「そん時、俺はまだ二十を少し過ぎたばかりだった。そのちょっと前に親父が死んで、靴屋として独り立ちしたが、まぁ、とってもそれで落ち着くって感じじゃなくてよ、いろいろ危ねぇ仕事に手ぇだしたり、ガキの頃から入り浸ってた猟師の爺さんの所で猟師の真似事したりしてふらふらしてた。その日も俺は猟師を気取って山ん中をうろついてた。あいつを見つけたのはほんとに偶然だった。あいつは・・・死のうとしてたんだ。ここから飛び降りて」

今そこに、その光景が見えているかのように、ザックスは崖の縁を凝視していた。

「俺は反射的にあいつをとっ捕まえた。あいつは、そりゃ、猛烈に抵抗した。言葉が通じねぇから、ノルドの女じゃねぇってのはすぐ分かった。俺は有無を言わせずにあいつを組み敷いて動きを封じた。そん時になって俺は、なんであいつが死のうとしてたのか、気がついた。あいつの服は引き裂かれてぼろぼろで、髪も顔も泥だらけで・・・よく見ると体中に痣がついてた。何があったか一目瞭然だった」

苦しげに息をつき、一呼吸置いてからすぐに再び話を続けた。

「しばらく押さえつけたままじっと動かずにいて、俺があいつを傷つける気がねぇって分かったのか、あいつはおとなしくなった。それで俺はとりあえず、あいつを猟師の爺さんの家に連れてった。今、あんたらが住んでる家だ」

ザックスがクリスに目を向けたので、クリスは頷いた。

「爺さんはすぐに事情を察してあいつを引き受けてくれた。しばらく面倒見て、元気になったらシディニアに帰そうって話が決まって、俺は、とりあえず俺の役目は終わったと思った。そのままあいつを置いて帰るつもりだった。だがあいつは、ちょっと目を離した隙に、今度は湖に身投げしようとした。で、結局、俺と爺さんで交代に見張る羽目になっちまった」

わずかに苦笑いを浮かべて、ザックスは頭を掻いた。

「三、四日くらいそうしてたかな。やっとあいつが落ち着いてきたんで、俺はあいつを爺さんに任せて家に戻った。けど、どうしてもあいつのことが気になって、次の日にすぐ様子を見に行った。次の日も、その次の日も・・・一週間ばかりして気がついた。あいつが俺の心の中に入り込んじまってるってことに。爺さんが俺に、あいつが俺を待ってるらしいなんて言うもんで、ますます会いに行かずにいられなくなった。お互いに少しずつ言葉を覚えて、会話らしいものもできるようになった。ある日、ふと思いついて、途中の道端で摘んだ花を持ってったら、初めてあいつが笑いかけてくれた。それでもう、俺は完全にその気になっちまった。あいつのいない生活なんて考えられねぇ、あいつをどこにも行かせるもんか、シディニアの女だろうとなんだろうと、あいつと結婚しようと。あいつの心と体の傷が癒えたらすぐにでも。だが、俺は甘かった。運命は俺が考えていたよりもっと残酷だった。あいつは・・・」

ザックスは膝に肘をついて、手で顔を覆った。

「身籠らされていた。ショックだった。あいつが乱暴されたって事実を消せねぇってことが。俺は、俺もあいつもそのことを忘れられると、嫌な記憶には目をつぶって、それで幸せに暮らせると思ってた。けど、それが一生つきまとうんだってことを思い知らされた。そん時の俺は、それに立ち向かえるほど強くなかった。あいつは俺以上に苦しんでたはずなのに、思いやってやる余裕も無かった。俺は爺さんの家を飛び出した後、家にも帰らず山ん中をうろついて・・・多分、足元がふらついてたんだろう、ここから落ちた」

そう言いながらザックスは崖の方へ顎をしゃくった。

「落ちる時、俺は妙に納得したような気分になったよ。死ぬ方が楽な時もあるんだってな。滑り落ちてる途中で気を失って、そのまま丸一日、下に寝転がってたらしい。次に目を開けたら、あいつの顔が見えた・・・はるか崖の上に、小さく。あいつは真っ青な顔して俺を見てたが、俺と目が合った途端、何も言わずに顔を背けて、すっ飛んでった。ああ、俺はあいつに嫌われたんだ、って思ったよ。それもしょうがないってな。しばらくして兵隊がたくさん来て、俺を引き上げた。俺は死に損なったって分かった」

