「チュチュを?!」

扉一つ隔てた部屋で眠るアンジュを気遣い、アンリは押し殺した声で鋭く言った。

「いえ、先ほど申し上げました通り、クレール様もおられましたので、正確には誰を狙っていたのかは分からないのですが・・・」

衝撃に青ざめているアンリを見て、年寄りの後宮侍従長は白い眉を寄せた。

「それで帰って来られたのではないのですか?モン=ノワールの砦に送った使者から報せを聞かれたのでは?」
「俺は砦にはいなかった・・・」

アンリは苦々しく答え、手で顔を覆った。勝手に砦を抜け出してノルドの領内まで入り込んでうろつきまわっていたのは自分だ。そうでなければ、もっと早く戻って来れていたかもしれない。アンリはぐったりと肩を落としたまま、力無く顔を上げた。

「それで・・・アンジュが?」
「はい。アンジュ様がとっさに刺客達の前に立ちはだかられたおかげで、姫様方はかすり傷一つ負われませんでした。しかしアンジュ様は、その・・・幸い傷はそれほどでもなかったのですが・・・どうやら毒が・・・」
「毒・・・だと?!」

瞳に蒼い炎を燃やし、アンリはぎりりと歯軋りして唸り声を上げた。侍従長は言い辛そうに視線を落とした。

「はい。賊の短刀に塗ってあったようでして・・・アンジュ様は重篤な御状態なのです」

込み上げる怒りでアンリは血が沸騰しそうだった。

「何故、後宮の奥にまで入り込まれたのだ!」
「それが全く分からないのです。どこにもそんな隙はありませんでしたし、姫様方のいらした部屋に到達するまでに当然通るはずの部屋でも、その者達の姿を見たものは誰もいないのです。まるでどこか別の場所から忽然とそこに現れたかのように・・・」
「くだらない言い訳はいい。そいつらは何者だったんだ?」

アンリが厳しい口調で問い詰めたが、侍従長は首を振った。

「それも分かりません」
「分からない?!」
「その者達は一様にフード付きの長いマントを身につけていましたが、身元を明らかにするようなものは全くありませんでした。駆けつけた衛兵達は、何人かは生かしたまま取り押さえようとしたようですが、残った者も皆、彼ら自身で刺し違えて果ててしまったそうです。もはや何者であったのか、吐かせようもありません。・・・ただ・・・」
「なんだ?」

アンリは眉を上げて侍従長を睨みつけたが、彼はためらって口を噤み、ちらりと隣の侍女頭と目を見交わした。

「さっさと言え!」

苛々と怒鳴りつけたアンリに侍従長は身を竦ませ、上目遣いにおずおずとアンリを見た。

「侍女の一人が言うには、その者達が切りかかる際に口にしたらしいのです。『王子のためにシディニアの姫を消す』と」

アンリの目が険しく細められた。

「ノルドの・・・ジークフリード王子の手の者だと?」
「それは分かりません。それにジークフリード王子はまだ十にも満たぬ幼子のはず、おそらくは王子の周囲の何者かの差し金かと・・・それにしてもその理屈がよく解せませぬが・・・」

