その日は胸が痛くなるような澄んだ青空だった。世界は爽やかな空気と芳しい彩りに満ち、柔らかく降り注ぐ陽射しの中で静かに輝いていた。しかし、穏やかな美しい秋の日は、突如、恐怖と苦痛と悲しみに染まり、無惨な地獄と化した。運命の些細な気まぐれによって。
 
 
 

クリスはいつもどおり、夕方になる前に家に戻った。だが、いるはずの妻子の姿が見当たらない。その辺りで遊んでいるのかと思い、周囲をひととおり見てまわったが、やはり二人はいなかった。クリスがいつもこのくらいに帰って来るのは分かっているはずなので、理由も無く遠出するとは思えない。陽は少しずつ傾きかけている。かすかな不安を覚え、心当たりを尋ねて町に向かったクリスは、異変に気づいた途端、狂ったように駆け出した。

夕陽に染まり始めた町を怒声と悲鳴が覆い、周囲の谷にこだましていた。町の向こう側のはずれの辺りから煙が上がっている。人や動物の叫ぶ声もそちらの方が激しいようだ。つまり、街道筋で言うと、国境とは反対の側から襲撃されたことになる。まだ日も暮れないうちに襲ってきた無謀な侵入者達は、もしかしたら、いつぞやの抜け道を通って来たのかもしれない。

『あんたが軍にいりゃ・・・』

ザックスの言葉が甦ったが、クリスは唇を噛み、それを追い払った。腰に差したままにしていた狩猟用の短剣を引き抜き、彼は、小さな箱を大切そうに抱えた少女に斧を振り下ろそうとしている男の腕を一閃で切り落とした。
 
 
 

ふぁきあはその日機嫌が悪く、いつになくあれこれと駄々をこねてはリンデを困らせた。どうしても町に遊びに行きたいと言ってきかないふぁきあを、リンデは厳しく叱った。ふぁきあは泣きながら表に出て行ったが、いつものようにすぐにけろりとして戻ってくるものと思い、リンデは黙って行かせた。ところがその日に限ってなかなかふぁきあが戻らない。気になったリンデは外に探しに出た。が、いつものお気に入りの湖畔の草地にふぁきあはおらず、リンデは彼が一人で町に向かった事に気づき、慌てて後を追った。町までの、鬱蒼とした森の中を通る、決して近いとは言えない道のりを、幼いふぁきあが歩き通せるとは思えなかった。だが結局リンデは途中でふぁきあを見つけることができぬまま、町に着いてしまった。

まず真っ先に、行商に出かけて留守にしているザックスの家を訪ねた。靴作りのための雑多な荷物の溢れかえる仕事場の隅々まで、ふぁきあの潜り込めそうな所は全て探したが、見つからなかった。リンデはためらわず町の中に踏み込んだ。ほとんど歩いたこともない不案内な道筋を、母親の勘を頼りに懸命に探し回った。ふぁきあ以外の何も意識に止まらなかった。やがてふぁきあに洗礼を受けさせた教会の小さな裏庭に辿り着いたリンデは、やっと、ほっと息を吐いた。

「ああ・・・ふぁきあ」

周囲を塀と建物に囲まれたひと気の無い庭の片隅で、ふぁきあは、泣き疲れたのか、丸くなって眠っていた。彼の傍らには、片手を彼の上にかざすようにして、白い石の聖女が静かにたたずむ。リンデは転ぶように小さな体に駆け寄り、両腕で包み込んでそっと抱き上げた。ぐらぐらする頭を胸に凭せ掛け、乱れた黒髪を撫で梳きながら何度もキスを落とす。頬に残る涙の跡を親指で拭ってやると、ふぁきあは眉をひそめてわずかに唸り声を洩らしたが、目は覚まさなかった。

ふと気づくと、既に陽が傾き始めていた。クリスが心配しているに違いない。すぐに家に戻ろうと踵を返したリンデは、しかし、裏木戸を押し開けた途端、その細い路地の先の表通りで異変が起きていることを知った。慌てて木戸の陰にしゃがみこみ、全身を緊張させて、忙しなく四方を窺う。だが耳を澄ますまでもなく、周りは途切れることの無い怒号と破壊の音、人間とも動物ともつかないけたたましい悲鳴に取り囲まれ、既に完全に地獄に呑み込まれてしまっているのは明らかだった。槍を握った一人の兵士が路地の先で足を止めるのを見て、リンデはとっさに聖女の元に駆け戻り、その背後に飛び込んだ。
 
 
 

