(なんなんだ?)

彼は久しぶりに戻った王宮の奇妙な空気に眉をひそめ、さっと視線を廻らせた。跳ねたくせっ毛が燃え立つ炎のように揺れる。問うように傍らを見遣ると、副官は黙って肩をすくめた。城門の外にも内にもいつもより多くの兵士が目につき、物々しい雰囲気を醸している。だがこの時期、特に警護を強化しなければならない理由は思い当たらなかった。戦況が変わったという報告は受けていないし、特別な行事も無かったはずだ・・・彼が帰還するということがそうでなければ。だが何より違和感を覚えたのは、そこに漂っていたのが、戦の前や公式行事などの際にありがちな高揚した緊張感ではなく、むしろ沈鬱な静けさであることだった。誰もが息を詰めているように王宮の中は不気味なほどひっそりと静まり返り、そしていつもは気軽に彼に話しかけてくる人々も、どこか彼との会話を―あるいは彼自身を―避けているように感じられた。晴れやかな秋の昼下がりには似つかわしくない辺りの張り詰めた空気に彼は訝しげな視線を投げかけたが、しかし、足を止めることはなかった。
 
 
 

「おかえりなさい、叔父様」

副官と別れて後宮の前庭に入ると、大人たちに取り巻かれるようにして遊んでいた黒い巻き毛のかわいらしい幼女が駆け寄ってきた。薔薇色の頬はつやつやと輝き、成長したら必ずや類い稀な美しい姫君になるであろうと予想できた。

「これはプリンセス・クレール、今日もうるわしい。ごきげんいかがかな?」

兜と手甲を外し、鎧と鎖帷子は付けたままの姿でアンリはにっこりと笑い、小さな王女を高々と抱え上げた。王女は嬉しそうにきゃっきゃっと笑った。

「チュチュとアンジュは一緒じゃないのかい?」

たいていいつも一緒に遊んでいたものだが。王女を降ろしながら何気なくアンリが尋ねると、王女はあどけない表情で頷いた。

「うん。だって叔母様は・・・」
「クレール様。そろそろお部屋にお戻り下さいませ。お昼寝の時間でございます」

付き添いの侍女が王女を遮り、アンリに膝を曲げてお辞儀すると、そそくさと王女を連れ去った。アンリは少し不審を抱いたが、女官達に好かれていないことは重々承知していたので、軽く肩をすくめただけで、自分の育った奥の建物に向かった。
 
 
 

もうすぐ逢える。二段飛ばしで入口のテラスの階段を駆け上がると、正面の柱廊の向こうから、彼の愛しい人がゆっくりとこちらに歩いてくるのが目に入った。白く長いガウンを纏ったほっそりした姿は、いつにも増して天使さながらだった。陽の光のような透ける金の髪が、細い金の輪冠で留めただけの薄いヴェールからふわりとこぼれる。明るく澄んだ空色の瞳が彼を認めて輝いた。まだ距離のある彼女に向かって、アンリは大声で叫んだ。

「あいつを見つけた!これで展望が開けるぞ!」

帰還の挨拶もせずにいきなりそう言ったアンリに、アンジュは心から嬉しそうな笑顔を返した。

「ほんと?良かった・・・」

アンリは誰とも言わなかったのに、アンジュには誰のことか分かっている。いつもそうだった。まるで心を共有しているかのように、アンジュはアンリの気持ちを感じ取ってくれるし、アンリにはアンジュの言いたい事が―それは時々常識をはるかに超えたものだったが―手にとるように分かった。家族の誰とも似ていない鬼子で(実は彼は二代前の皇太后にそっくりだったのだが、誰も知らなかった)、孤独な幼少時代を過ごしたアンリに、少女のアンジュだけが怖じることもなく近づいてきて、傍にいてくれた。彼女の明るく前向きな性格が、彼の固く強張った気持ちをほぐし、彼女の一途で純粋な想いが、彼の心に触れて、閉ざされた世界に光と温もりをもたらした。嬉しいことも悲しいことも全て分かち合ってきた。アンリにとって彼女は世界の扉であり、世界の全てでもあった。
 
 
 

