クリスはいくつかの悩みの答えを得て、晴れ晴れとした心地で家に帰りついた。獲物は何も無かったが、久しぶりに明るい前向きな気持ちになっていた。早く腕の中にリンデを抱き締めたい、その想いで胸をいっぱいにふくらませながら扉を開けた。しかし台所と居間を兼ねたその小さな部屋にリンデはいなかった。まだ日は暮れてはいないが、寝室にいるのだろうか?奥の扉を見遣って何とはなしにそう考え、クリスははっとした。もしかして急に具合が・・・?一瞬、心臓が止まり、大きな音を立てて弓矢を取り落とした。蒼白になって粗末な木の扉に駆け寄り、叩き壊しそうな勢いで押し開けた。けれど、リンデはそこにもいなかった。当て所なく辺りを彷徨ったクリスの視線が、質素なベッドの上の開かれた小さな窓の向こうに止まった。いた。リンデはこちらに背を向け、湖の縁にしゃがみこんでいた。クリスがほっとしたのも束の間、急にリンデが立ち上がり、湖の中へ、スカートが濡れるのも構わずざぶざぶと入り始めた。

「リンデっ!」

クリスはベッドに駆け上がり、狭い窓を身を屈めてあっという間に擦り抜け、軋む木枠を蹴って飛び出した。
 
 
 

(謝らなきゃ・・・)

クリスが本気で言ったのではないことは分かっていた。それでもあの時は、クリスの言葉に頬を打たれたような気がして、込み上げる激しい感情を抑えられなかったし、今もまだ心が揺れている。

(心配してくれてるんだよね)

心の底ではちゃんと分かっている。それなのにどうしてあんな態度をとってしまったのだろう?最近、自分でも自分が神経質になっているのに気づいていた。別にこれといって不満や不安があるわけでもないのに、いつも何かに対して身構えているように緊張している。ささいなことが気になって―しかもほとんどの場合、ちょっとした言葉尻や語調といった、取るに足りないことだ―それに大げさに反応してしまう。そして一旦感情が走り出してしまうと止まらない。自分でも良くないと思い、常に気をつけているつもりなのに、うまく制御できなかった。

(なんでかな・・・)

肩を落とし、溜息を洩らした。ちゃんと謝って、二度とあんな態度はとらないと約束したい。でも自信がなかった。このままではいつか、本当に嫌われてしまうかもしれない。いつか本気でリンデに帰れと・・・

リンデは身震いし、そしてふと目の前の光景に気づいて、慌てて立ち上がった。水に足を取られつつ何歩か進んだところでふいに足が地面から離れ、動転してお腹を抱え込んで身をすくめた。
 
 
 

クリスは自分でも信じられない速さで湖に駆け込み、リンデを捕らえて腕に抱き上げた。

「何やってる、バカ!」
「なっ・・・なに?」

腹部に腕を廻して縮こまったリンデが、びっくりした表情でクリスを見上げた。澄んだ大きな瞳に心臓を射抜かれ、クリスは腕の中のか細い躰をぎゅっと自分の胸に押し付けた。乱れた鼓動が伝わったかもしれない。リンデが眉をひそめ、クリスの腕に片手を置いた。

「クリス・・・どうしたの?何かあったの?」

クリスは安堵と苛立ちの混じった溜息をついた。

「それは僕が訊きたい。いったい何があったんだ?まだ水浴びの季節には早過ぎるだろう?」

激しく波立つ心を押し隠そうとして、声がくぐもった。リンデは困ったような微笑を浮かべた。

「それ・・・」

リンデの指差す先には、半分沈みながら風に押されてゆらゆらと漂っていく、晴れ着らしい美しいヴェルヴェットの上着があった。

「頼まれものの刺繍をしてたら、指を刺してちょっと血がついちゃったの。すぐに落とさなきゃと思って洗ってたんだけど、ついぼうっとして流しちゃって・・・」

クリスはさっとリンデの左手を掴んで指先を確かめた。人差し指の先の傷は小さく、既に血は止まっているようだった。クリスがその指先を強く吸うと、リンデがはっと身を硬くするのが感じられた。クリスはリンデの手を離し、身籠っていてもなお華奢な躰を抱え直して、大股で岸に向かった。

