どのくらいそうしていたのか、リンデは右肩を小さく温かいものにぎゅっと掴まれ、自分がぼんやりと座り込んでいたことを知った。真っ暗な空は漂う煙に覆われ、周囲のわずかな静寂の外では炎が音を立てて踊っている。濡れた膝の上に石のように冷たく、重く圧し掛かっている体を曖昧に見遣ったリンデは、突然はっと気づいて右肩越しに振り返り、激しく後悔した。リンデの肩に幼い両手でしがみついたふぁきあが、ぶるぶる震えながら目を見開き、血溜まりの中で動かない父親を見ていた。

リンデは急いで上体を捻って右腕でふぁきあの頭を抱き寄せ、自分の肩に押し付けて目を逸らさせた。なぜかは分からないが、ふぁきあの記憶にこの光景を残させてはならないという気がした。ふぁきあが父親の非業の死を理解しているかどうかは分からない。けれどクリスはきっと、ふぁきあに怒りや憎しみを植えつけるようなことを望まないに違いない。ふぁきあには、父親が彼を愛していたことだけを―全てを賭けて愛していたことだけを覚えていてほしい。

その時再び教会の裏口の方から、荒々しい足音と異国語の罵り声、そしてそこらのものを手当たり次第にひっくり返し、あるいは叩き壊しているらしい耳障りな音が聞こえてきた。リンデははっと身を硬くし、耳をそばだてた。辺りに渦巻く煙は次第に濃くなり、建物が燃え落ちるらしい音も響いてくる。町の中心に在る教会の周囲は石や煉瓦造りの建物が多いが、屋根はたいてい板葺きか藁葺きだったし、それ以外のほとんどの建物は木造だった。火が迫ってくるのは時間の問題だ。これ以上ここに留まっていることはできない。既に夜の闇が深く降り、それでなくとも土地勘の無いリンデに好都合とは言えなかったが、闇はまた、身を隠そうとする者にとっては味方であることをリンデは知っていた。

リンデは右手でふぁきあの頭を抱えたまま、左手でクリスの肩を支えて膝をずらし、硬く冷たい体を湿った地面にそっと横たえた。穏やかな表情は見慣れたいつもの寝顔と変わらず、顔から胸にかけて真っ赤に染まっていなければ、何もかも夢だったのではないかと思えた。リンデはそっと手を伸ばし、クリスの口の周りの乾きかけた血を擦り取った。涙が零れ落ちそうになり、唇が切れるほど歯を食いしばった。今は泣いている時ではない・・・自分にはやらなければならないことがある。右腕の中で震え続ける小さな体を、リンデはぎゅっと抱き締めた。

『ふぁきあを・・・』

深く穏やかな声が頭の中に響いていた。クリスの存在を、リンデは確かに感じていた。いつも傍にいる。何があっても離れることはない。ふぁきあを両腕で抱え上げ、最愛の人の安らかな寝顔の上にかがみ込んだ。

「ずっと一緒にいるよ、クリス・・・」

片手を伸ばして少し癖の有るさらさらとした黒髪を掻き上げ、広い額を撫で、閉じた瞼へ、それから頬へと手を滑らせた。

「あなたを愛してる・・・」

堪え切れず、ふぁきあを横抱きにずらしてリンデはクリスに覆い被さり、拭いきれなかった血痕の残る唇に深く口づけた。血の味のする、冷たい、けれどリンデが全てを捧げて愛した人の―愛してくれた人のいとおしい肌。・・・離れたくない。このまま彼と共に逝きたい。リンデは唇を離すことができず、そのままくずおれそうになった。噛み締めた唇に血が滲み、クリスの血に重なる。再び彼が穏やかに促す声が聞こえた。

『希望を失わなければ・・・』

リンデは勢い良く立ち上がり、ふぁきあをしっかりと抱え直して裏木戸の方へと駆け出した。振り返らなかった。振り返れば、行けなくなることが分かっていた。
 
 
 
 
 

