「おとうさん!おかあさん!」荷馬車を御してきた大柄な男は、手綱を下ろすと、御者台に立ち上がって甲高い叫び声を上げた幼い男の子の両脇に手を差し入れ、軽々と持ち上げた。男がそのまま荷馬車から降りる間、少し癖のある黒髪の男の子は脚をぶらぶらさせていたが、地面に下ろされるなり、小さな家の戸口に姿を見せた二人に向かって、幼子らしい足取りで駆け出した。家の前のわずかに開けた空間の周りには、秋の彩りの花が咲き乱れていた。それらは全て野草とか雑草と呼ばれる種類のものであったが、彼らがここに住み着いて以来、殺風景な山小屋を少しでも家庭らしくしようと、男の子の両親が少しずつ整えてきたものであった。
「おかえりなさい」
「おかえり、ふぁきあ。冒険は楽しかったか?」背の高い、若い父親が大股に歩み寄りながら身を屈め、走り込んできた小さな身体を両手ですくい上げると、空に向かって勢い良く高々と掲げた。男の子ははしゃいで父親の首に抱きつき、興奮気味に喋り始めた。
「うん。『まち』ってね、ひとがいっぱいいた。みんなといっしょにあそんだよ。すごくたのしかった。それでね、またおいで、って。またいってもいい?」
「ああ、そのうちにな。そうしょっちゅうじゃ、ザックスおじさんが大変だ」父親が笑いながら答えると、男の子は可愛らしく口を尖らせた。
「たいへんじゃないよ。すごくいいこだったもん。・・・だいたいは」
父子の視線を一斉に浴びた男は、しかし、素知らぬ顔で驢馬の様子を見ていた。父親は男の子の頭をぽんぽんと叩いた。
「えらかったな、ふぁきあ。もう立派に一人前だ。おまえはきっと強い男になるぞ」
「じゃあ、『きし』になりたいな」がたん、と背後で大きな音がして、父親は息子を抱えたままさっと振り向いた。家の前で、戸口の階段を降り損ねたらしい妻が座り込んでいた。
「おかあさん!だいじょうぶ?」
「もちろん。わたしってば、ほんとそそっかしいんだから」にっこり笑って立ち上がる母親に、男の子はほっと安心して笑顔になった。父親は何も言わなかった。男の子はすぐに父親に向き直った。
「えーと、なんだっけ。あっそうだ、『きし』って、とってもつよくて、かっこいいんだって。きょうかいでえをみせてもらったよ。おおきくなったら、あんなふうなりっぱなふくをきて、うまにのってたたかうんだ!」
「残念だが、ふぁきあ、騎士になるには、そういう家に生まれなければだめなんだよ」意外に厳しくたしなめるような声で父親が言った。男の子は言葉の内容が理解できなかったらしく、不審気に眉をひそめた。父親は少し表情を和らげ、大きな手で男の子の前髪をくしゃりと掻き上げた。
「つまり、普通、騎士になる子は、その子のお父さんも、そのお父さんも騎士なんだ」
男の子は残念そうな顔になった。
「おとうさんはちがうの?」
「違う」父親はきっぱり答えて首を横に振った。驢馬の世話をしていた男がちらりと視線を寄越した。近づいてきた母親が父親の腕にそっと手を置いた。
「だが、だからと言ってがっかりすることはないよ、ふぁきあ。騎士でなくても強くて立派な男はいる。ザックスおじさんみたいに。そうだろう?」
「うん!」男の子はぱっと明るい表情になり、大きくうなずいた。
「それでね、みんながいってたんだ。むこうのやまの『とりで』にあたらしい『きし』のひとがくるんだって。えーと、なんていったかな・・・ぱ・・・ぱる・・・?」
父親がまさかという表情になった。
「パルシファル?」
口にしてすぐしまったという表情になったが、男の子は嬉しそうに顔を輝かせた。
「そう!そんななまえ!・・・おとうさん、しってるの?」
父親は、自分の妻がぎゅっと強く腕を掴むのを感じた。不思議そうに見上げる男の子に、父親は少し顎を強張らせて微笑んだ。
「・・・いや・・・よくある名前だよ」
どこかうしろめたそうに答えながら、父親は男の子を母親の腕に渡し、二人を一瞬抱き締めた。
「そうなんだ」
男の子は、額におかえりのキスをしてくれた母の頬にただいまのキスを返し、しっかりと包み込んでくれた腕と柔らかな胸の間で心地良く落ち着いた。けれど、その日の冒険の興奮はまださめやらぬ様子で、丸い頬を赤くほてらせ、濃い緑の瞳をきらきらと煌かせて、両親を交互に見上げた。
「それからね、ないしょのおじさんにあったよ」
「ないしょのおじさん?」父親が尋ね返すと、男の子は母親の腕から身を乗り出して大袈裟に手招きした。父親が男の子の上にかがみ込むと、その耳元に小さな両手を当てて囁いた―そこにいる全員に丸聞こえではあったが。
「そうなの。すっごくおっきなおじさんだったよ。ザックスおじさんとおんなじくらい。でも、かんじはぜんぜんちがうけど。うーん、なんていうかなぁ?」
母親の腕の中で、男の子はませた仕草で小さな腕を組み、難しい顔をして首をひねってみせた。
「ザックスおじさんはもりのおおきなきみたいだけど、そのおじさんはつよいかぜみたいなかんじ」
