矢は狙った山鳥を掠りもせず、大きく逸れて初夏の青い空を泳ぎ、木立の向こうに落ちた。山鳥は慌てた様子も無く、爽やかな風の中を悠々と飛び去った。

「くそっ」

クリスは弓を下ろして俯き、右手で前髪を掻き上げた。今日は朝から何一つ仕留められない。自分でもいらいらして集中力を欠いているのが分かる。深く溜息をついて、クリスは矢が落ちたと思われる場所へ向かった。
 
 
 

ここのところリンデは精神的に不安定になっているようで、ちょっとしたことで泣いたり怒ったりする。今朝もリンデが嫌いなヤギのチーズを残したので―以前はそんなことは無かったのに、このところ匂いの強い食べ物はことごとく拒否する―クリスが注意すると、途端に感情的になって言い返し、ついクリスも応酬してしまった。それだけならまだ良かったのだが、今朝は話がまずい方へ向かってしまった。頑として拒むリンデに、クリスは、それなら宰相家に帰って好きなものを食べろと言ってしまったのだ。リンデは泣き出し、クリスが弁解しようとしても激しく拒絶して、一言も言わせてくれなかった。興奮して手のつけられないリンデを放ったまま、クリスは逃げるように家を出てきてしまった。
 
 
 

「はぁ・・・」

クリスは今日何度目か分からない溜息をついた。

(あれはどう考えても僕が悪かった・・・)

あんな言い方をするつもりではなかったのだ。リンデの体が心配で、どうしても聞き入れて欲しくて、クリスがどんなに真剣にそう望んでいるか分かって欲しくて、それできつく言い過ぎた。

(どうして上手く伝わらないんだろう・・・)

そもそも何故リンデはあんなにぴりぴりしているのだろうか?何か不満があるなら解消してやりたい。体調が悪いのだろうかとも思ったが、ザックスが毎月のように連れてきてくれる産婆によれば、リンデも子供も元気で順調だということだったので、何が問題なのか、クリスにはさっぱり分からなかった。

(ザックスか・・・)

また溜息が洩れた。胸に尖った小石のように何かが引っ掛かかっている。それが、今にも心臓を傷つけそうな危ういバランスを保っているのを、クリスは意識せずにはいられなかった。自分がリンデに対して異常なほど独占欲が強いということは自覚している。たぶん気にしすぎなのだろう。ザックスはクリス達よりひと回り以上も年上で、頼れる兄か、もしかしたら父のようなものだ。ザックスがリンデを見つめる眼差しに見えるのは慈しみとか心配であって、恋愛感情のそれではないし、彼がリンデをずいぶん気にかけて親切にあれこれ世話を焼くのも、リンデの危なっかしくて放っておけない様子を見れば不思議なことではない。リンデの方もザックスに強い親しみと信頼を示していたが、それも彼女が兄のパルシファルを慕っていたのと何も変わらない。

(パルシファルを・・・)

しかしそれはそれで別の不安をかきたてた。リンデがザックスを頼りにしている様子なのを見るにつけ、クリスは、彼女が兄や、元の暮らしを恋しがり、帰りたがっているのではないかと疑わずにはいられなかった。それとても、元を糺せば、彼女が本当に望むことを叶えてやりたいという気持ちから生ずるものだったのだが、彼女を手放したくないと思う気持ちが強過ぎるせいで、それは本来の真摯な愛情からはかけ離れた、暗い疑惑の蔓となって自分を絡め取っているように感じられた。解くためにはまず、冷静さを取り戻さなければならないことは分かっていた。だが、考えようとするだけで、どうしようもなく心が乱れてしまう。彼女は自分と一緒にいて、本当に幸せなのだろうか?それとも・・・ クリスは首を振り、藪を掻き分けた。

