ザックスが自分の意思で軍に残っていたことはクリスも知っていた。しかし貧しい農民にはよくあることだったので、特に気に留めてはいなかった。クリスは自分の不明を恥じた。もっとも、知っていたからといって、どうしてやれるというものでもなかったが。ザックスはクリスと目を合わせて話し続けた。

「最初は、よくいる、親の威光で地位を得ただけの、なんの苦労もねぇ貴族の坊ちゃんだと思って気にもしてなかった。むしろ能無しで未熟者なら、やっと俺も死ねるんじゃねぇかと歓迎してた。ところがあんたは、今まで会ったどの上官よりも有能だった。任務を遂行するのに誰一人として犠牲を出さねぇし、それで当然のような顔をしてる。司令官に媚びへつらうこともねぇし、俺達に威張り散らすこともねぇ。むかついたよ」

ザックスの目が挑むようにニヤリと笑った。クリスは何と答えていいか分からず、ただ困ったように微笑んだ。

「何より俺が苛立ったのは、あんたがあいつに似てたことだ。困難を一人で抱え込んで、誰にも愚痴も不満も言わねぇ。自分のためには何も望まず、ただ誰かのために一生懸命で、自分を犠牲にすることも厭わねぇ、そういうところがどうしてもあいつを思い出させた。こっちは必死で忘れたいって思ってるのによ。だから俺はあんたが大嫌いだった。命令違反したのも半分はあんたへの反感だ」
「もう半分は・・・死にたいと思ってたからか?」

クリスが尋ねると、ザックスは肩をすくめた。

「まあな。まさかあんたが一人で俺達を助けに来るなんて、そこまでバカだとは思わなかったしよ」

クリスは怒るべきだったのだろうが、その気にはなれなかった。

「そしてあの事件だ。正直、俺は、あんたが本当にあいつらを助けるつもりだとは信じてなかった。どっかで逃げ出すんだろうと踏んでた。あんた一人なら逃げられるって分かってたからな。けどあんたが櫓ごと水に落ちた時、突然俺は気づいた。あんたもあいつも『守る』人間なんだってことに」

寒気がしたのか、ふいにザックスは自分の腕をごしごしとこすった。

「それまで俺が知ってた人間は、俺もそうだが、みんな自分のことに手一杯で、自分が傷ついてまで誰かを守ろうなんて考える奴はいなかった。まだチビだった俺としがない靴屋の親父を捨てて貴族の囲われ者になったお袋もそうだし、それを止めようとするでもなく、ただ成り行きに任せるばかりで、まるで何事も無かったようにふるまってた親父もそうだ。俺を育ててくれた父方の祖母は、俺を溺愛してたが、お袋との折り合いは悪くて、親父はそれも見て見ぬふりをしてたらしい。俺は家に居着かず、遊びまわってばかりいたが、仲間はみんな他人を自分の踏み台としか考えてねぇような奴らばっかりだったし、一番まともだった猟師の爺さんだって、人里離れた山ん中に閉じこもって、決して世間と深く関わろうとはしなかった。そして俺も・・・あいつを失くした時に俺がまず守ろうとしたのは、あいつへの誠意でも、大切な思い出でもなく、ちっぽけな、取るに足りねぇ俺自身の自負心だった」

苦々しげに顔を歪めたザックスは、しかし、ふっと力を抜いてクリスを振り向いた。

「けど、あんたは違った。信じられねぇような強さで、いつも誰かを守ろうとした。そしてあいつも、俺なんぞよりよっぽど強かった。国王の山荘に飛び込んだことだけじゃねぇ。あいつにとっては、誰かを信じるってこと自体が恐怖だったはずだ。それでもあいつは俺を信じてくれた。俺とノルドの町で暮らすことも、本当はとてつもなく恐ろしかったに違ぇねぇのに、あいつは精一杯の勇気で俺と一緒にいてくれた・・・俺はあいつを守るつもりで、本当は、守られてたのは俺の方だったんだ」