侍従長が自信無げにぼそぼそと述べ立てるのを、アンリはさっと手を振って遮った。

「それで解毒剤は?有るのだろう?もう処置しただろうな?」

当然と言わんばかりの口調でアンリは確認したが、老いた侍従長と侍女頭が気まずげに顔を見合わせ、アンリは眉をひそめた。侍従長がおそるおそる口を開いた。

「それが・・・薬師が申すには、この毒を抑えるには、北東国境の山中でだけ採れる薬草の花を使わねばならぬそうなのですが・・・」
「すぐに取り寄せろ!」

みなまで聞かずにアンリは怒鳴ったが、侍従長は首を横に振った。

「無いのです」

一瞬の不気味な静寂があり、低く掠れた声が続いた。

「・・・無い?」

刺すような鋭い眼光に、侍従長は身震いして一歩後退った。

「は、はい・・・もちろんすぐに遣いを出したのですが、先日のノルドの侵攻で、生息地の野が全て焼き払われてしまったと・・・」

侍従長はそれが自分の責任でもあるかのように竦み上がり、怯えきって答えた。

「保存してあるものは?」

アンリが癇癪をこらえようと努力しているのは明らかだったが、その声は抑えきれない怒りを含んで細かく震え、侍従長はますます萎縮した。

「あったのですが・・・実は数ヶ月前の戦でノルドが同じ毒を使っていまして、それで今回もすぐにそれと分かったのですが、ともかくその時に、医療院で治療に当たられたアンジュ様が、下級の兵士達にまで惜しみなく使われてしまったそうで、もう・・・」

アンリの深い蒼の瞳が濃さを増し、不穏に光った。

「・・・だから?」
「・・・ですから、もはや手の打ちようがないのです。残念ながらアンジュ様は・・・」

いきなりアンリに襟首を締め上げられ、侍従長は叫び声を上げる間も無く息を詰まらせてじたばたともがいた。

「ウソだ!そんなことはありえない!アンジュは俺を置いて死んだりしない!」

傍に控えていた騎士達が慌ててアンリを取り押さえ、なんとか侍従長から引き剥がした。が、アンリはなおも暴れ続け、自分を捕まえている騎士達に手当たり次第に殴りかかっていた。

「放せ!奴らはどこだ?!アンジュを傷つけた奴は?!殺してやる!!」

追い詰められた獣のように荒れ狂う主に恐れおののきながらも、騎士達は必死で彼をなだめようとした。

「落ち着いて下さいアンリ様!」
「刺客どもは既に永遠の眠りに・・・」
「眠るだと?!」

アンリはもともと烈しい気性ではあったが、決して激情に流される愚か者ではなく、常に冷静に状況を見極め、とるべき行動を的確に判断することができた。それを知っている騎士達は、彼が自分を取り戻すことを期待した。しかし、今や彼は凄まじい怒りのおもむくまま、周囲の全てに激しい敵意と攻撃の矛先を向けていた。

「奴らを眠らせなどするものか!俺がそいつらを八つ裂きにしてやる!復活の日も拝めぬように、臓腑を全部抉り出して、ばらばらにぶちまけてやる!」

あまりの凄絶さに人々がわずかに身を引いた時、隣の部屋に続く扉が勢いよくバタンと開き、侍女が息せき切って飛び出してきた。

「アンジュ様が!」
 
 
 

アンジュは胸まで覆った上掛けの上に左手を置き、蒼白な顔で横たわっていた。周りの侍女達を突き飛ばすようにしてアンリは寝台に駆け寄り、シーツの上に力無く投げ出された右手を両手で包んで自分の胸の前で握った。小さな手のあまりの冷たさにぞっと戦慄が走ったが、アンリは敢えてそれを無視した。アンジュが弱々しく目を開いた。

