秋
「うーん」組んだ両手を高々と上げ、リンデが気持ち良さげに伸びをした。すらりとした腕を水滴がきらめきながら滴り落ち、青白い水面に半分隠れた象牙色のふくらみが持ち上がる。薔薇色の突起がちらりと顔を覗かせるのを横目で見遣り、クリスは水の中で居心地悪そうに座り直した。体を包む滑らかな水は、さっきまでわずかに温かいという程度だったのに、なぜか急にのぼせてきたような気がする。もうすっかり見慣れたはずの肌にいまだにやすやすと掻き立てられる己の欲望の強さに苦笑しつつ、クリスは頭を上げ、周囲の唐桧の木立が放つ爽やかな香りを胸の底まで深く吸い込んだ。ざあっと葉擦れの音がして、冷んやりした風が吹き過ぎて行った。
しばらく目を閉じて心身をリラックスさせてから妻に目を戻すと、彼女は小首を傾げ、胸の前で長い三つ編みをほどいている。ほどかれた淡い色の髪がゆらゆらと白い肢体を縁取り、クリスは不覚にもごくりと唾を呑んだ。リンデは意識して彼を誘惑しようとしているわけではないのだろうが―それともしているのだろうか?―彼女の何気ない仕草も、彼を刺激するには充分だった。もっとも普段ならここまで過敏には反応しないはずだ・・・たぶん。だが今日は本当に久しぶりに二人きりでゆっくり過ごす時間を手に入れ、その心のゆとりも、甘い気分の醸成を後押ししているらしかった。
髪をほどき終えたリンデが手足を伸ばして背後の岩に寄りかかり、山中の小さな温泉の上にひらけた蒼空を見上げてぽつりと呟いた。
「ふぁきあ、どうしてるかな?ザックスを困らせてないといいけど・・・」
「大丈夫だろう。ザックスは意外と子供のあしらいが上手いし、それにふぁきあはザックスを尊敬してるようだし」だとしても、元気があり余っているふぁきあの相手はなかなか大変だ。クリスの口許が自然に緩んだ。リンデが笑いながら隣のクリスを振り返った。
「そうなの、気がついてた?ふぁきあってば最近、ザックスの口真似をするの。きっと、かっこいいと思って、憧れてるのね」
どうして彼女の笑顔はいつもこんなにきれいなのだろう?クリスはぼうっと見惚れてからはっと我に返って視線を落とし、何気ないふうを装って、胸の前にたゆたってきた柔らかな髪に手を伸ばした。
「そういう時期なんだろう。だんだん外の世界に興味が出てきたってことさ。父親としてはちょっと淋しい気もするけどな」
少し拗ねた表情を作り、長い髪の先を弄ぶと、リンデが慰めるようにクリスの頬に手を触れてきた。
「クリスってば、あの子はまだまだ甘えん坊のおチビちゃんでしょ。ふぁきあの世界はまだ私達の腕の中から出てはいないんじゃない?」
頬に当てられた手を取り、さりげなく手首に唇を押し当てながらクリスは答えた。
「そうだが、そろそろ世界を広げてやらないといけない。あの子ももう5歳だ。友達を作り、他人と付き合う術を学ぶ時期に来ているんだ」
「それはそうかもしれないけど・・・」リンデはすっと手を引き、俯き加減に顔を背けた。クリスは手を伸ばしてリンデの横顔に落ちた湿った後れ毛を桜色の耳にかけた。
「それで一つ相談があるんだが・・・」
「なに?」小首を傾げてリンデが上目遣いにクリスを振り仰ぐ。ほっそりした肢体がなまめかしく捻られ、クリスは、ほんのり上気した白い胸元につい目が釘付けになるのを、苦労して引き剥がした。
「その・・・ふぁきあは猟師に向いてない気がするんだ。まだ幼いからというのもあるだろうが、あの子は優し過ぎる。生き物を殺すことを生業になどできないだろう」
リンデが思案げに眉をひそめた。
「う・・・ん・・・そう、かな・・・」
一年ほど前のことだが、ある日、クリスが仕留めてきた獲物を見てふぁきあが突然大泣きしたことがあった。もっともふぁきあはたぶん、父親がそれらを殺したことを理解していたわけではなく、ただ死んだ動物にショックを受けたのだと思う。しかしそれ以来クリスが獲物を家に持ち込まないようにしていることに、リンデは気づいていた。リンデは、また、毎朝一緒に小鳥にパン屑を与える時のふぁきあの様子を思い出した。ふぁきあはいつもそれを楽しみにしていて、リンデが忙しくして忘れていると、自分から催促してくるほどだった。そして最近では、怪我をした小鳥や小動物を見つけて連れ帰ってはリンデに手当てさせ、自分も一生懸命に手伝ったりしていた―ただし、それらが元気になっていざ放してやる時には必ずべそをかき、リンデが四苦八苦して慰めることになるのだが。ふぁきあはザックスの驢馬も大好きで、最初は恐がっていたのに、一度ザックスがふざけて驢馬の背にふぁきあを座らせてからは、何度も繰り返し乗せてくれとせがんではザックスを困らせていた。動物達に囲まれたふぁきあはとても幸せそうで、それらの命を奪う事など到底できそうもなかった。