「あっ、クリス、あの、あれ・・・」

リンデはクリスの肩越しに上着の方へ手を伸ばした。

「分かってる」

岸に上がったクリスはリンデを降ろし、すぐに踵を返して再び水に入っていった。腰まで水に浸かり、水中に横たわる倒木の枝に引っ掛かっていた上着を掴み上げると、足早に戻ってきた。

「あの・・・ごめんね。ありがとう」

リンデがクリスの顔を上目遣いに窺いながらおずおずと言い、上着を受け取ろうと手を差し出した。しかしクリスは右手に上着を持ったまま、左手でリンデの右手首を掴み、そのまま無言で家へと向かった。強引に、しかしそれでもリンデの体に配慮してゆっくりと手を引くクリスに、リンデは大人しく従うほかなかった。
 
 
 

リンデを家の中に引き込み、扉を閉めたクリスは、持っていた上着を手早くテーブルに広げ、自分の長靴を蹴飛ばすように脱ぐと、リンデの方へ手を伸ばして濡れた服を脱がせ始めた。

「あっ、えっと・・・自分で脱げるから・・・」

しかしクリスは手を止めなかった。リンデの前に片膝をついて彼女に自分の肩を掴ませ、彼女の足からびしょ濡れの靴を剥ぎ取った。一言も口をきこうとしないクリスの硬い表情に、リンデはクリスの強い怒りを思って、みじめな気持ちになった。また不注意で失敗をしでかしたせい?それとも今朝のことをまだ怒ってる?・・・どちらにしてもクリスに面倒をかけてしまったことには違いない。とりあえず謝らなくては。今日一日、ずっとそのことばかり思っていたのだから。

「あの、クリス、ご・・・」
「ごめん、リンデ。僕が悪かった。許してくれ」
「えっ?」

いきなり謝罪で遮られ、リンデは面食らってまじまじとクリスを見つめた。クリスはリンデの小さな素足を両手で包んだまま、じっと彼女を見上げていた。

「本気じゃなかったんだ。・・・今朝のことだが」

驚きに見開かれたリンデの瞳を、クリスはやや頬を赤くしながら真剣な眼差しで見返し、急いで言葉を続けた。

「つい勢いであんなことを言ってしまって、悪かった。あれは僕の本当の気持ちじゃない。君を傷つけるつもりでもなかった」
「ああ、うん、それは・・・わかってるけど・・・」

リンデが戸惑いながらもそう答えると、クリスは明らかにほっとした表情を浮かべた。

「じゃあ、許してくれるか?僕に愛想を尽かして、本当に帰ってしまったりしないな?」
「うん、もちろん、だって私が居たいところはここしかないよ。何があってもクリスとずっと一緒に居たいって、思ってるんだもん」
「リンデ」

喜んだクリスが立ち上がりざまリンデを引き寄せようとするのを、彼女は慌てて両手を突っ張って押し止めた。うやむやになって言えなくならないうちに、これだけは言っておかなくては。

「ごめんなさい」

クリスが眉をひそめてリンデを見返した。リンデは不安で挫けそうになる自分を叱咤しながら続けた。

「クリスの方こそ、私が嫌になっちゃったんじゃない?」

緊張で声が震えた。クリスが何か言いかけたが、その前に急いで言葉を継いだ。どんな返事であれ、それが与えられる前に、せめてちゃんと謝っておきたかった。

「クリスが私のために言ってくれてるって分かってたのに、私ってば意地になって逆らったりして・・・クリスが怒るのは当然なのに、その上、あんな風に見苦しく取り乱してクリスを拒絶するなんて・・・どうかしてた。自分でも、なんであんなことしたのか分からないけど、すごく後悔してる。私なんて、いっつもクリスに迷惑かけてばっかりのくせに、あんな態度とるなんて許せないよね」
「それは・・・」

クリスが開きかけた口を、リンデは両手を重ねて軽く覆い、言葉を止めた。

「でもね、心から悪かったと、もうこんなことしたくないって、思ってるの。・・・今後一切クリスを困らせないとは言えないけど、一生懸命努力する、クリスの言うこともちゃんと聞くようにするから、だから私のこと嫌いにならないでくれる?これからもずっと傍にいてくれる?」

