その砦は流れの速い川の畔にあった。クリスは目隠しをされて連行される間に、踏みしめる地面の感触や傾斜、舟に乗せられた時間、頬に当たる空気の流れなどから、おおよその位置と立地条件を掴んでいた。そして逃亡が極めて困難であることと、逃げ出せたとしてもノルドに入る前に再び捕まる可能性が高いことも。だが、なんとしても部下達は守らなくてはならない。そのために一緒に捕まったのだから。
 
 

クリス達は何故かひどい拷問を受けることもなかったが、だからといって待遇が良いわけでもなかった。ほとんど陽の射さない、湿った半地下の牢に全員が押し込められ、日に一度差し入れられる固いパンを分け合って食べた。夜はろくに横になれる場所もなく、息苦しさでほとんどとれない睡眠を、さらに、走り回るネズミに妨げられた。

何もできない苛立ちと環境の不快さを紛らわすためにできることといえば、喋ることくらい。部下達は、酒や食べ物やその他の楽しみなど、とりとめもなく喋っていたが、最後には決まって故郷の妻子や恋人の話になるのだった。クリスはそれをいつも黙って聞いていた。

「ああ、かあちゃんを抱きてぇなあ。俺ぁ何人もの女を抱いたが、やっぱり女房が一番落ち着くぜ」
「てめえなんぞに抱かれる女ぁ、どうせどれも大したこたぁねぇよ」
「へっ、そう言うてめえは、一人も満足させたことがねぇんじゃねぇか?」
「なんだと!」
「やめないか」

拘束が長びくほどに部下達は喧嘩っ早くなってきており、この時はさすがにクリスが割って入った。すかさず他の一人が訊いた。

「クリスチャン様はどうなんですかい?可愛い人が待ってるんでしょ?」

クリスはただ曖昧に微笑んだ。別の男が代わりに答えた。

「クリスチャン様は男っぷりがいいからな、きれいな姫様達が山程待ってるに決まってらぁ」
「・・・一人でいいよ」

クリスは苦笑しながら答え、ふと真面目な顔になって付け加えた。

「皆を待ってる人がいるんだ。必ず皆で帰ろう。大切な人達のところへ」

何人かは頷き、そして何人かは鼻を啜ってそっぽを向いた。
 
 

クリスはもちろん何とかして皆を逃がすことを考えていたが、監視には一部の隙もなく、脱走は不可能なように思えた。誰の差配かは知らないが、これ程無駄なく完璧に複数の敵を捕らえておけるものかと、内心クリスは舌を巻いていた。もし機会があるとすれば、この砦を出てどこかに移される時くらいだったが、それもこの様子ではあまり期待できなかった。

しかしクリスの目下の心配は、昨夜から急に激しく降り始めた雨だった。ひっきりなしに滝のような雨音が響き、天井近くの鉄格子の嵌った小さな明り取りの窓からは、横殴りに風雨が吹き込んでいた。雨は夜が明けてもいっこうにあがる気配を見せず、ますます激しさを増して降り続けていた。子供の頃あちこち放浪したクリスも、これ程の雨は初めてだった。今年の夏は確かに雨が多かったが、それにしてもこの降り方は異様だった。吹き抜ける風の音からすると、この川はあまり幅のない急峻な谷のように思われる。そして舟を降りてからこの牢に入れられるまで、目隠しされた状態ではあったが、たいした高さは登らなかった。この雨で急激に水量が増したら、最悪の場合、牢は水没してしまうのではないだろうか?

クリスの懸念はすぐに現実になった。明り取りの窓から水が流れ込み始め、そしてすぐに床一面が水に覆われた。窓の外には兵士達が慌しく行き来している足元が見えた。

「クリスチャン様・・・」

不安そうな声にクリスが牢内に目を戻すと、全員がクリスを注視していた。一度はクリスに逆らった部下達だったが、窮地に陥った自分達を救いにわざわざ戻って戦い、完全に囲まれてしまった後には己の身と引き換えに助命を乞うてくれたクリスを、今では心底信頼していた。

「このままでは、わしらは・・・」

大丈夫だと言ってやりたかったが、嘘はつけなかった。水位はほんのわずかの間に既に足首を超えてしまっている。自分達に残された道は二つだけ。このままここで水死するか、あるいはどうにかしてこの重い扉を破り、武器も無いまま、自分達の何倍か―もしかすると何十倍かの人数を相手に戦うかしかない。

クリスが不可能を覚悟で牢を破ることを決意した時、前触れも無く扉が開いた。

「貴様らを移す」

目つきの鋭い、若い男が戸口にたって短く告げた。その背後から兵士達がばらばらと入ってきてクリス達の手を後ろで縛り上げた。クリスの部下が窺うようにクリスの顔を見たが、クリスはかすかに首を横に振った。

(今、この兵士達を倒したところで、表にいる何十人もは捌ききれない)

「出ろ」

クリス達にとって、ある人物が「後で使うから生かしておけ」と言った事が幸いした。後ろ手に縛られただけの状態で慌しく牢から引き出され、暗く狭い階段を上って外に出ると、激しい嵐の音が耳をつんざいた。気のせいか、雨は、牢の中にいた時よりひどくなったように感じられる。昼間のはずなのに、辺りは黄昏のように暗い。予想したとおり眼前には険しい山肌が迫り、薄暗くてよくは分からないが、砦は川に面して谷を這うように造られているらしかった。クリス達が立っているのは、背丈の倍以上もある城壁に囲まれた小さな廓で、足元は溜まった水で浅い池のようになっていた。彼らの右手、おそらく東側の、城壁の途切れている場所には、どうやら下の廓に続く道があったらしいが、今は土色の水が不吉な音をたてて打ち寄せているだけであった。

促されて牢の建物の背後に回ると、上の廓との間に隠れるように細い通路があった。そこを右手の方へ、牢のある廓を回りこむように登っていくと、川沿いにある別の細長い廓―廓と言うより、城壁か城門の上部のように見えた―に出た。するとそこでは、肩の高さほどの低い城壁に多くの兵士達が群がり、川を覗き込んで何事か騒いでいた。荒れ狂う嵐の音の中、切れ切れに聞こえる彼らの叫び声に、クリスは眉をひそめた。一人の兵士が慌てた様子で走ってきて、監視役の男に耳打ちした。男は顔色を変えてクリス達から離れ、早足で城壁に近づき、険しい表情で川面を見た。クリスはさりげなく周囲の兵の様子を窺ったが、しかし、動じた様子も、意識の隙も、全く見られなかった。

「おられないと思ったら・・・」

男が僅かに呟き、踵を返そうとするのを見て、クリスはいきなり男の方へと歩き出した。

「何をする!止めろ!」

兵士の一人が叫んだが、クリスは無視した。監視役の男がちらりとクリスを睨み、鞘に入れたままの剣でクリスの胸を押さえて制止した。クリスは川の方へ視線を向けながら男に尋ねた。

「何があった?」
「お前達は知らなくて良い」

しかしクリスはいつに無く強引に肩で男を押し退け、川を覗き込んだ。すぐに乱暴に引き戻され、勢いで泥水の中に倒れ込んだが、問題の光景ははっきりと見えた。


 

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