その日、山あいの小さな町に夜明けの鐘が鳴ることはなかった。

西の泉は、町の外れ、街道から少し離れた林の中に在り、やや窪地になっていて、外からの視線はわずかに遮られていた。東の空がうっすらと明るみを帯び始める頃、泉に沿って立つ菩提樹の根方の、丈の低い草叢に紛れるように、リンデはうつ伏せに倒れていた。腕にはわが子をしっかりと抱き、焼けただれた背に矢を受けたまま。
 
 

リンデは、彼女が思いつく唯一の安全な場所―湖畔の家を目指し、なんとかその地獄から抜け出ようと必死で頑張った。しかしあらゆる方向から怒声と悲鳴が響いてくる混乱の中で、容赦ない敵の手をかいくぐって無事に逃れおおせることなど、子供を抱えた女性にはまず不可能だった。・・・道の分からないリンデにはなおさら。

か細い腕にふぁきあを抱き上げたまま、リンデは燃える町の中を右往左往した。煙で目と咽喉を傷め、あちこちに怪我を負い、右足首を捻った。燃え落ちてきた板切れで背中が焼かれ、髪の焦げる嫌な匂いがした。だが気にしてはいられなかったし、痛みも感じなかった。丸太のように転がる死体につまづいて転んだ時は、ふぁきあを庇ってしたたかに肩を打った。死体には何も感じなかったが、生理的な反射で少し吐いた。リンデはふぁきあを胸に抱き締め、凄惨な破壊と殺戮の光景を彼の目と耳に入れさせないよう、精一杯努力した。ふぁきあは・・・目を開けてはいた。しかし、暗緑色の瞳は虚ろで何も映さず、ぎゅっと結ばれた口も何も語らなかった。

(ふぁきあを・・・)

それだけを考えて、リンデは、狂気じみた残酷さと執拗さを呈する攻撃を夢中で潜り抜けた。彼女は決してあきらめなかった。途中、燃え落ちる水車小屋の陰から飛び出して小さな橋を渡った時、二人をめがけて―かどうかは分からないが―矢が降り注いだ。リンデは体全体でふぁきあを覆ってそこを駆け抜けた。幸運にも矢はふぁきあを傷つけることはなく、また、闇が彼らの姿を隠してくれたのか、あるいは襲撃者達はもっと他の興味を惹く獲物を見つけたのか、追われることもなかった。そうして辛うじてこの泉まで辿り着いた。だが彼女はここで力尽きようとしていた。もう立ち上がることもできなかった。
 
 

ふとリンデは街道の方が再び騒がしくなってきたのに気づき、わずかに身じろいだ。一晩中続いた破壊と略奪に町は廃墟と化したが、襲撃者達の一部はまだ満足せず、更なる犠牲者を探しているらしい。明るくなればここもすぐに見つかってしまうだろう。

(ふぁきあだけでも・・・)

リンデは冷たい草叢に倒れたまま、遠くなりかける意識に必死でしがみついた。しかし腕の中のふぁきあはがたがたと震えるばかりで、一人で立つことさえ覚束なかった。

(もう少し・・・もう少し頑張れば、お兄様が来てくれる・・・)

この襲撃の報せが国境の砦に届いていないはずはない。もしかしたら兄は既に司令官として砦に赴任しているかもしれない。あの兄ならきっと、軍を率いて町を救いに来てくれる。それしか助かる望みはなかった。そう、手遅れにならなければ・・・そして、そうなる可能性は高いように思えた。リンデは苦しげに息をついた。

(クリス・・・許して・・・)

その時ふいに体温を感じさせない硬い手が肩に触れ、リンデはびくりと体を強張らせ、ふぁきあを体の下に抱き込んだ。なんとか顔を廻らせてきっと振り仰いだリンデは、驚きの声を上げた。

「エデル?!・・・どうして?」

エデルはすぐそこの地獄図が見えていないかのように落ち着き払っていた。

「こんにちは、リンデ」

リンデの問いかけに答える気はないらしく、エデルはかすかな微笑にも見える無表情な顔でじっとリンデを見ていた。それはあまりにもこの状況に不釣合いな態度だった。リンデは一瞬唖然としたが、しかしその時、閃光のようにある考えが浮かび、他の事を一切頭から追い払った。

