ、激痛で息が止まりました。

(生きる、って、約束、したのにな・・・赦せ、あひる・・・)

既に剣を握っている手に力が入らなくなってきていました。馬上で身を起こしているだけでも、苦痛で気を失いそうでした。

(あいつは俺を忘れてしまうだろうか・・・)

自分の存在が消え去ってしまうことは、正直に言えば怖いと思いました。けれどふぁきあには、それに負けない強い想いがありました。

(たとえ何も残らないとしても)

生涯守ると決めた大切な人が幸せになれるなら、それ以上望むことはないという気がしました。ずっとふぁきあを苦しめていた心の飢えはやっと充たされそうでした。奪うことではなく、捧げることによって。

(俺は、最期までお前と王子を守る・・・お前達は俺の・・・全ての人の、希望・・・)

静かな深い瞳を上げて、ふぁきあは前を見据えました。左手で手綱を握り締め、次々に湧いてくるカラス達を叩き切りながら、大烏へと詰め寄っていきました。

「やめろっ!ふぁきあ!」
「だめっ、やめてえぇぇっ!!」

王子の制止とあひるの悲鳴が聞こえましたが、ふぁきあは一瞬も止まりませんでした。大烏は執拗にふぁきあを狙って爪を伸ばしてきました。ふぁきあは大烏に向かって速度を上げ、馬上に伏せて巨大な鋭い爪をかわし、そのままの姿勢から手綱を強く引いて馬を跳躍させ、大烏に向かって飛び込みました。空を駆けながら右手の中で剣の柄を回して向きを変え、両手で握りなおして大烏に突き立てようとした瞬間、反対側の爪が振り下ろされました。
 
 
 

「・・・ふぁきあっ!!」

大烏の爪に引き裂かれ、跳ね飛ばされた体は、真紅の飛沫と共に人形のようにあひる達の目の前に落ちました。悲鳴を上げて聖堂に逃げ込もうとする侍女達の手を振り解き、あひるは何のためらいもなく飛び出して、石畳の道に投げ出された無残な体を抱き寄せました・・・まるで壊れてしまったものを再び繋ぎ合わせようとするかのように。白いドレスとヴェールを翻し、空気を滑るような素早さで石段を駆け降りていったあひるの姿は、人々の目には、純白の鳥がふぁきあの上に舞い降りたように映りました。ふぁきあを―彼の引き裂かれた体を抱いた白い鳥は、あたかも自身が傷ついたかのように、瞬く間に鮮紅色に染まりました。ふぁきあと自分を染め上げていく赤い色を見ながら、あひるは突然、ふぁきあを永遠に失った事に気づきました。

「・・・あっ・・・」

咳き込むような小さな悲鳴だけがあひるの咽喉から漏れました。まるであひるの心も一緒に引き裂かれてしまったように、大きな青い瞳は輝きを失い、豊かだった表情は消えて、涙すら流れませんでした。
 
 
 

「運命に翻弄され、抗って、苦しみ抜いた騎士が、縋る思いで伸ばした手を、姫君は無情にも拒絶した。その報いを今、受けるのだ!」

哄笑が闇に響き渡りました。

「愛ゆえに全てを失った哀れな姫君!なんて生贄にふさわしい!!」
 
 
 

その凄惨な光景に、あおとあは不覚にも吐き気に襲われ、口元を押さえました。正視できずに目を逸らしたあおとあは、引き止めている騎士たちを振り解こうとしている王子に気づき、慌てて叫びました。

「ダメです、王子!」

あおとあは、吐き気も忘れて王子の前に飛び出し、両腕を掴んで押し止めました。

「もう助けられない」
「あおとあ!」

王子の厳しい叱責にあおとあは一瞬怯みましたが、少し迷う様子を見せた後、首を振りました。

「あなたを危険に晒すことなど、彼らは望んでない。それにもう誰にも―あなたにも、彼女を連れ戻すことはできないでしょう。彼女自身が望んでいるんです」

そこで言葉を切り、王子に顔を近づけて小声で囁きました。

「愛する人と共に在ることを」

驚いてあおとあを振り仰ぐ王子に、あおとあは悲愴な表情で告げました。

「我々には救えない。何もかも、手遅れです」

王子は唇を噛み、大烏の前で動かない二人を見やりました。

「だが・・・このまま見過ごしにはできない。それに大烏と戦うのは、僕の運命なんだ」
「・・・王子・・・」

いつもただ穏やかで美しかった王子の顔に、今は苦悩と、そして覚悟が表れていました。
 
 
 

「お前もその男の後を追って死ぬがいい」

大烏が冷酷な爪を振り上げましたが、あひるは見てはいませんでした。

「プリンセス・チュチュ!」
「チュチュ様!!」

人々の声もあひるには届きませんでした。

「そして絶望に染まったお前の心臓を我に」
 
 
 