一瞬ザックスが泣くのではないかと思ったが、ザックスは瞳をきらりと光らせただけで、じっとクリスを見つめていた。クリスは否定も肯定もしなかった。

「俺は自分が間違ってたことを知った。あいつを守れなかったなんて自分を責めることすら、俺には分不相応だってことを。俺にできるのは、ただあいつに感謝して、あいつがくれた真心を受け取ることだけだった。俺が本当は情けねぇ男だってことも、それでもあいつを幸せにしたかったって想いも、忘れることなんかできねぇし、忘れる必要もねぇんだってな。あんたは俺にそれを気づかせてくれた。だから俺はどうしてもあんたを助けなきゃならなかった。そしてあんたが、あんたの一番大切なものを守るために去って行った後、俺も故郷に戻った。俺の一番大切なものを守り、共に暮らすために」

ザックスは崖の下の一ヶ所、何の変哲も無い石の周りに小さな青い花が咲き乱れている場所を指し示した。

「あそこにあいつと、俺達の子と、俺の心が眠ってる。誰にも邪魔されずに、静かに・・・俺は今もあいつを愛してる。あいつが応えてくれなくても、その気持ちは変わらない。たぶん、これからもずっと・・・」

クリスは明るい初夏の光に輝く花をじっと見ていた。風が青い波のように花を揺らして吹き過ぎて行った。クリスはぽつりと呟いた。

「・・・それでだったんだな・・・」

問うように眉を上げたザックスと視線を合わせた。

「しょっちゅう産婆のゼンタを連れてきてくれるのは。エーファの体調に異常が見えたらすぐ分かるように・・・」
「ああ、ま、余計なおせっかいかもしれねぇとは思ったが、早めに気がついてりゃ、防げることもあるらしいからな。あの後知ったんだが、初めての時ってのは、特に危ねぇらしいんだ。もし俺が・・・」

言いかけてザックスは口を閉じ、首を振った。

「罪滅ぼしにはならねぇかもしれねぇけどよ、あんたに俺と同じ思いをさせたくねぇし、俺もこれ以上後悔したくねぇからな」

ザックスは軽い調子で言い、組んだ手を首の後ろに当てて空を見上げた。クリスは恥じ入るように一瞬目を伏せ、再び顔を上げてザックスに向き直った。

「・・・ありがとう。本当に君には、なんと礼を言ったらいいのか分からない。あの時、君に会えてなかったら、今頃どうなっていたか・・・心から感謝している」

ザックスは顔を顰めてじろりとクリスを睨み、そっぽを向いて顔の脇で軽く手を振った。

「そんな大層なことじゃねぇ。俺はただ、あんたらには幸せになってほしいと思ってるだけだ。あいつもそう望んでるような気がしてな」

クリスは青い花の群れに目を戻した。

「彼女が君の命を救い、君が僕を救ってくれた。だから、僕にとっては二人とも命の恩人だ。ザックスと・・・」

そこでクリスは言葉を切り、尋ねる表情をザックスに向けた。ザックスは気づいて、軽く頷いた。

「レーネだ。レーネって呼んでた」

ザックスの言い方にクリスはわずかに眉をひそめた。

「呼んでた?」
「ああ。最初に名前を聞いたが、あいつは言おうとしなかったんでな。無いと不便なんで、俺がつけた。マクダレーネだ」
「ああ・・・なるほど」

クリスは内心強く納得するものがあった。それは町の教会に祀られている聖女の名だった。傷ついた女性をその名で呼んだザックスの心根の優しさを感じた。しかしその話をしていたザックスは顔を曇らせた。

「あいつは結局、本当の名前を教えてはくれなかった・・・俺は今でも時々ふと思ってしまうんだ。あいつは俺を愛してくれてはいた。それは間違いねぇ。けど、あいつは本当は、できることならシディニアに帰りたかったんじゃねぇかって。あいつは本当の心も、名前も、ずっとシディニアに残してたんじゃねぇかってな」