考え込んでいるリンデの表情を注意深く見つめながら、クリスが言葉を継いだ。
「だから、もし君さえ良ければ、そのうちザックスのところに預けて、靴屋の修行を積ませてはどうかと思う」
驚いて何か言いかけるリンデの唇に人差し指を当てて遮り、クリスは続けた。
「もちろんまだ何年か先の話だ。僕がジークフリード王に仕えて騎士の修行を始めたのは8歳の時だった。だから、できればふぁきあもそれくらいからちゃんと訓練を始めさせたい。ただし急には無理だろうから、今から少しずつ慣れさせていった方がいい」
リンデは喉から出かかった反発を飲み込み、クリスの言葉をよく考えた。彼女自身も7歳の時に付き添いの侍女と一緒に修道院に入れられたことを思えば、決して早すぎるとは言えなかった。それに何より、自分達が人目を避け、町から離れて住んでいるために、ふぁきあには同年代の友達がいない。それはリンデもずっと気に懸けていた。リンデは俯きがちに頷いた。
「・・・うん。ふぁきあのためには、その方がいいかも。ううん、そうするべきだと私も思う」
クリスがほっと息を吐き、穏やかに微笑んだ。
「ザックスのところなら安心して預けられるし、それに町の中と言っても外れの方で、うちにも近いから、様子を見に行くのにも都合が良いだろう」
「うん」リンデは寂しそうにではあるが、わずかに笑みを浮かべた。
「じゃあ、今日がその第一歩ってことになるのかな」
「まあ、そうとも言えるが・・・」クリスがちらっと流し目をして言葉を濁した。リンデが訝しげに見遣ると、クリスはいたずらっ気の瞬く瞳をさっと伏せた。それからゆっくりと片方の腕を持ち上げ―リンデはその逞しい肩周りに目を留め、湯の下に隠れている部分も同じように無駄なく引き締まっていることを意識して、ちょっと落ち着かない気分になった―垂らした黒髪を無造作に掻き上げてぼそりと呟いた。
「どちらかというと、僕の強力なライバルを追い払いたかったのかもしれないな」
「ライバル?」
「ああ。彼が現れて以来、君の心はいつも彼のことでいっぱいだ。そんなふうに、まるで無理やり恋人と引き裂かれる乙女のような儚げなさまを見せられると、妬ましさで胸が疼くよ」クリスが大袈裟に溜息をつき、リンデは思わず笑い出しそうになるのを、唇をきゅっと結んでこらえた。リンデは経験上、クリスの描写が全く見当違いだと分かっていたが―無論クリスも分かっているはずだが―わざと悲しそうに目をしばたたかせ、芝居がかった素振りで顔を背けてみせた。クリスが上体を傾けてリンデの方へにじり寄り、熱っぽい声で囁きかけてきた。
「君を夢中で崇拝しているもう一人の男にも、少しは情けを掛けてくれないか?君の心に僕の入り込む隙はないのだろうか?」
温かな息が首筋をくすぐり、心地良い震えが走る。リンデは首をすくめて水面に目を落とし、心の内で微笑んだ。クリスはずいぶん変わった・・・以前は嫉妬心や独占欲を押し込めて一人で苦しんでいたらしいのに、こんなふうに冗談として、自然に、素直に、それらを表してくれるようになるなんて。ふぁきあが生まれてからのクリスの変化が、リンデはとても嬉しかった。
「リンデ?」
少し首をかしげてクリスが覗き込む。リンデはつんと顎を上げ、いどむように瞳をきらめかせて見返した。
「どう思う?」
途端にクリスが渋い顔になった。
「入り込んでみせるさ。僕はずっと君を恋い焦がれ続けてきたんだ。君に面倒をかけてばかりの新参者に負けるわけにはいかない」
その競争意識剥き出しの言い方に、ついリンデの頬が緩む。リンデは挑発するように甘い声色を出して言った。