(エデルなら・・・)

ふぁきあを助ける唯一の方法。それは・・・

リンデは湿った地面に手をつき、全身の力を込めてなんとか上体を引き起こした。そして必死の形相でエデルを見上げ、喉から掠れた声を絞り出した。

「エデル、お願い。ふぁきあを連れて行って。ふぁきあを・・・」

そこではたと考えた。自分達亡き後、ふぁきあを誰に託せば良いのだろう?最初に思ったのはザックスのところだった。が、すぐに思い直した。ザックスは明日には戻ってくるはずではあった。しかしクリスの―ふぁきあの血筋の秘密をザックスには話していなかったし、今となってはもう、打ち明ける術もなかった。それに何より、クリスがザックスにそれを言わなかったということは、彼をこれ以上、自分達が抱える危険に巻き込むことを望んでいなかったということだ。この危険を告げずにふぁきあを託すことは出来ない。となると考えられるのは・・・

(お兄様・・・)

兄ならば、何も言わずとも、ふぁきあを見て全てを察してくれるだろう。そして必ずふぁきあを守ってくれる―ふぁきあの血筋が孕む、あらゆる危険からも。
 
 

リンデは決心を固めた。襲撃者達は確実に泉の方へ近づいてきている。もう一刻の猶予も無い。

「ふぁきあを、お兄様のところへ。お願い」

エデルは無表情にリンデを、次にふぁきあを見遣り、束の間、何か遠い声を聞くように首をかしげていた。そして再びリンデに目を戻した。

「いいわ」

リンデは安堵の溜息を洩らした。背が波打ち、初めて痛みを感じた。リンデは、人形のようにただ呆然としている息子を抱え直して顔を近づけ、穏やかに言い聞かせた。

「ごめんね、ふぁきあ。お母さんも、もう行かなきゃならないの。でもふぁきあは決して独りじゃないからね?お父さんとお母さんはずっとあなたを見守ってるから。私達の命をあなたにあげる。もう、何もしてあげられないけど、ずっとあなたを愛してるから・・・」

何も分かっていないのか、それとも目の前で起こっている事を全て拒否してしまったのか、ふぁきあは何の感情も映していない暗緑色の瞳をぼんやりと見開いたまま、何も答えなかった。リンデは息子の体を包み込むように、懐深く、強く抱き寄せた。想いが温もりで伝わるように。ふぁきあが生まれてからの数多の思い出が脳裏に溢れ出した。・・・ふぁきあが初めて声を立てて笑った時、これこそ天使の声だと思ったこと。初めて「とーたん」と呼ばれたクリスが、狂喜してふぁきあを抱き上げ、狭い家中を踊りまわったこと。一人で歩けるようになったふぁきあがあちこち勝手に歩き回っては面倒を起こすので、いつも気が休まらなかったこと。そして去年のリンデの誕生日、手に真っ白な花を握り締め、泣きながら走ってきたふぁきあを抱き上げた時、肩に滲みた涙の熱かったこと。

リンデは瞳を閉じて強く祈った。

「神様、この子をお守り下さい。どうか皆に愛されて幸せに暮らせますように。そして心から愛する人に巡り合い、素晴らしい人生を送れますように」

愚かな―そして息子の幸せを誰よりも良く知っていた母親の願いは、聞き届けられることになる。ただし、ほんの短い間であったが。
 
 

再び瞼を開け、リンデは愛しい我が子の顔を見つめた。父親似の少し癖のある黒髪を撫で、限りない愛を込めて小さな額にキスを贈った。

「さよなら、私のふぁきあ・・・あなたは私達の希望の光・・・」

霞む眼でもう一度ふんわりと優しくふぁきあに微笑むと、リンデはエデルの腕にふぁきあを渡した。背後の街道の方で異国語の怒鳴り声が聞こえた。リンデはエデルに頷いた。エデルが無言で背を向けて林の中に消えていくのを見届け、リンデは最後の力を振り絞って立ち上がった。菩提樹の幹に手をつき、ゆっくりと街道を振り返る。顔は前を向いていたが、心は背後の二人を見ていた。足音は無く、気配だけが遠ざかっていく。二人を隠すように、リンデは一歩前に出た。