クリスはその言葉にびくりとしてザックスを見つめた。そしてしばらく考え込んでいたが、ややあって苦い省悟の表情を浮かべて口を開いた。

「僕は・・・」

言いかけて少しためらった後、クリスは慎重に言葉を選んで話し続けた。

「僕は子供の頃、両親を亡くした。その時同時に、名前も、故郷も、それまでの自分の全てを失くした。クリスチャンという名は、養い親がつけてくれたものだ」

ザックスは驚きの表情を隠さなかった。

「それ以降、元の名で呼ばれたことは一度もなかったが、僕は新しい名前を当たり前のように受け入れながらも、ずっとそれを借り物のように感じていた。エーファ・・・リンデに逢うまで。彼女が僕に出逢って最初に言った言葉は『変な名前』だったんだ」

その時のことを思い出してクリスはふっと微笑んだ。

「おかしな話だが、彼女にそう言われて、初めてクリスチャンという名が僕の名になった気がした。彼女は僕の新しい名前と新しい人生に誇りを与えてくれた。それからは、僕は、彼女がその名を呼んでくれるのを待ち望むようになった。彼女の唇から僕の名がこぼれると、それだけで幸せな気持ちになれた。今また僕は別の名で暮らしているけれども、どんな時でも、彼女が僕を呼ぶ名前、それが僕の本当の名だ」

クリスはザックスに向き直り、穏やかに問いかけた。

「人の名前っていうのは、物のようにそれ自体についてるものじゃなく、人と人との間にあるものじゃないだろうか。愛する人の口から愛情を込めて呼びかけられれば、それが自分の名前になる。だから君が彼女をレーネと呼んで、彼女がそれを自分の名前だと思っていたなら、それが彼女の本当の名前なんじゃないか?」

ザックスは返事をしなかった。その代わりに、しばらく黙っていた後、ぽつりと尋ねた。

「あいつは幸せだったと思うか?その・・・俺と一緒にいた間」
「それは君の方がよく知ってるよ」

クリスは即答した。

「僕に言えるのは、僕はそれほど過酷な運命を負わされたわけではないけれども、それでもリンデに出逢えなければ、この人生に意味を見出すのは難しかっただろうということだけだ」
「・・・ああ・・・そうか。なるほどな」

ザックスは崖下に目を落としたままそう言い、長いこと背負っていた重荷を下ろした人のように、静かに深く息をついた。クリスはザックスの横顔を見ながら、愚かしくも不安に捉われていた自分の弱い心を省み、心の中でリンデに詫びた。青い花の群生がさざ波のように揺れ、クリスはそこに、自分に向かって微笑む乙女の姿を確かに見た。
 
 
 

鬱蒼とした梢越しにこぼれる午後の陽射しが、木立の間に無音の音楽を奏でている。穏やかな木漏れ日の細い猟師道を連れ立って戻りながら、ザックスは今まで黙っていた反動のように、妻との日々を、幸せそうに、楽しそうに、クリスに語り聞かせた。思い出は次々に溢れて止まらないらしく、途切れることなく続くその話に、クリスはたまに相槌を打ちながら耳を傾けていた。10年以上も前の記憶だというのに、ザックスの話はまるで昨日のことのように鮮やかで、彼がその思い出をずっと胸の中で大切にしていたというのがよく分かった。

「・・・だからよ、俺はほんとに幸運な男だったと思うぜ。あいつと結婚できたんだからな。俺の人生に与えられた最高の宝だ」

曇りない表情で言い切るザックスの顔を見ていたクリスは、ふと気懸かりそうに眉を寄せた。ザックスが過去の中だけに生きているように感じた。

「・・・じゃあ、これからもずっと独り身でいるつもりなのか?もう誰も愛さないのか?」
「いや。そんな風に考えたことはねぇ」

あっさりと返され、クリスは少し意表を衝かれて目を見開いた。ザックスはちらっとクリスの反応を見遣ってくすりと笑った。

「そんなことはあいつも望まねぇだろうし、それにあんたも知っての通り、俺だってこの10年、ずっと『清らかな』生活をしてきたわけじゃねぇしな」

そしてからかうようにニヤニヤとクリスに笑いかけながら付け足した。

「それに、こう言っても良ければ、俺はあんたもあんたのかみさんも愛してるぜ」

冗談めかしてはいたが、それが本心からの言葉であることは、クリスには痛いほどよく分かった。自分達は―仮にではあれ―ザックスがこの世で家族と呼ぶことのできる唯一の存在なのだ。