周囲に響き渡る阿鼻叫喚に無理やり耳を塞ぎ、リンデはひたすらふぁきあを胸に抱き締めてうずくまっていた。いつ果てるとも知れぬ絶え間ない恐怖に手足は竦み、助かろうとする気力もついえかけていた。どのくらいそうしていたか分からない。もしかしたらそれ程長い時間ではなかったのかもしれないが、突然、聞き慣れた、この世で一番頼もしい声が耳に飛び込んできた。

「ふぁきあ!エーファ!」

最初リンデは空耳かと思った。あまりに強く想っていたので。リンデが縋る思いで顔を上げた時、再び声が響いた。

「ふぁきあ!!」

緊張して上ずり、少し掠れてはいるが、間違いない。リンデの鼓動が高鳴り、再び温かな力が体を巡り始めるのを感じた。ぎこちなく上半身をずらして像の背後から頭だけ突き出し、声のした方に向かって、からからに渇いた喉で必死に叫んだ。

「ヴァルター!ここ!!」
「エーファ!」

クリスが細い路地に面した横手の塀の上に姿を見せた。すらりとした姿が、路地沿いに差し込む夕陽に輝いている。彼が右手に握っていた短剣を腰の鞘にしまう時、ちらりと赤い色が見えた気がしたが、リンデは見なかったことにした。

「無事だったか!」

素早く塀から飛び降り、クリスは二人に駆け寄ってきつく抱き締めた。

「良かった・・・」

首筋に熱い溜息がかかり、リンデは涙がこぼれそうになった。心の底から安堵が湧きあがる。リンデは腕の中のふぁきあごと、力強い胸に寄りかかった。

「ごめんね・・・」

二人をしっかりと受け止め、クリスはリンデの額に唇を押し付けた。

「君が謝ることはないだろう」
「・・・わたしがふぁきあを叱ったりしなかったら・・・」

リンデはそう言っただけだったが、クリスはすぐに全てを察したらしく、さっとリンデの唇に手を当てて遮った。

「君が悪いわけじゃないし、ふぁきあが悪いわけでもない。今はそのことは考えるな。とにかくここを・・・」

クリスが途中で言葉を切り、険しい顔で教会の裏口の方へ視線を向けた。

「・・・ヴァルター?」

リンデが不安げに声をかけるとクリスは厳しい表情のまま振り返り、リンデとふぁきあがさっきまで隠れていた等身大の聖女像をちらと見遣った。そしてもう一度裏口の方を見てから、クリスはその像の背後にリンデ達を素早く押し込んだ。

「ここにいろ」
「・・・どうするの?」

リンデの胸が不吉な予感にざわめいた。クリスがリンデの肩に手をかけたまま、いつもの穏やかな口調で言った。

「落ち着いてよく聞くんだ。・・・僕に何かあったら、君はふぁきあを連れてパルシファルのところへ戻れ」
「えっ?!何を言って・・・」
「いいな。ふぁきあを頼んだぞ」

叫び声を上げかけたリンデの口を片手で塞いで有無を言わせぬ調子で言い切ると、クリスはふと微笑み、素早くリンデの頭を引き寄せて唇を合わせ、続けてリンデの腕に抱かれてすやすやと眠るふぁきあの額にそっと口づけた。ほんの束の間、愛しげに寝顔を見つめた後、クリスはもう一度リンデに微笑みかけた。

「あきらめるな。希望を失わなければ、必ず道は開けるから」

呆然としたリンデが言葉を返す間も無く、クリスは身を翻した。リンデが我に返った時には、クリスは教会の裏口の前に立ち、夕闇の降り始めた小さな庭の入口を塞いでいた。
 
 
 

その邂逅はこの上ない不運であったのか、あるいは巧妙に撚り合わされた悲劇の糸が導いた避けられない運命であったのか。クリスが教会の裏口に駆け寄るのとほぼ同時に、数人の騎士を含む十人ばかりの兵士の一団がそこから湧き出てきた。聖女像の背後からこっそりと様子を窺っていたリンデは、その時―正確にはその中の一人が顔を見せた時―クリスの後姿がはっきりと緊張したのに気づいた。

クリスは剣を抜かぬまま、拳を握って立ちはだかり、その、一番年かさの、指揮官らしき白髪の男を真っ直ぐに見据えていた。男が白い眉を挙げ、黄褐色の目が異様な輝きを帯びた。リンデは背筋にぞくりと悪寒が走るのを覚えた。不気味に霞みがかったその目は、ぎょろぎょろと落ち着きなく彷徨って焦点が定まらず、明らかに男の精神が常軌を逸していることを示していた。