「でも、ふぁきあは私の誕生日にお花をくれたもの」
もっとも、その時にもふぁきあは一騒動起こしたのだけれど。二人にとってそれは忘れられない思い出の一つだった。胸にしがみつくふぁきあの泣き顔を愛しく思い返し、リンデは微笑みながら言い添えた。
「ふぁきあはいつも私を喜ばせようとしてくれるの」
クリスの目がきらりと光った。
「僕だっていつも君を悦ばせようと努めてるだろう?君の好みを知り尽くし、君が求めるならいつでも、望み通りのものを捧げる。君の体を温め、心地良くさせ・・・」
「バカっっ!!」リンデはとっさに両手で湯を掬い、立て続けにクリスめがけて放った。
「ぶっ、わっ、よせ!」
クリスは降り懸かるしぶきを遮るように腕を掲げ、顔を背けて叫んだが、リンデは手を緩めなかった。
「やめろって!!」
ふいにクリスが向き直ってリンデの両手首を捉え、すかさず体を反転させて圧し掛かるように彼女を押さえ込んだ。リンデは一応、手を振り解こうと抵抗してみたが、もちろん全くの徒労に終わった。クリスがやれやれと言いたげに溜息をついた。
「まったく・・・僕が毛皮やら何やらを持って帰ってこなくてもいいのか?」
「えっ?心地良くなるものって、毛皮のこと?」呆気に取られたリンデに、クリスがニヤリと笑った。
「何だと思ったんだ?」
「何って・・・別に・・・」急速に頬の赤味を増して口ごもるリンデを、クリスは容赦なく追求した。
「何だ?正直に言うんだ。君が欲しているものを。君を満足させるためなら、僕はなんだってする・・・」
「もうっ!」リンデは覆い被さってくる逞しい胸に手を突っ張って、力いっぱい押しのけた。大きな重い身体は、明らかに意図された動きで後ろにひっくり返り、派手な水飛沫を上げて水没した。
「うっぷ・・・ひどいな」
クリスがざばりと水面に頭を出して左右に振り、ぐっしょり濡れて貼り付く髪を両手で掻き上げ、顔を拭った。
「だが、これぐらいのことではあきらめないぞ。僕は二度と決して引き下がりはしない。必ず君の愛を取り戻してみせる」
顎と髪の先からぽたぽたと水を滴らせながら、クリスが断固たる口調で言い切ってじっとリンデを見つめ、リンデは無言で視線を返し―二人は同時に吹き出した。
「まったく、君は、手ごわいよ」
クリスが笑いに声を途切らせながら言った。
「君は、本当に、ふぁきあに首ったけなんだな。少しは今日の休暇を楽しみにしてくれてるらしいと、期待してたのに・・・」
リンデは笑い過ぎて涙の溜まった目で睨み返した。
「クリスだって、今日一日は僕だけのものだ、って言ってたのに、話したのはふぁきあのことだけじゃない」
クリスは不本意そうに唸ったが、表情は満足気だった。
「まあ、仕方ないか・・・ふぁきあが大きくなって僕らの手を離れるまでは・・・」
「毎日どんどん大きくなるもの、きっとあっという間ね・・・」ふいにリンデの笑みが消え、寂しげに視線を落とした。クリスはすぐに気づいてリンデの方にかがみ込み、丸い頬に片手を当て、少し持ち上げるようにして覗き込んだ。
「リンデ?」
リンデは顔を上げ、訴えかけるようにクリスの目を見つめた。
「うん・・・あのね、なんだかその日が待ち遠しいような、あんまり早く来てほしくないような、変な気持ちなの」
「僕もだ」優しく見つめ返すクリスの瞳に、リンデはほっと溜息をついて表情を和らげた。
「ふぁきあはどんな大人になるのかな・・・」
「きっと僕に似てるだろう」クリスは眉を寄せて渋面を作り、低く唸った。
「思い込みが強くて、融通がきかなくて、無茶なことをしては、大切な人を心配させるんだ」
リンデは微笑みそうになるのをこらえて片眉を上げ、クリスを睨んだ。
「困ったものね。好きな女の子を心配させたり、悲しませたりするなんて」
「すまない」すかさずクリスが謝り、リンデは朗らかに笑った。そしてふっと笑いを止めて呟いた。
「ふぁきあが好きになるのはどんな女の子かな・・・」
「それも僕と似てるだろうな」ほっそりした滑らかな身体に両腕を回して抱き寄せながら、クリスはリンデの耳に囁いた。
「そそっかしくて、向こう見ずで、危なっかしくて、黙って見てられないようなお転婆な女の子さ」