自嘲気味に口の端を引き上げて笑い、ザックスは一瞬空を仰いだ。

「そん時ゃなんでだか分からなかったし、疑問にも思わなかったんだが、俺は国王陛下の・・・前の国王陛下の山荘に連れて行かれて、そこの兵舎で手当てをされた。何日かして家に帰ったら、なぜか爺さんが家で待ってた。ずっと待ってたらしい。俺に知らせようと思って。そこで俺は初めて事実を知った。あの日あいつは勇気を振り絞って、今まで近づかなかった町まで来て、俺の家を訪ねた。そこで俺が帰ってねぇって分かって、俺を探した。町中探していなかったから、山ん中を探して、俺を見つけ出した。そしてあいつは俺を助けるために、手っ取り早く人手を集められる場所に駆け込んだ。俺が近づくなって言ってた、国王陛下の山荘に。門前で、シディニア訛りの片言で騒ぐあいつは、簡単に兵隊達を引っ張り出すことに成功した。そして俺は助けられ・・・あいつはとっ捕まった」

ザックスは歯を食い縛り、髪を掻きむしった。

「まったく女ってなぁ、とてつもねぇ生き物だよな。こっちが思いもよらねぇことを平気でやりやがる。ほんとに、なんもかんも犠牲にしちまえるんだ。そんなこと、こっちはこれっぽっちも望んでねぇのによ」
「・・・ああ」

クリスは頷かずにはいられなかった。ザックスはクリスの顔をちらりと見て弱々しい笑みを浮かべた。

「そうなっても、俺はどうしたらいいか分からなかった。ただじっとしてられなくて、毎日、山荘の前まで行っては何もせずに戻ってきた。何日かそれを繰り返して・・・その日も俺はただ無意味に山荘の周りをうろついていた。だけどその日、俺の目の前で門が開いて、馬に乗った陛下が何人かの騎士と一緒に出てきた。俺は何も考えずにその前に飛び出して、気づいたら陛下に直訴してた。あいつの腹には俺の子がいる、だからあいつを返してくれと」

硬く握り締めた両手を口元に押し当てて、ザックスは溜息をついた。

「とんでもねぇ大嘘だ。バレたら俺もただじゃ済まねぇ。俺は死にもの狂いであることないこと並べ立てて、なんとか陛下を言いくるめようとした。とにかくあいつを取り戻したいって、それしか考えてなかった。陛下は何も言わずに俺を見てた。俺はあの透明な目に射すくめられて言葉が出なくなって・・・ただ必死の思いで陛下を見上げてた。陛下は傍にいた騎士に何か一言二言言って、そのまま俺の方は振り向きもせずに行っちまった。俺はその騎士が山荘の方に戻ってったのに期待を託して、そこで待った。待ってる時間は長かった。やっぱりダメだったのかもしれねぇと思い始めた時、さっきの年配の騎士が現れた。あいつを連れて」

クリスには、ジークフリード王がザックスの嘘を信じたわけではないことも、それでもザックスの心の真実を見抜いて彼女を返してやったのだということも分かっていた。けれどクリスは黙って聞いていた。ザックスが顔を上げて正面からクリスを見た。

「そん時の俺の気持ちが分かるかい?駆け寄ってきたあいつを抱き締めて、もう絶対離さねぇって誓った。あいつがどこの誰だろうと、どんな過去があろうと、あいつ自身には何の違いもねぇ、あいつの無垢な魂は俺の、俺だけのもんだって。俺はあいつを家に連れて帰った。爺さんの家じゃなく、俺の家に。そしてすぐにあいつと結婚して、初めてあいつを抱いた。そん時初めて、あいつは俺に会った時のことを話してくれた。俺はてっきりあいつはノルド兵に襲われたんだと思ってたんだが、そうじゃなかった。シディニア兵達だったんだ。信じられるか?自分達を守ってくれるはずの自国の兵士だぞ」

拳がぎりぎりときつく握り締められ、目に激しい怒りの炎が燃えた。

「しかもあいつはシディニア側の山中で襲われた時、婚約者と一緒だったんだ。だがその下衆野郎は、あいつを守るどころか置き去りにしてさっさと逃げちまった。あいつはむごたらしく傷めつけられただけじゃなく、信じてた人に裏切られ、夢見てた未来も失って、自ら命を絶つしかなかったんだ」