「アンリ・・・」

微かな風のような息が洩れた。

「チュチュを、お願い・・・」

恐ろしい不安に胸を掻きむしられながら、アンリはアンジュの手を強く握り締めて唇を押し付けた。

「何を言ってる?チュチュはお前が自分の手で育てるって言ったじゃないか。これからもそうしろ」

アンジュの消え入りそうな儚い微笑が、アンリの心を切り裂いた。

「憎まないで・・・憎しみは幸せを遠ざける・・・あなたからも・・・チュチュからも・・・」

アンリはがばっとアンジュの上に覆い被さり、耳元で叫んだ。

「ダメだ!そんな話は聞かない!俺はおまえを離さないぞ!」
「おやめ下さい、王子。そのようなことを仰せになられては、王子妃様が天国に行けなくなってしまいますぞ」

終油の儀式のために呼ばれた司祭が、しかつめらしく眉をひそめ、厳かに戒めた。

「行かなくていい!」

猛烈な勢いで立ち上がって振り返りざま怒鳴ったアンリの言葉に、部屋中の者が息を呑み、何人かが慌てて十字を切った。

「アンジュはどこへも行かせない!ずっと俺の傍にいればいいんだ!アンジュを連れて行こうとする奴は、例え神でも許さない!」

侍女のうちの気の弱い者は倒れ、また、数人の男女が慌てて部屋から逃げ出し、室内が騒然とした。司祭は青ざめ、震えながらアンリを見つめた。

「なんという恐ろしいことを・・・」
「うるさい!絞め殺されたくなければとっとと出て行け! 」

今にも本当に実行しかねないアンリの剣幕に、司祭と僧達は表情を険しくして足早に立ち去った。僅かに残った忠実な人々は、もう声をかけることもできず、ただ遠巻きに見守っていた。

「アンリ・・・」

か細い声に呼ばれ、アンリははっとして再び枕元に屈み込んだ。

「なんだ?どこか痛むのか?それとも何か欲しいものが・・・」
「なぜ・・・泣いてるの・・・」

アンリは己の頬に手を当ててそこが濡れていることに気づき、慌てて手首で拭った。

「バカだな、よく見ろ。俺のどこが泣いてる?」
「あなたの・・・泣いてる・・・声、が・・・聞こえて・・・」

ぐっと熱いものが込み上げ、体を突き破って迸りそうになるのを、アンリは歯を食い縛って堪えた。

「泣いてなんかいない。お前の気のせいだ」
「そう・・・良かった・・・」

ほうっと溜息をついて眠り込もうとするかのように力の抜けたアンジュに、アンリは必死で取り縋った。

「ダメだ、アンジュ、いくな、お願いだ、俺を置いていかないでくれ!」
「大丈夫よ・・・アンリ・・・どこにも・・・行かない・・・」

ますます細く小さくなっていく声が、まるで燃え尽きる蝋燭の炎を思わせる。澄み切った美しい空色の瞳を、ゆっくりと白いまぶたと長い睫毛が覆っていった。

「・・・一緒に・・・居るから・・・チュチュと・・・あなたと・・・ずっと・・・」
「アンジュ・・・?」

安らか過ぎる寝顔に声が震えた。嘘だ。そんなことはありえない。

「アンジュ!目を開けろ!俺を見るんだ!!」

アンリのがっしりした手に掴まれた細い肩は、力無く、がくがくと揺れるだけで、食い込んだ指の先にもわずかな反応すら感じられない。

「アンジュっ!!アンジュ                 っ!!!」

天使はもう答えなかった。
 
 
 

アンリがアンジュの亡骸を抱き締めて放そうとしないので、彼女を棺に休らわすこともできず、周囲の者は困り果てた。何も知らぬ幼いチュチュが父親の脚に纏わりついて甘えなければ、アンリは己も息絶えるまで、永久にそうしていただろう。

「とーさま?」

彼は上着の裾を意外な強さで引っ張る小さなふっくらした手を見下ろし、膝の上でふわふわと揺れるあたたかいオレンジ色の髪にゆっくりと手を伸ばしてそっと撫でた。それは彼の燃える炎のような赤と、アンジュの透き通った陽光のような淡い金とを混ぜ合わせた色合いだった。そして、彼を見上げて無邪気に笑いかける大きな瞳は、妻と同じ、優しい空色だった。

「かーさまは、ねんね?」

熱い雫が頬を伝った。
 
 
 

アンリはチュチュを抱き上げるためにやっとアンジュを解放したが、その後もずっと棺の傍から離れようとはしなかった。チュチュは両親から離されて従姉妹の姫のところへ連れて行かれ、そこで一緒に世話されることになった。抜け殻のように呆然と棺に貼りついているアンリを無視して―そうせざるを得なかった―埋葬を除く一連の葬儀が執り行われ、今、棺は王宮の聖堂の祭壇前に安置されていた。棺を暗く冷たい地下墓地に入れることをアンリが頑として拒んだので、人々は諦め、彼が妻の死を受け入れるまで待つことにしたのだった。そうして数日が過ぎたが、彼はいまだ、冷え切った石の床に座り込み、頭を棺に凭せ掛けたまま、立ち上がることもできなかった。