リンデは顔を顰め、拗ねたように口を尖らせてみせた。
「なんだか大変そうじゃない?」
「そんなことはない。彼は彼女を守ることに喜びと幸せを感じるよ」薄紅色の柔らかな頬に軽く口づけてから、クリスは、彼の心を捉えて放さない美しい瞳を覗き込んだ。
「彼女はどんな時にも一生懸命で、決してあきらめない。そして、本当の彼を理解し、彼と心から支え合うことがことができる、そんな女の子だ」
「クリス・・・」リンデは胸が熱くなった。クリスと暮らし始めてからの9年間―いや、クリスと出会ってからの14年間、ずっとクリスを守り、支えたいと願いながらも、実際にはクリスに頼りっぱなしだった気がする。それでもクリスはリンデを、お互いに支え合っている、対等な立場の伴侶だと思ってくれている。
「ありがとう」
思わず涙が込み上げて声が震えた。クリスは微笑み、リンデの頭を引き寄せて唇を重ねた。優しく繰り返される口づけは、次第に深く、熱く、激しさを増していった。
久しぶりに周囲に気を取られることなく―とは言っても、クリスはリンデの頭が沈まないように、いつもとは違う気を遣わなければならなかったが―心ゆくまで愛し合った後、二人は青白色の湯にゆったりと身を任せ、激しく燃え上がった後の満ち足りた余韻に浸っていた。大きな岩に寄りかかったクリスの脚の間で、リンデは広い肩に頭を凭せ掛け、眼を閉じ、身体の力を抜いて、穏やかな幸福感を噛み締めた。
「リンデ・・・?」
ふいに耳元の囁きが心地良い沈黙を破った。リンデがけだるげに頭をもたげてクリスを見上げると、長い髪が湯の中で花のように揺れて広がった。
「ふぁきあのことだが・・・」
クリスがリンデの髪に目を奪われながら言いかけると、リンデは呆れたように吹き出した。
「やっぱり私達の話って、ふぁきあのことなのね」
しかしクリスは、右手をすんなりした肩から腕にかけてそっと滑らせてリンデの身体に怪しいざわめきを起こさせながら、澄ました顔で続けた。
「友達も必要だろうが、弟や妹も必要なんじゃないだろうか?どう思う?」
リンデはぱっと頬を染めた。
「いいの?」
クリスが訝しげに眉をひそめ、リンデは赤い顔のまま言いにくそうに視線を外した。
「だって・・・ふぁきあが生まれた後・・・しばらくはふぁきあだけでいいって・・・」
「ああ」クリスは少し気まずそうな表情になったが、目は逸らさなかった。
「あの頃は精神的にもぎりぎり手一杯の状態だったからな。定住して無事に過ごせるか、様子を見たかったし・・・だが、僕らも、もうそろそろ過去から解放されてもいい頃だろう。幸いここは、僕達にとってこれ以上無いほどの条件を備えた場所だ。ここで子供達を育てて、落ち着いて暮らしたい。君さえ良ければ」
そう言ってからクリスはふと心配そうな顔になった。
「君こそ嫌じゃないか?また子供を、となると、君の方が大変だ・・・」
リンデが慌てて首を振った。
「ううん、そんなの、全然。嬉しい」
恥じらいを見せながらも隠し切れない喜びに輝くリンデの表情を、クリスは満たされた心地で眺めた。
「そうか、じゃあ、頑張らないとな」
「え?」クリスのほのめかしに、リンデが上ずった声をあげて腰を浮かせた。
「今?ここで?」
「台所のテーブルの上も悪くは無いが、あまりゆっくりはできないだろう?」クリスは意味ありげに笑って、細いウエストに廻した左手に力を込め、逃げようとする腰を引き止めた。すかさず上体を起こし、小さな躰を軽々と反転させて太腿の上に乗せ、細い顎を捉えて瞳を覗き込む。リンデは少し抵抗するように首をすくめたが、その澄んだ大きな瞳は、彼女の体の奥深くで燃える炎を正直に映し出していた。クリスはリンデの質問に、熱く誘うような口づけで答えた。
クリスの体はいまやあからさまにリンデを求めていた。リンデは、逞しい腕に抱き締められ、クリスの激しい渇望を肌に感じた途端、抵抗する意欲が霧のように消え去っていくのが分かった。リンデの体を知り尽くした愛撫が、あっという間に彼女を頭から爪先まで熱く痺れさせ、夢見心地の陶酔へいざなって行く。体の奥で勢いを増した欲望の炎が再び全身に燃え広がるに任せ、リンデは、クリスに負けない強い熱意を以って彼を迎え入れた。