すると、それを待ち構えていたかのように、不吉な金切り声のような―あるいはヒステリックな哂い声のような―甲高い鳥の啼き声が響き渡った。興奮した兵士達がこちらを指差し、何かを叫ぶ。次の瞬間、無数の不気味な闇色の矢羽が飛び交い、リンデは狩の獲物の鹿のように全身に矢を浴びた。彼女の細い手が、まるで誰かが差し伸ばした手を取ろうとするかのように、一瞬、天に向けて伸ばされた。その手が虚空を泳いで落ち、華奢な体が糸の切れた人形のように地面に崩れ落ちる。あどけない暗緑色の瞳が、冷たい肩越しにそれを見届け、ふっと閉じた。兵士達が倒れた身体に駆け寄ろうとしたその時、朝の最初の光が煌き、朗々とした角笛の響きが空気を満たした。ノルドの軍隊の到着を報せる音だった。
 
 
 
 
 

くすぶった臭いの立ち込める町をとことこと歩き回りながら、幼い王子は、ふと聞き慣れない軽やかな音色に立ち止まった。頭を廻らし、通りの向こうの建物と建物の狭間に目を留めた。まだ片付け切れていない残骸等が押し込まれ、くすんだ町の中でよりいっそう濃い翳を作っている。ふいに王子は回れ右をしてそちらに足を向けた。

「王子?」

供の者達の戸惑う声にもお構いなしに、王子は白銀の髪をそよがせて小走りにその細い路地に入り込んだ。立ち止まって薄暗い路地の奥に目を凝らすと、同じ年頃の男の子が野良犬のようにうずくまっていた。王子は何のためらいも無く歩み寄った。しかし王子がすぐ傍まで来てもその男の子はただぼんやりと前を向いているだけで、虚ろな暗い色の瞳には何も映してはいなかった。よく見ると服のあちこちに乾いた血がこびりついている。だが、怪我をしているようには見えなかった。

「こんにちは」

王子は明るい声で呼びかけたが、返事は無かった。

「ぼくはジークフリード。きみのなまえは?」

ぐしゃぐしゃに乱れた黒髪の男の子がのろのろと顔を上げて王子の方を向いた。汚れてはいたが、上品な顔立ちだった。

「な・・・まえ・・・?」
「うん。なんていうの?」

王子は首を傾げ、澄んだ琥珀色の瞳で覗き込んだ。しかし男の子は再び王子から視線を外し、地面に目を落とした。

「なまえ・・・」
「わからないの?」

王子は男の子が何か言うのをしばらく待っていたが、何も答えそうにないので、また少し身を乗り出して質問を変えた。

「おとうさんとおかあさんはどうしたの?」
「お・・・とうさん・・・と、おかあ・・・さん・・・」

男の子は呟いて顔を歪めたが、そこで何か壁にぶつかったように再び無表情になり、黙り込んだ。王子を追ってきた供の者達が王子の手を引き、連れ戻そうとした。しかし王子はその手を振り払って男の子の前にしゃがみ込み、その子の顔をしばらく覗き込んでいた。そしてふいに膝を抱え込んでいる男の子の手を両手で握って言った。

「いこう」

突然自分の手を包んだ温もりに男の子は驚いた様子で、びくりと身を震わせてその手を見つめた。王子が手を引きながら立ち上がると、男の子は魔法にかけられた人形のようにぎくしゃくと立った。

「いこう、ぼくといっしょに。きみのいくべきところへ」
「王子?」

困惑する供の者達を再び置き去りにして、王子は男の子の右手を左手でしっかりと掴み、その細い路地から走り出た。男の子は頼りない足取りで、王子に引っ張られるように後をついていった。光の中へと駆け出していく彼らの姿を、奇妙な格好の若い女が無表情に見送っていたが、それに気づいた者はいなかった。


 

 続き Fortsetzung

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