アンリの眼は落ち窪み、こけた頬には髭が伸び放題で、彼を輝かせていたあの力強い生気はどこにもうかがえなかった。どんよりと虚ろな眼差しを床に落としているアンリに、彼の忠実な副官がそっと近づいた。アンリより数歳だけ年上のこの副官は、少年の頃からアンリに仕え、彼の心の動きを知り尽くしていた。常に彼の手足となって重要な任務をこなしてきたし、彼が妻を手に入れた時のいきさつにも関わっていた。そのアンジュ亡き今、アンリを動かせるのは自分しかいないという自負があった。

「アンリ様」

アンリが答えないであろうことは予想していたので、副官は少し間を置いた後、ためらわず言葉を続けた。アンリが何らかの反応を示すまで話しかけ続けるつもりだった。

「我々にはあなたが必要です。あなたがアンジュ様を必要としておられるのと同じように、シディニアの未来にはあなたの力が不可欠なのです。・・・アンジュ様はあなたと共に居られると約束なさいました。今も必ずあなたを見ておられるはずですよ」

アンリは眉すら動かさなかったが、副官はさらに熱心な口調で訴えかけた。

「チュチュ様もあなたを必要としています。今やチュチュ様が頼りとできるのは、アンリ様、あなただけなのです。どうかチュチュ様と我々を守るとおっしゃって下さい」

しかしやはり返事は無く、副官が小さく溜息をついて再び口を開きかけたその時、アンリの口元の筋肉がわずかに震えた。

「・・・殺してやる・・・」

地の底から響くような、重く冷たい声に、副官は背筋が凍りついた。彼は二十年近くアンリに仕えていたが、アンリのこんな声を初めて聞いた。

「俺が、必ず、この手で殺してやる・・・テルラムントも・・・ジークフリードも・・・」

副官が声も無く立ち竦んでいると、慌てた足音が響き、アンリがよく使っていた年若い伝令の兵士が駆け込んできた。

「大変です!北東の国境付近で一部の兵士達が暴発しました!彼らは命令無しに勝手にノルドに向かって侵攻を始めた模様です。このままではおそらくノルドの町で略奪をはたらき、無意味にノルドを刺激することに・・・」

アンリが見向きもせず、俯いて黙り込んだままなので兵士は戸惑ったようだった。

「王子?」

やはりアンリは動かなかった。兵士は困ったように副官を見た。見かねた副官が、すぐに秩序を回復させるよう指示を出そうとした時、棺の方から低い声がした。

「放っておけ」

彼らは空耳かと疑った。アンリはぴくりとも動いていなかったし、何よりアンリの口から出た言葉とは思えなかった。

「えっ、いや、しかし・・・」

納得できずに聞き返そうとした兵士は、アンリが頭を起こしてその目がゆっくりと向けられるや否や、ぞっとして身動きもできなくなった。虚ろな暗青色の瞳は、見る者を底無しの闇に引きずり込む絶望の沼のように思われた。再び抑揚の無い声が響いた。

「襲撃に参加した者達を呼び戻す必要は無い。ノルドの町など幾つ潰しても構わん。・・・ただしその者達は、シディニアに戻り次第、全員絞首台に吊るす。命令に従えぬような兵はいらぬ」

副官と兵士は恐怖に震え上がった。自由奔放ではあるが、よく練られた作戦を重んじ、無意味な殺戮を嫌ったアンリ王子はそこにはいなかった。二人が目にしたのは、恐怖によって人々を支配し、目的のためには手段を選ばない、非情で冷酷な戦神だった。闇を纏わり付かせた大きな体がゆらりと立ち上がった。

「夢は終わった。天使はもういない。この先に待っているのは・・・」

鮮烈な蒼い瞳の底でめらめらと燃える昏く冷たい炎に、二人は恐れおののいた。慈悲のかけらも窺えない硬く冷ややかな声が、低く吐き捨てた。

「地獄だ」


 

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