「私を置いて行きなさい。君だけなら泳ぎ着けるかもしれない」

背後からかけられた言葉にクリスは驚いて振り返った。老司令官は静かにクリスの目を見つめ返した。

「王子から任された大切な捕虜を、こんなことで失うわけにはいかない」

そう言った後でその司令官は、優しいと言っていい微笑を見せた。

「君はまだ若い。生きていればいつか故郷に帰れるかもしれない。命を大事にしなさい。他人のことばかりでなく、自分のこともね」

穏やかに諭すように語る老司令官を、クリスは不思議な気持ちでまじまじと見返した。その一方で、頭にはある言葉が引っ掛かっていた。

(故郷・・・)

クリスには縁の無い言葉だった。部下達がそれぞれの故郷の話をしていた時も、クリスは何も語るべきものを持たなかった。

(僕の?)

それはどこだろうかとクリスは考えた。生まれてから幼年期までを過ごした地は既に記憶からも遠く、帰れる見込みもなければ、帰りたいとも思わなかった。ノルドで与えられた領地も、数度しか足を運んだことがないのでは親しみの持ちようがなく、人生の半分を過ごしたノルドの都にも執着はなかった。ただ一つ、帰りたい場所があるとすれば・・・

クリスの意識が一瞬川から逸れた。

「クリス様!」

部下の叫びが聞こえてはっと見ると、上流から巨大な岩が恐ろしい速さで迫っており、そして次の瞬間、辛うじて立っていた櫓にぶつかった。

激しい衝撃と共に水に落ちた。重い水に体を押し包まれ、水底に引きずり込まれる気がした。そのまま暗闇に呑み込まれるかと思った時、目の底で微かに何かが光った。その、金色の輝きを帯びた温かな白い光は、急速に明るさを増しつつ膨らみ、眩しい虹色の光彩を放ちながらクリスを包んだ。と同時に、冷え切った心臓の上に小さな―女性の手ぐらいの―温もりを感じた。再び体中に血が流れ始めたような感覚に、クリスは気力を振り絞って身を起こした。水の上に頭が出た。と思った途端にガクリと体が引き留められる衝撃があり、とっさに片手を伸ばして触れたものを掴んだ。それは太く頑丈な鉄鎖で、おそらくは崖側の砦と中州を結んでいた橋を上げ下ろしするためのものと思われた。橋が流された後、川の中で何かに引っ掛かり、崖側の城壁から下流の川底に向けて斜めにピンと張られた状態で濁流に逆らっていたのだった。

冷たい鉄鎖に右手でしがみつきながらクリスは、左腕に抱え込んでいた敵の司令官を確認した。水に落ちる直前、羽交い絞めの状態で引き寄せ、流れに揉まれながらも今まで手を離さなかった。意識は無いが、まだ息はある。年齢は、2年前に亡くしたクリスの『父』と同じくらいだろうか。ほんの少し話しただけだが、職務に対しても人に対しても誠実で、思慮の深い老将と思われた。

(助けたい)

クリスはそう思った。しかし今のクリスは、鎖にしがみついているだけで精一杯だった。鎖の傾斜はそうきつくないが、流れに逆らって今の位置を保つことさえ覚束ないのに、片手で鎖を這い上がることなど不可能だった。―そう、片手では。だがクリスは、もう片方の手を空けて、自分だけ助かることなど考えもしなかった。

(どうすれば・・・)

じりじりと下流へ、そして川底へと押し流されながら、滑る鉄鎖を握り締めた。
 
 
 

「クリス様!」

谷間に反響する風雨と濁流の音に混じって、背後から野太い声が聞こえた。なんとか首を廻らして声の方を見ると、体にロープを巻いたザックスが、鉄鎖を両手と両脚で挟み込むようにして伝いながら、城壁からこちらに向かってきていた。いつのまにやら愛称のクリスで呼ばれていたが、クリスはまだ気づいていなかった。

「もうちょい踏ん張っててくんな!今、引き上げてやるからよ」

クリスは知らなかったが、クリス達が流され、鎖に引っ掛かったのを見た部下達は、監視役の男に、自分達を助けに行かせろと詰め寄った。男は渋ったが、先程助けた兵士達が男に掛け合い、部下達の戒めを解いて、司令官とクリスの救助にあたらせる事を許可させたのだった。

ザックスはごつい体に似合わぬ身軽な動きで、あっという間にクリス達のところまで降りてきた。鎖を脇の下に挟むようにしてぶら下がったザックスにクリスは言った。

「先に、彼を」

ザックスはちょっと眉を上げたが反論はせず、一言だけきいた。

「待てますかい?」

クリスが頷くとザックスは、クリスと老司令官の体の間に太い腕を割り込ませて司令官をがっしりと掴み、城壁の方を振り返って叫んだ。

「引け!」

途端に勢い良くロープが引かれ、ザックスの体は鎖伝いにするすると城壁の方へと動いていった。壁の陰になってよく見えないが、クリスの部下達だけでなく、砦の兵士達も一緒に引いているようだった。

ザックスと司令官が無事に辿り着いたのを見届け、気持ちの重荷を下ろしたクリスは、急に体から力が抜けるのを感じた。そのまま鎖にしがみついてはいたが、既に手には何の感覚もない。夏の終わりとはいえ、ずっと水に漬かっていたため、体は冷えてこわばり、もう自分では動かせなくなっている。さっきまで敵意を持ってクリスを押し流そうとしているように感じていた水が、今はクリスを優しく呼んでいるようにさえ思えてきた。このまま流れに身を任せてしまえば楽になれる。そんな気がした。

(・・・帰れる・・・?)

ふっと苦しみが遠のき、手がずるりと滑った。しかしその手はほんの数センチ動いただけで、別の大きく武骨な―そして温かい手に掴まれた。
 
 
 

部下達と、そしてシディニアの兵士達によって城壁の上に引き上げられたクリスは、開口一番に尋ねた。

「彼・・・は?」
「司令官閣下なら、命に別状はない。既に安全な所へお移しして手当てをしている」

監視役の男が答えた。溜息をついてそのまま気を失おうとするクリスの肩を、ザックスが乱暴に掴んで揺すった。

「皆で帰るとおっしゃったでしょう、クリス様」

クリスは薄く瞼を開いた。

「お一人だけ天使になって先に帰っちまうってのは、なしですぜ」

ザックスの口調は軽口めいていたが、表情は真剣そのものだった。クリスは口元にかすかに苦笑を浮かべて、答えに代えた。


 

 続き Fortsetzung

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