リンデが目覚めた時、部屋の明かりは消えて、辺りは静寂に沈んでいた。寝返りを打ってゆっくりとベッドの端に身を寄せ、ベッドの頭寄りにぴったりと縁を接して置かれている、台付きの大振りな籐籠を覗き込んだ。それはクリスが夏の終わり頃から何週間もかけて作り上げたもので、目的の用途には少し―いや、かなり大き過ぎるものだったが、リンデは笑う気にはなれなかった。その滑稽なほどの巨大さは、そのまま、クリスの期待と愛情の強さを表していると思われたから。

「長い間使えるね」

リンデが嬉しそうにそう言うと、クリスは頬を赤らめて肯定とも否定ともつかない唸り声を洩らしたが、それでもこの上なく満足げな様子に見えた。
 
 
 

リンデは大きな籠の中に眠る小さな温もりに静かに微笑みかけた。それからゆっくりと首を廻らして室内を見回すと、足元の方の暗がりに、椅子を置いて座っている人影があった。リンデは声を抑えてささやきかけた。

「クリス?眠らないの?」

闇の中で人影が微笑んだ気配がした。リンデは気配に向かって更に尋ねた。

「寒くない?」
「さっきまでお湯を沸かしてたからな」
「お湯?」
「ゼンタの言ったとおりなら、そろそろかと思って」

その言葉が合図だったかのように、籠の中で赤ん坊が目覚め、甲高い声で欲求を訴え始めた。慌てて身を起こそうとするリンデに、クリスが素早く立ち上がって近づき、手を添えて静かに起き上がらせる。

「これ」

クリスが差し出したのは濡らして絞った柔らかい布だった。

「あ・・・ありがとう」

リンデは驚き、感謝して受け取った。布はまだ少し熱いくらいの温かさで、クリスの優しさが心に沁みた。リンデはさっきゼンタに教えられながらやったとおり、それで乳房を拭き、赤ん坊の頭にそっと手を当てて抱き上げ、乳首を含ませた。赤ん坊はすぐにリンデの胸に吸い付き、大人しく乳を飲んだ。小さな口でしっかりと自分の胸にしがみつく我が子に、リンデは誇らしげな、愛情に満ちた眼差しを注いだ。えも言われぬ微笑を湛えて赤子を抱くリンデと、壊れ易そうな小さな体から思いもよらぬほどの力強い生命の輝きを溢れさせている赤子の姿を、クリスは眩しそうに見ていた。
 
 
 

一時間ばかり後、二人は慣れない作業に手間取りながらも―リンデはまだ立ち上がるのが辛かったので、動き回るのはもっぱらクリスが引き受けた―なんとかひと通りの世話を終え、再び赤ん坊を寝かしつけた。清潔で柔らかな亜麻布に包まれ、不釣合いに大きな籠の中で、少ししかめ面ながらもすやすやと何の不安も無さげにまどろむ赤ん坊の寝顔に、二人はしばし無言で見入っていた。小さな部屋を照らすのは一本の細い蝋燭の弱々しい明かりだけだったが、その淡い光が、この輝かしい夜を神々しく煌かせているように二人には感じられた。穏やかな、心地良い静寂が空気を満たしていた。リンデは、クリスが彼女を包んでくれた大きめの肩掛けの中に温かく収まり、ベッドの端寄りに横座りして、赤ん坊の方に身を乗り出すように体を傾けていた。椅子を籠の近くに引き寄せて腰掛け、赤ん坊を覗き込んでいたクリスが、独り言のようにぽつりと呟いた。

「よく眠ってるな」

その声に含まれた賛嘆の響きに、リンデは思わず口許をほころばせた。

「うん。この寝床を気に入ってくれたみたいだね」

クリスが気恥ずかしげに目を上げてリンデを見遣った。そしてふと真顔になると、すっと手を伸ばしてリンデの頬に触れた。

「なに?」

何も言わずに真剣な眼差しでリンデの顔を見つめているクリスを不思議に思い、リンデは尋ねた。クリスが低く掠れた声で呟いた。

「唇の端が切れて・・・」
「あ」

反射的に傷に手をやろうとして、触れる前にクリスに手を掴まれた。

「痛むか?」
「う・・・ん。ちょっと」

そういえばずっと痛かった気がする。でも他にももっと痛い所はあるし、それに赤ん坊のことで頭がいっぱいで、そんなことはちっとも気にしていなかった。クリスがリンデの手を離して、傷の周りに弧を描くように親指を滑らせ、そっと労わるように撫でながら、すまなそうに声を落とした。