木立は山肌が崖になって落ちる手前で途切れていて、その縁は背の高い藪になっている。そこを抜けて崖上の狭い空間に出たクリスは、目の前の光景を見て息を呑んだ。すぐ先のがれ場の突端にザックスが身を乗り出し、今にも飛び降りようとするように下を見つめていた。

「ザックス!」

崩れて少し低くなっている崖の先端に向かって、クリスは石だらけの傾斜を慌てて駆け下り、後ろからザックスの太い二の腕を掴んだ。ザックスが驚いて振り返り、クリスを認めてニヤリとした。

「よおヴァルター、どうした、そんなに慌てて」

クリスが唖然として声も無くザックスを見つめ返していると、ザックスはクリスが手ぶらなのを見てからかうように言った。

「今日は収穫無しか?凄腕の猟師にしちゃ珍しいな」

クリスは我に返って自分を見下ろし、顔を顰めた。

「今日はちょっと・・・調子が悪くて・・・」

ザックスの顔に愉快そうな笑みが浮かんだ。

「どうした、奥方と喧嘩でもしたのか?」

クリスはぐっと返答に詰まったが、それが返事のようなものだった。

「なんだ、おい、あんたらがいさかいするなんて、夏に雪でも降るんじゃねぇか?なんか深刻な問題でも起こったのか?」

ザックスは相変わらずふざけた口調だったが、クリスを覗き込んだ瞳にはちらりと気懸かりそうな色が見えた。

クリスはまたしても深々と溜息をついた。ザックスに隠しても仕方がない。彼しか相談できる相手はいないし、彼なら何らかの答えを示してくれるかもしれない。少なくともいくつかの疑問については。

「エーファが・・・最近、エーファの機嫌が急に悪くなることが多くて・・・僕の話をちゃんと聞いてくれないし、何かわだかまりがあるみたいで、理由を知りたいと思うんだが、どうしたら話してくれるか分からないんだ。すぐ泣かせてしまって・・・」
「なんだ、そんなことか」

ザックスはこともなげに笑った。

「子供が腹にいる時ゃそんなもんだ。気にするな。適当に話を合わせて、機嫌を取ってやりゃいい。あんまり真剣になって追い詰めないこった」

あっさり答えてクリスの肩を叩いたザックスを恨めしげに見て、クリスは少し拗ねた。

「よく知ってるんだな」
「ああ、俺の女房も今くらいの時期はそうだったからな」

そんなにあからさまに驚いたつもりは無かったが、表情に出てしまったらしい。ザックスがおかしそうに目を光らせ、鼻を不服げに鳴らしてみせた。

「何だ。俺に女房がいたら変か?」

クリスはあさっての方へ目を泳がせ、辛うじて言った。

「いや、そういうわけでは・・・ただ、今までそんな話は聞いたことが無かったから・・・」
「ああ。あんたに会った時ゃ、俺ぁもう、やもめだったからな」

ということは、ザックスはかなり早くに妻を亡くしたことになる。あまり話したくない話題だろうと思い、クリスは言葉を濁して話を打ち切ろうとした。

「そうか・・・」

しかしザックスは表情を変えることもなく、足元の小石を軽く蹴り上げて、クリスに向き直った。

「前にあんたに、なんで俺がシディニア語を知ってるか、って聞かれたことがあっただろ?ほんとはな、女房がシディニアの女だったんだよ」

衝撃でクリスは今度は言葉も出なかった。そんなクリスを見て、ザックスはくすりと笑った。

「いつかあんたには話そうと思ってた。他の誰にも言うつもりはねぇが、あんたは恩人だからな」

ザックスの方が自分の恩人なのではとクリスは思ったが、黙ってザックスを見つめ返していた。ザックスがその場に腰を下ろし、近くの岩を指差したので、クリスはザックスに向かい合うようにそこに掛けた。

「あんまり聞いて楽しい話じゃねぇと思うが、勘弁してくれよな」

そう前置きしてザックスは、崖下に視線を落とした。


 

 続き Fortsetzung

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