「おやおや、これは・・・」

男が一歩階段を降りながら呟いた言葉を聞いて、リンデは耳を疑った。各地を転々としていた間、クリスはいくつかの外国語を教えてくれたが、その言葉はふぁきあが生まれてからリンデが頼み込んで教えてもらったもの―オストラントの言葉だった。

「ならず者どものくだらぬ襲撃につきあって、思わぬ拾い物をしましたよ。こんなところでお目にかかれるとは」

白髪の男は、目をぎらりと光らせて意味深に笑った。

「探しましたよ、ローエングリン王子・・・いや、お父上亡き今、国王陛下とお呼びするべきですかな?」

リンデは思わず叫び声を上げそうになり、慌てて片手で口を覆って息を殺した。

「何を言っているのか分からない」

クリスは眉一つ動かさず、ノルド語で吐き捨てた。しかし男は全く動じた様子も無く、つまらない冗談でも聞いたように乾いた声で笑った。

「とぼけても無駄です。あなたがどこに居られたにせよ、母国語を忘れるはずがない。あなたを守っていた者がそうはさせんでしょう、世継ぎの君よ」

最後の言葉にはからかいの響きが含まれていた。

「あなたは覚えておられないでしょうが、私はあなたが生まれた時から、あなたをよく存じているのですよ。だが今のあなたはむしろ、あの頃のあなた自身より、父上にそっくりだ。若くしてたぐいまれな統率力を示され、慈悲深く、聡明であられた前国王陛下・・・三人目の継母の連れ子の弟君にもお優しくて、寸分も疑うことをなさらなかった純粋な陛下にね」

男の顔にはあからさまな嘲笑が浮かんでいた。

「忘れてなどいない」

強く奥歯を噛み締めたようにくぐもった声でクリスが答えるのを聞き、リンデは目を閉じてぐったりと頭を石像に押し付けた。クリスはオストラント語で答えた。もう逃げられないということだ。クリスが低く険しい声で言い切った。

「僕はお前の顔を、あの炎の中で見た。お前が父上と母上を殺したんだな。叔父上の命令で」
 
 
 

忘れたと思っていた光景が、クリスの脳裏にまざまざと浮かび上がっていた。青ざめて厳しい表情の父、悲しげに微笑んでクリスを抱き締める母。訳も分からず両親から引き離され、それでも周囲の張り詰めた空気に、自分は泣いてはいけないのだと感じ取り、歯を食い縛ったこと。建物の陰に潜んで逃げる隙を窺っていた時、篝火の明るみの中に見えたこの男の冷酷な横顔と、剣の柄をきつく握り締めて震えていた守役の騎士の骨ばった手。そしてどうにか抜け出した後、つい背後を振り返ってしまい、心ならずも目にした、暗闇の中で悪魔のような炎に包まれる、自分が生まれ育った城・・・
 
 
 

男が肩をすくめた。

「まあ、結果的には。でも私が受けていた命令は、あなたとあなたの父上を殺すことでした。母上はお助けして、再び新国王の妃になっていただくはずだったんですがね・・・そう呼びかけたのですが、全く耳を貸してはいただけなかったようです。我々が王宮の奥に辿り着いた時には、討ち死にされた父上の死体に折り重なるようにして亡くなっておられましたよ」

男は残念そうに頭を振った。

「あたらオストラントの花と言われた絶世の美女を・・・惜しいことをしました。私もお裾分けに与れるはずだったのに」

クリスはかっとして、短剣の柄を強く握り締めた。下劣な言葉を発した男の口を切り裂きたい衝動を辛うじて堪えた。平静を失っては、大切なものを守れない。怒りで眩暈がする頭をぐっと持ち上げ、男の顔を睨みつけた。

「・・・それで?僕も捜し出して殺せと叔父上に命じられたのか?」
「さあてねぇ」

男はのんびりした調子で言って首をかしげた。

「あなたの叔父上は、あなたも一緒に亡くなったと信じておられました。臆病な方ですから、そう信じたかったのでしょうよ。けれど私はあなたが生きていると確信した。だからあなたを見つけ出す必要があると思いました」

淡々と語る男の言葉にクリスは目を細めた。

「僕が落ち延びたと誰に聞いた?」
「誰にも」

男は屈託無く首を振って答えた。

「前国王の周りの者は皆、誰一人として口を割ることなく死んでいきました。あなたの乳母も、傍仕えの者も含め、皆です。私は『あなたの死体』も見ましたよ。もっとも、身元を示すものといえば、一緒に黒焦げになった王冠くらいでしたがね」