アンリはまだ少年と言っていい頃から彼女を恋人と呼んではばからなかったが、彼女の父親の大臣は娘をアンリの兄の皇太子の后がねにと考えていたので、アンリはあからさまに拒絶されるようなことこそなかったものの、彼女との関係は長い間はっきりしないままだった。しかし彼女が16歳になった頃、ちょっとした政争で父親が失脚し、彼女は皇太子妃候補から外れた。この時、宮廷では密やかな噂が駆け巡ったが、アンリが関与していたという証拠は全く無かった。

だがしかし、彼の行動は素早かった。強欲な兄が状況を悪用して安直な関係を彼女に強要する前に、彼はさっさと彼女を攫って司祭の前に連れて行き、正式な妻とした。兄は多少未練な様子を見せはしたが、アンリの激しい気性を知っているので、敢えてそれ以上関わろうとはしなかった。この成り行きに喜んだのは、彼女の清らかな美貌に脅威を抱いていたあまたの皇太子妃候補達ばかりではなかっただろう。実際、そうでなければ、血を見ないでは済まなかったかもしれない。廷臣達は内心、胸を撫で下ろした。アンリはその後、自分の家臣となった妻の父に戦功を立てさせ、妻とその家族の名誉を回復させた。全てはあるべきところに収まった・・・アンジュ自身も含め、誰一人、犠牲にすることなく。
 
 
 

アンリは久しぶりに再会した自分の魂の半分に弾む気持ちで駆け寄り、彼女のすんなりした体を軽々と抱き上げて、その場でくるりとひと回りした。一瞬彼女の表情が苦悶のように歪んだ気がしたが、アンリがよく見ようと顔を覗き込んだ時にはいつもの屈託のない笑顔がアンリに向けられていた。アンリは顔中に幸福を表して微笑み、心急かされて早口で彼女に告げた。

「早く知らせたくて、砦にも寄らずに真っ直ぐ帰ってきたんだ。何と言ってもこの作戦を立てたのはお前だからな」

アンジュが明るい声で笑った。

「相変わらずおおげさなんだから・・・でも上手くいくといいと思うけど」

アンリは大きく頷いた。

「ああ。あいつをこちらに引き込めさえすれば、何もかも上手くいくだろう。ノルドの内情を掴み、和解の策をひねり出し、この争いに終止符を打つ。ついでにあいつを擁立して、もう一つの隣国と・・・」

アンジュがたしなめるように軽くアンリを睨んだ。

「その話は・・・」
「分かってる。計画を実行に移すまでは誰にも口外しないさ。お前以外にはな。だがあいつが・・・」

アンリは一度言葉を切って周囲を見回し、声を落とした。

「あいつがオストラントの正統な王位継承者なのは間違いない。あいつをオストラントの王位に就けられれば、今はギクシャクしてるオストラントとの関係を改善できる上に、ノルドへの牽制にもなって、懸案が一気に片付く」
 
 

十年前、二度目に、そして最後に彼に会った時の記憶が脳裏に甦った。アンリは父王の使者として国境近くの砦に赴き、捕らえられていた彼を―不本意ながら―解放した。そしてその翌日、砦を離れる直前に、今は亡きそこの司令官に呼ばれ、その驚くべき話を聞かされたのだった。
 
 

「オストラントの王子だって?!」
「内密の話だと言ったでしょう。大声を出さないで下さい」

司令官の部屋は崖の上方の突き出た部分にあり、人払いしてある今は、話を聞かれる心配などほとんど無かったが、父王の従兄弟にあたる老司令官は、椅子に座り、組んだ手を机に乗せたまま、眉をひそめて諌めた。腕組みをして机の端に腰掛けていたアンリはきまり悪そうに身じろぎし、机に片手をついて身を乗り出し、声を落とした。