「君がこんなに苦労してたのに・・・僕は何もできなくて・・・」
「そんなことないよ。色々助けてくれたじゃない」

クリスは頭を振った。

「僕は何もできなかった・・・ただおろおろして、意味も無くうろつきまわって、祈るばかりで・・・」

リンデがふいに嬉しそうに顔を綻ばせ、クリスが引っ込めようとした手に素早く自分の手を重ねて、両手で包んで頬に押し付けた。

「そっか、祈っててくれたんだ」

クリスは少し驚いた様子でぴくりと手を強張らせたが、されるがままにリンデに手を預けていた。リンデは可愛らしく小首を傾げてその手に頬を摺り寄せ、話し続けた。

「本当の事を言うとね、陣痛が始まった時、痛いし、不安だし、すごく恐かった。その後もずっと、死んだ方がマシって思うくらい痛くて苦しくて、それに時間がとっても長く感じて、このまま永遠に続くんじゃないかって気がしてきて、恐くて辛かったけど、でも、そしたら急にクリスの声が聞こえてきたの。そのまま一瞬も離れずにずっと励ましてくれて、なんだかクリスがすぐ傍にいるみたいで、すごく勇気づけられたよ?」

戸惑った表情でリンデを見つめているクリスを、リンデは澄んだ瞳を煌かせて見返した。

「きっとクリスが祈ってくれてたからだね。心から祈れば必ず届くって、昔、お兄様が言ってたもの。だから、私が頑張れたのはクリスのおかげ」

クリスの瞳が僅かに揺れた。リンデはクリスの手を包んだ両手にぎゅっと力を入れ、小さいがしっかりした声で囁いた。

「ありがとう。この子を産ませてくれて。今日のことだけじゃなくて・・・これまでのことも、全部」

クリスが、さっともう一方の手も差し伸べてリンデの頬を両手で挟み込み、瞳を潤ませた。

「僕の方こそ、どんなに感謝してもし足りないよ。こんな素晴らしい宝物を僕に与えてくれて・・・本当にありがとう。この子を産んでくれて・・・」

感極まった面持ちで声を震わせるクリスに、リンデはにっこりと微笑み返した。今日、もう何回、この言葉を聞いただろう。それでもその度に新鮮な感動が湧き上がってくるのは、クリスの心からの想いが籠められているからに違いなかった。

「与えてくれたのは、クリスもだよ」

クリスの手がリンデの顎を優しく撫で、ずれた肩掛けを直してからそっと引かれた。リンデは幸福そうな笑顔を赤ん坊に向けた。

「早く名前をつけないとね。あれこれ言ってて、結局まだ決まってないんだもん」

一瞬の間の後、クリスが口を開いた。

「ずっと考えてたんだが、できれば・・・」

しかしそこで言葉を切り、眠る赤ん坊をしばらく見つめていた後、俯き加減に首を振った。

「・・・いや」

リンデが眉をしかめた。

「途中でやめないで。なに?」

クリスは困った顔でリンデを見たが、彼女は尋ねる表情のままじっと彼を凝視した。リンデがあきらめそうもないと悟ったクリスは、根負けしたように溜息をついた。

「・・・ふぁきあ、はどうかと・・・」
「ふぁきあ・・・?」

リンデはその名を発音した形に口を開けたまま、ぽかんとクリスの顔を見つめ返した。

「『変な名前』だろ?」

クリスがリンデの言葉の先を引き取って言った。上目遣いにリンデの顔を窺ったクリスの瞳にちらりといたずらっぽい光が瞬いたのを見て、リンデはすぐに気づいて小さく笑った。

「うん、でも、私達の子供だからそれがいいかも」

クリスも楽しそうに笑み崩れたが、ふいに真顔に戻り、リンデから赤ん坊へと視線を移して、ぽつりと言った。

「・・・僕の父だった人の名なんだ」

リンデははっとしてクリスの端正な横顔を見つめた。

「結局、君に会ってもらえなかったのが残念だったな」

クリスの声音は、心残りそうではあったが、落ち着いていた。リンデはわざと明るく応じた。

「立派な騎士だったって、お父様からもお兄様からも聞いたよ。でも、名前は初めて聞いた気がする。クリスも話してくれなかったし?」

拗ねたように軽く睨むと、クリスは横目でちらとリンデを見てから、気後れした様子で目を伏せた。リンデはふふっと口許を綻ばせた。

「クリスがそうしたいって言うなら、私はそれでいいよ。呼びやすくてきれいな名前だし。でも・・・大丈夫?私達と関わりがある人の名前だと、もしかして・・・」

クリスが再び首を振った。

「いや、ノルドでは彼は違う名を名乗っていた。ふぁきあというのは彼の本当の名を元に、少し発音を変えたものだ。だから『クリスチャンとフリーデリケ』を追っている者に感づかれる心配は無い。だが・・・」

クリスが顔を上げ、訝しげなリンデの眼差しを、真っ直ぐに受け止めた。そしてふいに椅子から立ち上がると、リンデの膝の脇に、上体を少し捻って彼女と向かい合う姿勢で腰掛け直した。

「リンデ・・・」

冷えた小さな手を取って自分の手の中に握り、クリスは真剣な表情でリンデの目を覗き込んだ。

「君に話さなければならないことがある。本当は子供ができる前に言わなくてはならなかったんだが・・・」

クリスの静かな声に何か覚悟のようなものを感じ取り、リンデは緊張してクリスの手をぎゅっと握り返した。暗く深い色の瞳と視線を合わせて黙って見上げると、クリスはゆっくりと落ち着いた声で切り出した。


 

 続き Fortsetzung

 目次 Inhaltsverzeichnis