男はさもつまらなさそうに肩をすくめた。

「だが、私にはどうしても納得できなかった。なぜなら私はあの夜、真っ先に私の前に立ちはだかるはずのファーキアを見かけませんでした。私の所に辿り着く前にどこかで討ち死にして、王宮と一緒に焼けてしまったという可能性も考えましたが、彼に限ってそんなことはありえない。あの忠義な老人は、心臓が止まっていたって、私を阻止しようとしたでしょうよ」

その通りだろうとクリスは思ったが、黙っていた。

「それで私は思い当たったわけです。彼がいない理由は一つしか考えられない。あなたを連れて王宮を出たのだと。私は私の考えをあなたの叔父上に進言しました。叔父上は野心は大きいが、気は小さい方ですからね、気にはなったようですが、信じようとはなさいませんでした。あの方はあまり洞察力があるほうではありませんし、自分に都合の悪いことは考えたくないという御気性ですから」

クリスは義理の叔父の人となりをはっきりと覚えてはいなかったが、主君をそんな風に評する人間を傍に置いているというだけで、その程が知れた。

「そういうわけで、私は独自にあなたを追うことにしました。自分の生え抜きの部下と共にね」
「そうか。では、お前達さえ倒せば、もう追われる事もないということだな」

クリスは脅しを込めて相手を睨んだが、男は肩をすくめて軽くかわした。

「厳密に言えば、私を、ですね。この者達は・・・」

男は片手を上げて軽く振った。

「その後雇った者達で、私の命令通り動く人形にすぎない。私の部下はあれやこれやで皆いなくなってしまいましてね。なにしろなかなかあなたを見つけられなかったので」

男はやれやれと言わんばかりに溜息をついてみせた。

「まったく、ファーキアもあなたも、逃げ隠れする才能だけにはおおいに恵まれていたようだ。10年ほど前にシディニアであなたらしき人を見かけたという情報を得て、シディニアに入り込んだものの、全く手掛かりが無くて、弱り果てていました。まさかこちら側におられるとは思ってもみませんでしたよ。彼らが暴発してこの町を襲ってくれたおかげで、偶然あなたを見つけることが出来た。まさに幸運です。私の努力が報われたわけだ」

嬉しそうに笑う男にクリスは侮蔑の眼差しを投げた。

「20年以上も費やして?御苦労なことだな」
「そうですね。でも私の仕事は完璧でなければならないのですよ。誰もが注目し、群を抜いていると認められるものでなくてはならない。それに付随する金だの地位だのといった現世的な利益は取るに足りないことです。あなたの叔父上は、何とかいう剣が無くて王位を継承するという形を取れなかったことを、大層気にしておられたようですが、実にくだらない。400年以上も続いた王家を倒したのですよ?その方が素晴らしいと思いませんか?」

クリスは固く唇を結んで何も答えなかった。男は同意が得られなかったことに少し残念そうな顔をしたが、返事を強要したりはしなかった。

「ともかく、私の偉業を台無しにしかねない不安の種は、確実に潰しておかねばならないと私は考えました。そして私が正しかったことが証明されたわけです」
「無駄骨だったと思うが」

低く、だがはっきりとクリスは言った。

「僕はオストラントに戻る気など全く無い」
「あなたの意志など問題ではありません」

男は鼻で哂った。

「問題はあなたの血だ。あなたが生きている限り、私は安心して眠ることが出来ない。だからあなたには今すぐ死んでいただきます。もしあなたに妃と御子がおられるなら、その方々にも」

最後の一言が発せられた瞬間、クリスは腰の短剣を引き抜いた。一人の騎士がクリスの脇を目掛けて長剣を横薙ぎに払った。クリスは身を屈めてそれをかわし、腕の開いた騎士の懐に飛び込んで、心臓を一突きにした。仰向けに倒れた騎士が落とした剣を素早く拾い、上から切りかかってきた別の兵士の剣を、交差させた短剣と長剣で受け止める。立ち上がりながら相手の剣を跳ね返し、両腕を上げたまま二、三歩下がったその兵士に素早く迫って喉を切り裂く。相手の人数が多すぎたのと、何より背後にリンデとふぁきあがいたのとで、手加減は出来なかった。クリスは獣のように敏捷な身のこなしで、次々と兵士達を倒していった。
 
 
 