クリスは一言も口を挟まなかった。戦争の醜悪な現実も、人間の信じ難いほどの残酷さも、クリスはよく知っていた。暴行されて殺された無残な遺体を、一度ならず見たこともあった。無論、彼自身の部隊では、ノルドであれシディニアであれ、略奪や暴行などの行為を厳しく禁じていたし、そのような場に出くわした時には、それを止めるべく全力を尽くした。が、幾多の戦場とその周辺で繰り返される全ての残虐行為を阻止できるはずもない。それはクリスに責任のあることではないにせよ、忸怩たる思いを抱かずにはいられなかったし、そういう時だけは、自分に権力の無いことを口惜しく思いもした。だから、ザックスの怒りは身に沁みて分かったが、クリスは敢えて沈黙を守った。クリスが見た悲惨な被害者達―なかにはあどけない子供も、身重の女性もいた―に比べれば、ザックスの妻はまだしも幸運だったと言えるのかも知れない。しかしクリスは安っぽい同情も慰めも口にはしなかった。ただ静かな深い瞳で、真っ直ぐにザックスを見つめていた。ザックスはふっと軽く息を吐いて横を向き、言葉を継いだ。

「・・・そうして無意識に死に場所を求めて山ん中を彷徨って・・・けどあいつは、それでも誰も責めようとはしなかった。俺は歯痒くて、もどかしくて・・・できることならそいつらを全員ぶっ殺してやりたかったが、それでもあいつの心の傷を癒すことはできねぇって分かってた。俺がその場にいてやれさえしたらって、歯軋りせずにいられなかった。怒りと無力感で黙り込んでた俺に、あいつは謝った。ほんとのことを言わずに、騙すみたいにして結婚してすまなかったって。国王の遣いの騎士から、俺が国王に言ったことを聞いて、『あなたは本当に愛されているのだね』って言われて、嬉しくて舞い上がってたって。好きな人と結ばれて、もう思い残すことは無いから、これでお別れでも構わないって・・・バカだよな」

ザックスが彼自身と妻のどちらをよりバカだと思ったのか、本当のところはクリスには判別しかねたが、尋ねたりはしなかった。

「俺はあいつにはっきり告げた。何があってもあいつを手放す気はねぇし、もう絶対に誰にもあいつを傷つけさせねぇって。俺が全てを受け止めて、あいつを守るって。あいつは、誰にも自分を傷つけることなどできない、それができるのは俺だけだって、そう言って泣いちまった。俺はあいつが泣き止むまで、ただずっと抱き締めてるしかなかった。それからほとんど片時も離れずに過ごした。俺は靴屋の仕事に精を出し、あいつもノルドの暮らしに少しずつ慣れていった。笑ったり、喧嘩したりしながら、毎日一緒に暮らして、俺は幸せだった。子供も、本当に俺の子だって思えるようになった。あいつの腹を撫でて二人で話しかけたりして、楽しみに待ってた。これで何もかもうまくいくと思ってた。けど、その日は突然やってきた」

唇を切れそうなほど噛み締めて、ザックスは俯いた。

「それまであいつは具合の悪そうな様子なんて全然見せなかったんだ。なのに、あとひと月ほどで生まれるだろうって時になって、急に苦しみ出して、その後はあっと言う間だった。子供が流れた挙句、あいつも・・・逝った」

血を吐くような声でザックスは言葉を搾り出した。

「もうほとんど意識も無かったのに、あいつは最期まで俺の手を握り締めて・・・ありがとうって、言ってた・・・何もしてやれない、役立たずの、情けない俺に!俺は結局、あいつを助けられなかった!!」

ザックスの拳が石だらけの地面にめり込み、血が滲んだ。

「絶対に許せなかった。あいつの人生を・・・幸せになれるはずだったあいつの一生を台無しにした奴らも、あいつを守りきれなかった俺自身も。何もかも嫌になって、俺はちょうどこの町にまわってきた徴兵にとびついた。シディニア兵を皆殺しにして、そして運が良ければ俺も死ねるかもしれねぇ、そう思ってた。だが徴兵の期間が終わってもまだ俺は生きてて・・・ずるずると軍に残った。ここに帰る気にはどうしてもなれなかった。俺のそれまでの人生、あいつに出逢ったことも何もかも、全て忘れちまいたかった。そんな時に、あんたに会った」


 

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