「本当なのか?」
「ええ、間違いないですよ。お父上によく似ていらっしゃいましたからね」

そういえばこの司令官は若い頃、父王の名代として外国にもよく行っていたと聞いた。当然、この辺りで最も強大で権威もあったオストラントに行かなかったはずはない。

「だが、それだけでは・・・」

半信半疑といった様子で首を振るアンリを、老司令官は静かな眼差しでじっと見つめた。

「彼の剣の紋章を見ましたか?」
「紋章?」

そう言われてみれば、鞘に何か見かけない紋章があったような気がする。たいして重要なものとも思えなかったので、気にも留めていなかったが。

「あれはオストラントが王国となる前、王家が帝国を構成する一領主だった頃の古い紋章ですよ。あの剣はオストラントの継嗣の王子が持つ剣です」
「なんだって!」

再び声が高くなって眼差しで咎められ、アンリは首をすくめて彼を横目で見た。この父の従兄弟という人はいったいどれほど博識なのだろう。自分は軍事だけでなく、政治や歴史についても―まあ、それとて軍事とたいして違わないが―ずいぶん勉強したつもりでいた。が、そんなことは全く知らなかった。それともこれが年季というものなのか?

「あなたが知らないのも無理はない」

老司令官はアンリの心を読んだように言った。

「あの紋章はすでに忘れ去られて久しいですし、あの剣も公の存在ではありません。ずっと内々に受け継がれてきたもので、オストラント国内でも、王位継承に関わる祭司など少数の人間しか知らないはずです。私が知っているのも、前国王が個人的に親しくして下さって、特別に見せて下さったからです」

しかめ面で聞いていたアンリが、ふと身を起こした。

「いくら知られてないからって、あいつ、そんな物騒な物を、目につくところにぶら下げて歩き回ってたのか?もっと思慮深くて慎重な奴かと思ってたが・・・」
「慎重だが大胆、という印象を私は受けましたよ。あなたに似ていますね」

アンリが眉を上げたが、老司令官は意に介さなかった。

「自分ができると思ったら、傍目にはそれがどれほど無謀で常識はずれでも、まったく躊躇せずに実行してしまうところなどは。おそらく彼も周囲の人をはらはらさせどおしなのではないでしょうか」

アンリは彼をじろりと睨めつけた。

「褒めているようには聞こえないぞ」
「そうでしょうね」

さらりと返され、アンリはぶすっとした表情で言った。

「どっちにしろ、無用心だな」
「そうとばかりも言えません」

老司令官は静かに首を振った。

「よほど確かな隠し場所がない限り、常に身に着けておく方が安全だと、彼は判断したのではないでしょうか。敢えてなんでもないありふれた剣のように扱い、特別な謂れがあることなど全く感じさせなかった。実際、あなただって気がつかなかったでしょう」

アンリは顔をしかめて唇を尖らせた。

「だが、気づかれなかったにしろ、現にこうして剣を失くす危機に陥ってるじゃないか」
「その危険を冒しても守らなければならないものがあったんでしょうね。それにこれは私の推測ですが・・・」

老司令官は一度咳払いして言葉を続けた。

「彼はあの剣を、その特殊な用途で使うために守っていたのではなく、使わせないために守っていた、という気がします。その意味では彼の意図は充分に満たされていた。騎士の剣は、その騎士が生きて囚われている限りは、捕らえた側が所持し続けることになっています。つまり彼もあの剣も、この砦から出ることはできなかったわけですから・・・」
「秘密を気づかれさえしなければそれで良かった」
「そうです」

低い唸り声を上げてアンリは束の間沈黙したが、すぐに反駁した。

「だが、おまえは気づいたじゃないか」
「ええ。ただし紋章ではなく、彼自身で気づいたのですがね」
「同じことだろう」
「違いますよ。最初から彼を知っている者に対しては、どんな小細工をしても無駄なのです。彼はそれを引き受ける覚悟はしていたでしょう」

アンリは鼻を鳴らした。

「危険な賭けだ」
「彼の人生そのものがね」

ぎゅっと唇を引き結び、アンリは黙り込んだ。老司令官の目に慈しむように柔らかな色が宿った。

「彼はごく自然に、責任というものを受け止め、大切にしていた。それが自分の意志とは無関係に負わされたものであっても、また彼自身がそれに対してどんな評価を持っていようとも、引き受けたものに対しては誠実にそれを果たそうとしているように見えました」