血まみれで戦うクリスの姿を初めて目にして、リンデはふぁきあを抱き締めたまま凍りついていた。手も足も全く動かなかった。騎士の武器である長剣をクリスはもう何年も手にしていなかったはずで、しかもそれは持ち慣れた彼自身の剣ですらないのに、彼の動きには全く戸惑いが見られなかった。彼の手の中で長短二本の剣は、それ自体が生き物のように自在に宙を舞い、確実に目的を果たしていった。十人ほどいた兵士達はあっという間に三人を残して―その中の一人はあの白髪の男だった―全員地面に倒れ、動かなくなった。残った兵士達に遠巻きに囲まれたクリスは、いくらかの傷を負い、肩で息をしながらも、仁王立ちで踏ん張っている。こちらに横顔を見せた彼の前に一人、後ろに二人の兵士達は、圧倒的に有利な立場にいるにもかかわらず、動けば死が待つのみであることを察して、怯えた表情のまま微動だにしなかった。

しかしその張り詰めた均衡を破ったのは、不幸なことに、兵士達でもクリスでもなかった。それは運命を操る者の悪戯だったのだろうか?・・・リンデの腕の中で急にふぁきあが目覚め、ぐずりだした。リンデははっとしてふぁきあの顔を自分の胸に押し当てるように頭を抱き寄せ、素早く背中を軽く叩いてあやした。

(お願い、いい子にしていて・・・!)

ふぁきあはすぐにおとなしくなった。しかし、兵士らにリンデ達の存在を知らせるには充分だった。一瞬、何の物音か分からず顔を見合わせた彼らだったが、訝しげに目を細めていた白髪の男が満足気に頷くと、他の二人もすぐにそれと気づいた。リンデ達に一番近い場所にいた兵士がニヤリと笑い、標的を変えてリンデ達の方へと走り出した。しかしその兵士は三歩も進まぬうちに背後から首を切られて地面に転がった。クリスの意識が前方に集中し、背後の兵士が動いた。リンデとクリスの目が合った。

その瞬間、何が起こったのか、リンデには分からなかった。大きな羽音と共に黒い鳥が目の前を横切り、次に目にしたのは、クリスの背中から胸に突き抜けている太く長い剣だった。薄闇の中で鈍く光るその刃の上を鮮やかな赤い色が走り、刃先から滴り落ちた。

「いやあああっっ!!」

響き渡る悲鳴にも、クリスは眉一つ動かさなかった。そして素早く左の手首を返し、左脇の下からやや上方へ向けて思い切り剣を突き立てた。断末魔の叫びをあげて背後の兵士が仰け反り、二本の剣―クリスの左手から離れた剣とクリスの体から抜かれた剣―と共にゆっくりと後ろへ倒れた。わずかに遅れて、支えを失ったクリスの体も前のめりに崩れ落ちた。

思わず飛び出そうとしたリンデは、ただ一人生き残った白髪の男が舌なめずりしながら剣を掲げて向かってくるのを目にし、立ち竦んだ。男は、狂気の如き執着を目にたぎらせ、次第に歩調を速めてリンデ達に迫り、異様な笑みを浮かべてその剣を振り上げた。とっさにリンデはふぁきあを抱く手にぎゅっと力を込め、身を捩ってふぁきあに覆い被さるように地面に伏せた。しかし剣はリンデの体のどこにも振り下ろされることはなく、次の瞬間、リンデの手前でどさりと音がした。リンデがびくっと顔を上げると、まず、目の前にうつ伏せに倒れた男と、その左の背に正確に刺さったクリスの短剣が、そして男のずっと後方に、肘をついて上体を持ち上げているクリスが、目に入った。

「リン・・・デ」

胸から滴り落ちる血で、彼の体の下の地面は赤黒く染まっていた。

「クリス・・・っ!」

リンデは跳ね起きて転がるようにクリスに駆け寄り、彼の前にひざまずいて、両手でその肩を支えた。

「ふぁ・・・きあ、を・・・」

クリスの口から鈍い音を立てて鮮血が溢れ、リンデの膝を汚した。

「喋らないで!クリス」

リンデはぼろぼろ涙をこぼしながら、血を流し続けるクリスの体を仰向けがちに腕を廻し、胸にきつく抱き締めた。ずっと二人きりの時しか使っていなかった名を、ふぁきあの前で使ってしまっていたが、全く気づいていなかった。クリスはゆっくりとリンデを見上げ、静かに微笑んだ。

「愛・・・し・・・」

クリスの体からがくりと力が抜け、リンデの膝の上に崩れ落ちた。リンデの絶叫が空気を切り裂いた。


 

 続き Fortsetzung

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