寝室の薄い扉は、遮音の点ではさほど役立っているとは言えなかった。張り詰めた空気の中、窓を叩く吹雪の音と暖炉で薪のはぜる音に重なって、断続的に身の裂けるような激しい悲鳴が響き渡る。クリスは堪りかねたようにまた立ち上がり、所在なげに辺りを見回した。

「お湯は足りるだろうか?」
「これ以上沸かしてどうすんだ。双子だとしたってこんなに使やしねぇぜ」

ザックスが呆れた声で言ったが、クリスはうろうろと台所を歩き回りながら呟いた。

「そうか、一人だけとは限らないんだよな・・・」
「だからやめろって。薪の無駄遣いだ」

竈の方に向かいかけたクリスの服をザックスが掴んで引き止めた。

「ちったぁ落ち着いて座れよ、らしくもねぇ。・・・まったく、何倍もの敵に囲まれても怯みもしなかった、あの剛胆な男と同一人物とは思えねぇな。しかもあん時ゃ確か、あんたはまだ16・・・いや17か?」
「16だ」

クリスはザックスとは反対側、左手の暖炉横の扉に目を据えたまま上の空で答えた。

「そうかい。じゃあ、今は俺達にできることは何もねぇってわかるだろ。何か用が有りゃ向こうから言ってくるさ」

振り向いたクリスの顔を見て、ザックスは吹き出しそうになるのを堪えるのがやっとだった。クリスは迷子の子供のように頼りなげな表情だった。

「だが・・・少し時間がかかり過ぎじゃないか?もう半日近くもあんな状態で・・・」
「長い時にゃ、丸一日かかることだってあるらしいぜ」
「丸一日・・・」

クリスは不安げに奥の扉にまた目を向けた。そこに再び鋭い悲鳴が響いて、クリスが身体を硬直させた。さすがに少しかわいそうになったのか、ザックスは励ます口調になった。

「ゼンタ婆さんは、年は食ってるが腕の確かな産婆だ。婆さんが大丈夫って言ってんなら大丈夫さ。それにあんたのかみさんは、なりは細っこいが、大した根性の持ち主だ。そう簡単にへこたれやしねぇよ」
「・・・僕がもたない・・・」

頭を抱えて床にへたり込んでしまったクリスの肩を、ザックスがからかい気味に軽く小突いた。

「おい、あんたがしっかりしてなくてどうすんだ、親父になるんだぞ」

だがクリスは拳の背で額をこすりながら、膝の間に向かってぶつぶつと呟いていた。

「・・・こんなに苦しむって知ってたら、絶対赤ん坊なんか産ませなかった・・・」

ザックスは溜息をつき、クリスの気を紛らわそうと軽い調子で話を変えた。

「にしても、クリスマスに生まれるたぁ、因果な赤ん坊だな。今朝早くあんたが飛び込んできた時ゃ、何の冗談かと思ったぜ」

クリスが顔を少し起こし、横目でザックスを見上げた。ザックスはニヤリと笑った。

「もしかしたらこの子はそのうち、俺達を救うことになるかも知れねぇな」
「そんな大層な子供でなくていい・・・無事に生まれてくれればそれだけで・・・」

膝に手をついて立ち上がりながら切れ切れに答えかけた時、ひときわ大きな叫び声が空気をつんざき、クリスはびくりと肩を震わせた。彼がおそるおそる寝室の方を見遣るのとほぼ同時に、力強い赤ん坊の泣き声が響き渡った。

「ほらな、大丈夫だって言ったろ」

ザックスはほっと表情を緩めて言ったが、クリスは聞いているのかいないのか、扉の前にすっ飛んで行ったまま、そこで固まってしまっている。もう何を言っても無駄だと判断したザックスは放っておいた。無言のまま時が過ぎ、やっと扉を開けて顔をのぞかせたゼンタは、目の前に突っ立っているクリスに驚くでもなく、にっこりと笑いかけた。

「お待たせだったね。奥さんも赤ちゃんも元気だよ。これからお湯を使わせるけど、いま会うかい?」

その言葉が終わりきらないうちにクリスは寝室に駆け込んでいた。ゼンタは狭い台所を占領している大量の湯を眺め回し、ザックスと顔を見合わせて笑った。
 
 
 

しばらくして寝室から出てきたクリスは、呆然と目を彷徨わせていた。

「小さい・・・あんなに小さくて大丈夫なのか・・・?」
「生まれたては小さいもんだ。すぐでかくなる」

ザックスが声をかけると、クリスはやっとザックスに目を留めた。ザックスは顎を上げて話を促した。

「それで?」

途端に正気に戻ったらしく、クリスは勢い込んで喋り始めた。

「ああ、うん、小さいけど何もかも全部揃ってて、手も足も大人と同じ形なんだ。それに動いてた。でもなんだかぐにゃぐにゃしてて、動き方もぎこちないんだが、それも生まれたてだからか?ああそれと、やっぱり一人だったよ。初めてなんだから一人の方がいいよな?勝手が分からないのにたくさんいたら大変だし・・・」

つきあい切れないというようにザックスは手を振り、クリスを遮った。

「で、どっちだ?」
「どっち?」

間の抜けた顔で尋ね返したクリスに、ザックスは辛抱強く聞いた。

「男か、女か」
「ああ、ええと、どっちだろう。聞いてなかった。聞いてくる!」

クリスは再び寝室に駆け込み、ザックスは溜息をついて肩をすくめた。
 
 
 

冬の短い日が沈む少し前、町に戻るザックスとゼンタを、クリスは家の外まで見送りに出た。吹雪は既にやみ、明るめの灰色の雲の隙間から青空がのぞいていた。淡い陽射しの中を、たまに、名残のように小さな雪のかけらがひらひらと落ちてくる。ザックス達が乗って来た橇は、小さな家の風下側に置いてあったにも関わらず、半分雪に埋もれていた。クリスとザックスが二人掛かりで、積もったばかりの柔らかい雪の上に橇を引き出すと、粉雪がさあっと舞い上がり、微かな輝きを放った。かじかんだ両手を擦り合わせながら、ザックスは何気なく言った。

「まあ、これで跡継ぎもできて、安泰だな」

クリスが不意に手を止めて、ふっと眉をひそめた。

「・・・跡継ぎ?」

子供が生まれて喜んでいる父親には似つかわしくないクリスの表情に、ザックスは片眉を上げて声を落とした。

「別に深い意味はねぇよ。あんたらが貴族の暮らしに戻る気がねぇのは分かってる。そういう意味の跡継ぎじゃねぇ」

そう言われてもクリスはまだ血の気の引いた顔で黙り込んでいた。ザックスはクリスの腕を軽く叩き、気を引き立てるように声の調子を上げた。

「ま、これからが大変だ。しっかりな。なんか困ったことがあったら、いつでも言いな。俺で力になれることならなんでもするからよ」

クリスはこわばった顎を動かしてなんとか微笑み、腕に乗せられた大きな手に手を重ねてぎゅっと握った。

「ああ。ありがとう。・・・本当に助かったよ」

クリスは心からの感謝を込めて真っ直ぐザックスの瞳を見つめた。ザックスは笑って手を引っ込め、何でもないというようにその手を振った。


 

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