微笑む父親に男の子は夢中でまくしたてた。
「それでね、なまえは?ってきかれたから、ふぁきあです、っていったの。おとうさんのなまえもきかれたから、おとうさんはヴァルターで、おかあさんはエーファ、って、ちゃんとこたえたよ。そしたらなんかおまじないみたいなことばで、べつのおじさんとしゃべってた」
父親は少し眉をひそめ、荷馬車の手入れをしている男を振り返った。男は父親をちらりと見て目配せした。男の子は父親の袖を引っぱって、注意を自分に向けさせた。
「そのおじさんがね、『きみみたいなげんきなむすこがいるといいな』っていうから、『おじさんにはこどもいないの?』ってきいたら、『いるけど、おんなのこで、それにまだちいさいからいっしょにあそべないんだよ』って。おんなのこでも、おおきくなったらいっしょにあそべるよね?そしたらいっしょにあそびたいなぁ・・・きっとなかよくできるとおもうんだ」
「ああ、お前ならきっとそうできるだろう」父親が頭を撫でてやると男の子は誇らしげな笑みを浮かべた。
「でも、おじさんたちのことは『ないしょ』にして、っていわれたの。ザックスおじさんにきいたら、『ないしょ』って、『ひみつ』ってことなんだって。だからこれはひみつ」
人差し指を口の前に立てる男の子に、父親は微笑んで答えた。
「わかった。秘密だな」
それから父親は、息子にではなく、後ろの男に頷いた。そんな男達の様子を見ていた母親は、男の子を揺すり上げるように抱き直し、小さな頬についた泥汚れを親指でこすり取って、ふわりと笑いかけた。
「おなか空いたでしょ?今日はふぁきあの好きな雪玉のお菓子があるの」
「うわぁ!」途端に男の子は暴れて母親の腕から滑り降り、扉に駆け寄った。
「はやく、はやく」
母親に扉を開けてもらって駆け込んでいく男の子を見送り、母親がちらとこちらを見てから中に入って扉を閉めるのを待って、父親は再び振り返った。
「・・・ザックス?」
「ヴァルター・・・いや、クリス様」ゆっくりと近づいてくるザックスの険しい表情とその言葉に、クリスはそちらへ歩み寄りながら眉をひそめた。
「何かあったのか?」
「アンリ王子らしい」クリスはわずかに息を呑んだ。ザックスは申し訳なさそうな顔になった。
「悪ぃ、驢馬に水をやろうとして西の泉んとこでちっと目ぇ離した隙に、ふぁきあがいなくなっちまってよ、慌てて探したら、まぁ、すぐ見つかったんだが、その間に態度の怪しい二人連れに会ったっていうんだ」
クリスは黙って聞いていた。
「で、ふぁきあが言うには、その一人が、夜の炎みてぇな髪と空の真ん中みてぇな目だったそうだ。赤い髪に青い目なんて別に珍しくもねぇが、どうもふぁきあの話を聞いてると、ヤツみたいな気がしてならねぇ。ふぁきあの言う『おまじないみたいな言葉』ってのは、たぶんシディニア語だろう」
ザックスは腕を組み、不満そうに鼻を鳴らした。
「いずれにしろ、こっち側の国境警備が甘くなってるのは間違いねぇ。いくら恐れ知らずのアンリ王子だって、こんなとこまで入り込まれるなんてよ。あんたが軍にいりゃ、こんなこと・・・」
「ザックス」穏やかに咎められて、ザックスは少し気まずそうに鼻の頭を掻いた。
「ま、今すぐどうこうってことはねぇだろうが、あんたも用心してくれよ」
怪訝な顔になったクリスに、ザックスは少し心配げに言った。
「あんた、アンリ王子に顔覚えられてんだろ?しばらくここを離れた方がいいんじゃねぇか?うっかりその辺で出くわしたりしたら・・・」
クリスは微笑んだ。
「ああ。彼なら大丈夫だ。むしろ・・・」
ふとクリスが途中で表情を曇らせて言葉を切り、ザックスは眉を上げた。
「なんだ?」
「・・・いや」クリスが言わないと決めたら聞き出すことはできないと分かっていたので、ザックスは追及をやめ、肩をすくめた。
「とにかく、気をつけてくれよな」
クリスは再び微笑を浮かべて頷いた。
「分かった。考えてみる。ありがとう」
「いや」礼を言われてザックスは照れくさそうに顔を背け、さっさと踵を返して荷馬車に手を掛けた。
「寄っていかないのか?」
クリスが声をかけたがザックスはそのまま荷馬車を大きく揺らして乗り込み、どさりと腰を下ろした。
「今日は一日、坊主の相手で疲れた。帰って休ましてもらうぜ」
それからふと思いついたように付け足した。
「それにしてもさすがあんたの息子だな。アンリ王子と言やぁ、大の男でも怖じけるくらいの威圧感の持ち主だってぇ噂じゃねぇか。そいつと対等にお喋りするなんてよ、チビのくせに大した度胸だぜ」
クリスは少し顔を顰めた。
「それで無茶をしなければいいんだが・・・」
「それもあんたと同じだな」きっぱりと返されてクリスは苦笑した。
「じゃあな」
そう言って驢馬に鞭を当てたザックスの背中に向かい、クリスは大声で呼びかけた。
「今日は本当にありがとう」
ザックスは背中を向けたまま、軽く手を振った。