遠い祈り



 
「命の尊さに貴賎などないよ」

だんだん濃くなっていく霧の中、クリスは兜を外して黒っぽい鎧だけを身に纏った姿で、再び馬に跨った。

「ですが、彼らはクリスチャン様の命令を無視して深追いしたのですから・・・」

副官はクリスより二回りも年上の、農民出身の兵士だったが、有能で、クリスにも忠実だった。

「それでもだ。それに上官には、部下の命を無駄にさせない義務がある。彼らが僕の命令に従わなかったのも、言ってみれば僕の責任だ」
「クリスチャン様・・・」

まじまじとクリスを見る副官に、クリスは僅かに微笑んだ。

「必ず彼らを連れて帰る」
「では、せめて私も一緒に・・・」
「それは困る」

クリスは言下に拒否した。

「君には残りの兵士を守ってもらわなければならない」

不安そうな副官をクリスは真っ直ぐ見下ろし、きびきびとした口調で告げた。

「筏を組んで、川を東に下ってくれ。この霧はしばらく晴れない。今すぐかかれば、霧に紛れて安全に下流の町の部隊と合流できるはずだ。ただし、途中、川幅の狭くなっているところがあるから、岸からの攻撃には注意を怠るな」

副官はまだ心配そうだったが、従順に頷いた。

「・・・分かりました。お気をつけて」
「ああ」

クリスは笑顔を残して走り去り、あっという間に霧の中に消えた。
 
 
 

リンデは悲鳴を上げた。

「うそっ!なんで?!」
「もともと計画自体に無理があったんだよ。僕もクリスも疑問を感じてた・・・でもクリスは司令官に命じられたとおりに囮部隊を動かして、そこまでは上手くいったんだけど、本隊が敵を取り逃がしちゃって、クリスの部下が追ってったんだ。クリスは止めたらしいんだけどね」

リンデに話したのはやっぱり間違いだったと後悔しつつ、パルシファルは説明した。

「あいつは責任感があるから、命令違反の部下でも、見捨てておけなかったんだろう」

パルシファルは行方知れずになったクリス達を捜そうと、病気のため館で療養中の父に助力を乞いに戻ってきていた。そこでパルシファルの様子を不審に思ったリンデに問い詰められ、嘘のつけないパルシファルは、洗いざらいリンデに白状する羽目に陥っていた。

「でも、だって・・・クリス・・・危ないことしないで、って・・・大丈夫だって、言ってたのに!」

リンデは声を震わせた。

「どうして?前にもクリス、最前線の危ない仕事をやらされてたみたいだった・・・お兄様、そう言ってた!」

パルシファルは顔を顰めた。確かに以前、うっかりリンデの前で口を滑らせかけたことがあり、クリスに語気鋭く遮られた。その時パルシファルは、純粋に、作戦的なことを安易に話そうとしたことを咎められたのだと思っていたが、こういうことだったかと納得した。

「なんでまたクリスなの?!クリスは陛下のお気に入りなんでしょ?」
「うーん、お気に入りだから、と言うべきかな・・・」

クリスが危険な役目に回されるのは、今回や前回に限ったことではなかった。

「なにそれ?!わかんないよ!」

パルシファルは内心気まずく思いつつ、たしなめた。

「クリスは文句なんか言わないぞ」
「ひどいよ!クリスが文句を言わないからって、全部押し付けるなんて!!」
「お前が怒ったってしょうがないだろ」

そう言いながらもパルシファルは、リンデが怒るのも無理はないと考えていた。パルシファル自身、日頃からクリスの扱われ方には疑問を覚えていたのだ。
 
 
 

この頃には人のいいパルシファルにも、クリスが置かれている状況が見えていた。クリスは日常的に様々な嫌がらせに晒されていた。しかし彼はそれを誰かに言うことはなく、表情にすら出さない。相手はそれを分かってやっているようだった。国王はクリスを気に入っているとはいっても、彼を庇ったり、彼に甘くしたりすることはなかった。それは信頼の証拠なのかもしれなかったが、甘やかされて育ったパルシファルには、冷たい仕打ちのように思われた。しかしパルシファルは、自分が口を出せば余計にクリスの立場を悪くすることも分かっていた。だからパルシファルにできるのは、なるべくクリスの傍にいて、不公平な取り決めがなされないように睨みを利かせることだけだった。パルシファルは将来重臣になることが決まっているので、パルシファルの前であからさまにクリスを邪険にする者はいなかった。・・・彼らの主君である、一人を除いては。彼らは名目はどうあれ、実質上は「王子の騎士」であったので、明らかに理不尽なものでない限り、その命令には従わざるを得なかった。

王子がそんなふうだったので、自然と他の貴族達もそれに追従し、今のような状況になってしまっていた。クリスが下層の兵士達から受けが良いのも、上級騎士達には気に入らないようだった。しかし、身分の違う者達の評判など公には問題にならないし、人々の口を塞ぐわけにもいかないので、パルシファルは放っておいた。しかし、兵士達がクリスのことを王子よりも王子らしいと話しているのを聞いた時には、さすがのパルシファルもきつく咎め、二度とくだらないことを口にしないようにと固く言い渡した。万一、王子の耳に入ったりすれば、おおごとになるのは目に見えていた。

今回のことは、そういう背景の中で、起こるべくして起きた。いくら兵士達の信頼が篤いとはいえ、戦場の混乱の中で、普通ならやっと成人したばかりという年齢のクリスが全ての兵士を御しきれないのも、ある意味仕方がなかった。内心こうなることを望んでいた者達もいたかもしれない。クリスを助けようとする者は―特に貴族達の中には―パルシファル以外にいないだろう。
 
 
 

「私、探しに行く!」
「バカなことを言うな、リンデ!ろくに馬にも乗れないくせに、お前が来たって何の役にも立たない」

本当はそれ以前の問題だったが、リンデにそういう常識が通用しないことは分かっていた。

「だってっ!何もせずに待ってるなんてできないよ。もしも・・・もしもクリスが・・・クリスに何かあったら・・・私・・・」

リンデはパルシファルの服をぎゅっと握り締め、ぽろぽろと涙をこぼした。その時パルシファルは初めて妹の気持ちに気づいた。

「リンデ、お前・・・」

そっと妹の頭に手を載せ、ふわふわした柔らかな髪を、宥めるように優しく撫でた。

「お前は祈ってろ」
「祈る?」

濡れた瞳を見開いてリンデが顔を上げた。

「そうだ、心から祈れば必ず届く。クリスが無事でいるように、ちゃんと帰ってこられるように、お前は祈れ」

パルシファル自身がそう信じているかどうかは別として、リンデを思い止まらせるにはそう言うしかなかった。

「あいつは簡単に死んだりしないよ。きっと無事でいる」

死体が見つかっていない以上、希望は有った。もしかしたら他の者達と共にシディニアに捕らえられているのかもしれない―運が良ければ、だが。しかし内心の不安を、パルシファルは妹には見せなかった。

「本当?」

リンデは縋るようにパルシファルを見上げ、細い首を傾げた。

「うん。必ず見つけて連れて帰ってくるよ」
「絶対に、絶対に、クリスを助けてね?約束して?」
「うん。クリスは必ず助け出す」

パルシファルはその言葉を、自分に言い聞かせた。


 

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