クリスはやっと言葉を挟む隙を捉えた。

「もちろんだ。君が嫌だと言わない限り・・・」

今度はリンデが抗う間も無く、クリスはリンデを抱き締めた。

「いや、君が何と言おうと放しはしない。共に生きるのが僕達の運命だ。どんなことも乗り越えていかなきゃならない。二人で」

言い終わるや否や唇が押し付けられ、リンデは何も答えることができなかった。繰り返されるたびに次第に深まっていく口づけに翻弄されながら、リンデは自分達がお互いを求め合う想いの強さを改めて思い知らされて胸がいっぱいになり、ただ溜息を洩らした。
 
 
 

くそっ、もう限界だ。クリスはいきなりリンデの服を持ち上げて頭から脱がせると椅子の背に放り投げ、下着に手を伸ばした。リンデはうろたえ、クリスの腕に手を置いた。

「えっ、あの、クリス?」
「下着も濡れてる」
「う、うん、そうだけど・・・」

クリスはためらいもなく、リンデの体から手早く全ての衣類を取り去った。一糸纏わぬリンデの姿が目の前に晒され、クリスは釘付けになった。

「クリス・・・?」

困惑したリンデの溜息混じりの囁きが耳をくすぐり、頭の中に甘く響く。心臓が激しく高鳴り、胸が苦しくなったクリスは、息をするのを忘れていたことに気づき、前を見つめたまま大きく深呼吸した。

「リンデ・・・」

クリスはリンデの躰から一瞬も目が離せなかった。リンデの妊娠が分かって以来、クリスはやっかいな衝動を抑えるため、極力リンデの素肌を見ないようにしていた。こんなふうに彼女の躰をしっかりと見たのは、ほぼ二ヵ月ぶりだった。子供を宿したリンデの裸身は、満たされない思いの中で夢想していた以上に美しかった。ふっくらとやや豊かさを増した胸、緩やかな曲線を描いて隆起する腹部、肌は内から滲み出る喜びにつやつやと輝いているように見える。クリスは胸の詰まるような感動を覚え、口から感嘆の溜息が洩れた。

「・・・きれいだ・・・」

リンデが身を震わせ、慌てて両手を巻きつけて自分を隠そうとした。クリスはその手首を掴んで開かせ、リンデと目を合わせた。

「隠さないでくれ。君のこの姿を目に焼き付けておきたい」

リンデは恥ずかしくてたまらないという様子で頬を真っ赤に染めて目を伏せたが、抵抗をやめ、クリスの前に腕を広げたままでいた。クリスの中に強い愛情と同時に激しい欲望が湧き上がり、自分の一部が固く張りつめるのをはっきりと意識した。お腹の丸みをそっと撫で、引き寄せられるようにその前にひざまずく。聖なるものにするように丁重に一度だけ口づけ、聞き取れないほどの小声で二言三言呟いた。そして両手でそれぞれ円を描くように数回愛撫してから、さらに脇へと手を滑らせた。頬を寄せ、唇は触れずに、すれすれでリンデの温もりを感じる。つめていた息がふっと洩れた途端、なよやかな躰がびくりと震えた。腰から上のふくよかなラインをゆっくりとなぞりながら顔を上げると、赤い蕾を載せた丸いふくらみが誘うように目の前に迫る。性急に自分自身を押し付けそうになるのをなんとか堪えてクリスは立ち上がり、躰を離したまま、そっと鎖骨の下の滑らかな肌を指先で味わった。愛撫を少しずつ下げていくにつれ、緊張で汗ばんだ手に、リンデが躰を強張らせるのが伝わった。