その時、ふぁきあの引き裂かれた肩に乗っていたあひるのペンダントが血にまみれて滑り落ち、赤く強い光が一面に広がりました。あまりのまばゆさに人々は目を覆って顔を背け、あるいはしゃがみ込み、大烏さえ、その動きを止めてしまいました。それと同時に、あひるの頭の中にるうの声が響きました。

『あひるっ!』
「るう・・・ちゃん?」

一瞬、あの老人が言ったことは何もかも作り話だったと―るうは無事で、すぐ傍にいるんだ、という思いがあひるの頭をよぎりました。しかし返事は無く、それが空しい期待だったことはすぐに分かりました。けれどもあひるはるうの声を聞いて、急に目が覚めたような心地になりました。そうして、空虚な砂漠のようだった心に、悲しさと、恐怖と、後悔が一度に湧き上がりました。

「どうしよう、るうちゃん・・・ふぁきあが・・・あたしをおいて・・・」

言葉と共に涙が溢れ出ました。

「・・・もう、二度と戻ってこない・・・ふぁきあの笑顔を見ることも、声を聞くことも・・・あたしの想いを伝えることも、できないんだ・・・」

あひるは、もし自分の気持ちを伝えていたなら、ふぁきあはこんな風に死なずに済んだのではないかと思わずにいられませんでした。少なくとも絶望の中で、独りで逝かせる事はなかったはずだと。

「どうしてあたしはふぁきあに言わなかったんだろう。こんな風に誰も彼も不幸にしてしまうくらいなら・・・あたしなんか消えちゃえば良かった・・・」

あひるは、皆の幸せのために頑張っていたつもりでした。そのためにふぁきあの望みさえ犠牲にしました。けれど、良かれと思って選んだ道は、結局誰にとっても不幸しかもたらしませんでした。

「ごめんね、みんな・・・全部あたしのせい・・・ごめんね・・・ふぁきあ・・・」

血飛沫で汚れたふぁきあの顔を見つめ、その開かない瞼に、あひるはそっと手を触れました。

「あたしはふぁきあに何もしてあげられなかった・・・一番大切な人なのに・・・」

うつむいた拍子に涙がこぼれ、ふぁきあの顔に筋を残して流れ落ちました。赤い光の中で、時が止まっているかのように、二人を染めた血の色はその鮮やかさを保っていました。
 
 
 

どこかの闇の中では、白い紙に次々と文字が綴られていました。

『赤い光に抑え込まれていた大烏が、それを押し退けるように動き始めていた。そして生贄への貪欲な執着を見せ、光の源へ爪を伸ばそうとしていた。しかし光の中心はまるで熱い炎が燃えているかのようで、それ以上近づくことができず、手をこまねいていた。人々はまだ光から顔を背けてしゃがみこんでいたが、王子が目を開けてみると、最初に感じたほど眩しくはなかった』
 
 
 

鮮やかな赤は体の芯まで滲み込み、あひるの心まで染め上げているようでした。

(ふぁきあの命の色だ・・・)

ふとあひるは、なぜか、ふぁきあがすぐ傍にいるように感じました。恐怖がすうっと消えました。

(今しかない。今なら・・・)
 
 
 

『王子はまだ僅かに自分を引き止めていた手を振り切った。一方、大烏は、一気に光を打ち破って生贄を捕らえるべく、再びその爪を高く振り上げた』
 
 
 

「あたしがしようとしてることは、間違ってるかもしれない。でも、あたしにはもう、何が正しくて、何がそうじゃないのか、分からなくなっちゃった・・・だから、自分が本当に望むことをしよう。どんな結末になっても、後悔しないように・・・」

あひるは涙に濡れた顔を上げ、腕の中の大切な人を見つめました。大量の血が失われたため、その体はすでに冷たく、顔は青白くなっていましたが、表情は穏やかでした。あひるはその輪郭を確かめるように、頬から顎にかけてそっと愛しげに撫でました。

「ふぁきあは怒るかな・・・?いつもみたいに『バカ』って言って・・・」

もう聞くことの出来ない声が頭の中に響いた気がしました。バルコニーの下であひるに手を差し伸べるふぁきあの姿が浮かんで、ひどく胸が痛み、あひるは目に涙を溜めて微笑みました。

「でもふぁきあだって、あたしがダメって言ったのに行っちゃったんだもん、おあいこだよ・・・」

ふぁきあに向かって呟き、あひるの心は再びそのふぁきあの腕の中へ飛び込みました。あひるを抱き止めるふぁきあを感じ、あひるは、今度は、力いっぱい抱き締め返しました。

「ずっと傍にいるよ、ふぁきあ・・・あたしは・・・」

ゆっくりと額を合わせて瞼を静かに閉じると、こぼれたしずくがふぁきあの頬を濡らし、血と混じり合ってしたたり落ちました。

「・・・愛してる・・・」

あひるはふぁきあの唇に告げました。

「・・・あなたを」


 
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