「ザックス・・・」

言葉に詰まって見つめ返したクリスに、ザックスは不服そうに鼻を鳴らし、さも鬱陶しげに手を振った。

「ま、とにかく、俺ぁ別に世捨て人みてぇに暮らすつもりもねぇが、今まであいつ以上に愛せる女には出逢えなかったし、今後も逢えるとは期待してねぇ。それよりも、もう一度あいつと一緒になれる、その時が待ち遠しい」

クリスはかすかに息を呑んでザックスに慎重な視線を向けた。ザックスはクリスの懸念を読み取り、落ち着いた表情でクリスを見返して首を横に振った。

「いつかまた、きっと、あいつと子供に逢える。そんな気がするんだ。神様の前かどうかは分からねぇけどな」

明日の予定でも話すように淡々と語るザックスに、クリスは返す言葉が無かった。
 
 

ふとザックスが、急に思い出したという様子で口調を変えた。

「そういやぁ、王妃様も御懐妊らしいな」

クリスは思わず思い切り顔を顰め、ザックスに大声で笑われた。

「まあ、そんな顔をするな。過去のいきさつはともかく、これはあんたらにとってもいい知らせなんじゃねぇか?お世継ぎ誕生ともなりゃあ、あんたらの事件は完全に過去のものになるだろう?そうすりゃ、もう逃げ隠れする必要もなくなるかもしれねぇし」

テルラムントの性格から推してそう簡単にはいかないだろうとクリスは思ったが、あえて異論は唱えなかった。

「そうだといいが」

それだけ言って肩をすくめた。ザックスはちょっと心外そうに眉を上げたが、それ以上その件には拘らなかった。そして再び、いかに彼の妻が美しく、優れていたか、そしていかに彼らの生活が愛に満ちていたかという話に戻った。
 
 
 

道のりが半ばを過ぎた頃、クリスは何か気になることが有るのか、話の合間に何度か口を開きかけてはやめるといった様子でためらっていた。が、やがて意を決したらしく、緊張した面持ちで切り出した。

「ザックス。一つ教えて欲しいことがあるんだが・・・」
「おう、改まってどうした?」

クリスは頬骨の辺りをほんのりと紅潮させて口ごもり、それでも一生懸命に勇気を奮い起こそうとするように、肩にかけた弓を握り締めた。

「こんなことを聞くのはどうかと思うんだが、どうしても気になって・・・その、僕にとってはおろそかにできない問題で・・・」
「だからなんなんだ?」

ザックスが不審げに眉を寄せた。クリスは大きく息を吸い、一気に言葉を吐き出した。

「妊娠中でも構わないものなんだろうか。その・・・行為をしても?」

ザックスの目がまん丸になり、そしてはじけるように爆笑した。クリスは尋ねたことを後悔し、耳まで真っ赤にして、怒ったような表情でそっぽを向いた。

「なんだ、ずっと我慢してたのか?」

背中をザックスの大きな手で力いっぱいどやされ、クリスはむせ返った。

「そりゃあ、あんたも辛かったな。けど、もう心配要らないぜ、コツを教えてやる」

クリスはザックスをちらりと見て再び顔を逸らしたが、ザックスは満面の笑みだった。ザックスはクリスの情けない一面が気に入ったらしく、一つ勿体ぶった咳払いをすると、至極真面目な表情をつくって―とは言っても笑いを堪えているのは丸分かりだったが―ちゃんと懇切丁寧に教えてくれた。


 

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