「クリス、待って・・・」
「いやか?」

ぴたりと手を止め、リンデの表情を窺うと、リンデが首筋まで朱に染まった。

「いやって・・・まさかクリス・・・」
「そうだ。君と愛し合いたい」

渇望にけぶる声ではっきりと告げられて、リンデは頭がくらくらした。クリスの硬い指先になぞられた跡が溶け出しそうに痺れ、キスされたおへその上は、火傷したみたいにまだほてっている。妊娠しているせいなのか、それともずっと触れられていなかったからなのか、全身が敏感になっていて、クリスの熱い息が肌を掠めるだけでも強烈に心身が揺さぶられ、クリスの手の中でぎりぎりと引き絞られた弓のように緊張が高まっていく。勝手に走り出した鼓動と躰の中の妖しいざわめきを抑えようと、リンデは必死でクリスの腕を押しやるように掴んで言った。

「えっ、で、でも・・・私、こんなだし・・・」
「しっ・・・大丈夫だから・・・」

細かく震えるリンデの唇に、クリスは素早く指先を当てた。なだめるように数回なぞった後、上気した頬を両手で包んで軽く唇を合わせる。

「決して君や子供を危うくするようなことはしない・・・僕を信じて・・・」

覗き込む瞳のなかでせめぎ合う熱情と配慮にリンデは打たれた。リンデはクリスを信じていた。そのことには不安を持ってはいない。でも。

「そ、そうじゃなくて・・・みっともないから・・・」
「みっともなくなんかない。すごくきれいだ。たまらなく惹かれる」

ぐいと躰を寄せられ、クリスの欲望が目覚めていることをはっきりと感じ取って、リンデは何も考えられなくなった。悦びを知っている躰は、炎を秘めたクリスの視線を浴びるだけで内側から燃え立ち、蕩けてしまいそうな気がする。

「気持ちを楽にして・・・僕に任せて・・・」

クリスの手が優しく、しかしはっきりした意図を持って背中をまさぐり、リンデの中心は期待に疼き、触れられてもいないのに胸の先端が硬く立ち上がった。脚が震えて力が抜け、その場に座り込みそうになったリンデを、クリスがさっと抱え上げた。そのまま足早に開きっ放しの寝室の入り口を通り抜け、几帳面にも扉を後ろに蹴って閉めた。一歩半でベッドに近寄ったクリスは、さっき泥だらけの靴のまま上がってしまったために汚れたシーツを見て顔を顰め、舌打ちしてこれも足でどけ、敷物の上にそっとリンデを下ろした。熱っぽく瞳を潤ませて見上げるリンデに身を寄せながらクリスは囁いた。

「君のおかげで僕も濡れてしまった」

リンデを覗き込む深い色の瞳がいたずらっぽくきらめいた。

「脱がせてくれないか?」

リンデはぱっと大きく目を見開き、ぞくりと肌を粟立たせた。それから震える手をゆっくりと粗い麻のシャツの襟元に伸ばし―ふと止めた。

「何て言ったの?」
「え?」

気が急いて上の空といった様子のクリスが、もどかしげにリンデの裸の肩を撫で下ろしながら片方の眉を上げた。リンデは思い出すだけでも恥ずかしいのか、喉元のくぼみの辺りをほんのり染め、途切れ途切れに言った。

「さっき台所で・・・私のおなかに・・・キスした時・・・」
「ああ」

クリスが口許を綻ばせ、一瞬視線を落とした。無防備な躰の線に沿って逞しい手がウエストに滑り、リンデは身震いした。

「話しかけてたんだ・・・僕達の子供に」

リンデの瞳がさっと輝くのを認め、クリスの胸に温かな光が溢れた。

「『お前が生まれてくるのを心待ちにしてるよ』。それから・・・」

クリスはリンデの腰と背に手を当ててそっと横たえ、膝立ちでまたがってリンデを閉じ込めるように両肘をついて、吸い込まれるような美しい瞳を間近に覗き込んだ。

「『お前のお父さんは、お前のお母さんを、ものすごく愛してる。ずっと大切に愛するよ』ってね」

その瞬間、リンデは最後に身に纏っていたためらいを脱ぎ捨て、右手でシャツの紐ごと襟首を掴み、左手でクリスの頭を引き寄せて熱く深い口づけを贈った。クリスはしばしその甘い拘束にうっとりと身をゆだねていたが、かすかな唸り声とともに唇を引き離して言った。

「急いでくれ。でないと僕の自制心がもたなくなる。服を着たまま愛してしまうぞ」

それでもいいとリンデは思った。


 

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