アンリは苦虫を噛み潰したような顔で、いらいらと指先で机を叩いた。

「なんでもっと早く、あいつを解放する前に教えてくれなかったんだ」
「そうしたら、あなたは彼を解放しなかったでしょう?」

見透かしたように言われて、アンリは老司令官を横目で睨んで舌打ちした。老司令官は穏やかに、しかしきっぱりとアンリに告げた。

「あなたにどんな思惑があろうと、彼には彼の人生があり、帰るべき場所があるのですよ」
「だが、今日、俺に教えてくれたってことは、何か意味があるのだろう?」

老司令官は表情こそ変えなかったが、目の奥にちらっと光が瞬いたことにアンリは気づいた。

「私は、私の受けた信頼と私の責務とに鑑み、そうすべきだと思うようにしたまでです。あなたはあなたに寄せられた信頼に応え、為すべきことをなさい」

老司令官が立ち上がると、真っ直ぐに見交わす視線がほぼ水平になった。

「あなたはそれを御自分の力で成し遂げられるはずです、我らが王子」
 
 
 

アンリは言われたとおり、その途方もない企てをなんとか成功させようと、細心の注意を払いつつ、できる限りの努力をした。しかし、それから2年とたたないうちに当の本人が行方不明になってしまい、計画は挫折したかに思われた。だがこうして偶然にも運良く彼を見つけたからには、二度とあきらめる気は無い。なんとしてもこちらに引き込んでみせる。

(よく似てたな・・・)

意志の強そうな幼い男の子の面影を思い出し、アンリは思わず微笑んだ。

(まったくあいつの息子らしい)

今回はこちらの準備もできていなかったので、彼に会うのは見送った。場合によっては実力行使が必要な可能性もあるし―いずれにせよ、おそらくチャンスは一度きりと思われたので。だが慎重に、そして早急に、あいつを説得する計画を練り上げよう。彼らに再会するのが楽しみだった。
 
 
 

アンジュが思案げな表情でアンリを見上げた。

「そこまでとんとん拍子にはいかないんじゃないかしら?その方がそう簡単にあなたの言う通りこちらに協力して下さると思う?」

アンリは肩をすくめた。

「無理だろうな。だが手間も時間も必要なだけかけるさ。何百年って長い戦争を終わらせるんだ、何年掛かるかしれないが、その価値はある」
「そうね」

アンジュは再び微笑んだ。アンリはその時になってやっと、その微笑に力が無く、良く見れば顔色も少し青白いのに気づいた。

「どうした?」
「なにが?」

アンジュは無邪気に聞き返した。

「いや・・・どこか・・・」

不思議そうな顔を向けられ、アンリは口を噤んだ。

「・・・なんでもない。そうだチュチュは?俺の小さい天使はどうしてる?」

アンジュを放し、建物に向かって歩みを進めながらアンリが尋ねた。あどけない愛娘のことを考えると自然に頬が緩む。結婚後5年経ってやっと恵まれたかわいい一人娘を、彼はこよなく愛していた。彼女が生まれた時も彼は戦場にいたが、知らせを聞くやいなや馬に飛び乗り、後のことを副官に押し付けて、通常4-5日かかる道程を二昼夜で駆け抜けて戻った。その時もアンジュは何一つ咎め立てせず、ただ、おかえりなさい、とだけ言ったのだった。
 
 

足早に進むアンリの後を、嬉しそうな声が追ってきた。

「あなたが留守の間にずいぶん大きくなって、もう一人でどんどん歩いていっちゃうの。それにあの子のおしゃべりったら、きっとあなたも・・・びっくり・・・する・・・」

だんだん声が小さくなって途切れ、アンリは不審に思って振り返り、凍りついた。彼は見た。冷たい黒曜石の床の上に、力なく倒れ伏した白い天使の姿を。

「アンジュ?!」
「アンジュ様っ!なぜこんなことを!どうしてベッドから出てしまわれたのです!」

建物の中からアンジュ付きの侍女達が悲鳴を上げて走ってきた。アンリはアンジュに飛びついて腕に抱き起こしながら、彼らに怒鳴った。

「どういうことだ?!」
「それは・・・」
「・・・怒らないで・・・」

アンジュは弱々しく震える手を上げ、アンリを制するように彼の腕に置いた。

「あなたを・・・出迎えたくて・・・」
「もういい、喋るな」
「・・・ごめんなさい・・・」

それきり空色の瞳は閉じた。


 

 続き Fortsetzung

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