「・・・リンデ・・・」いつも心に温かい光を灯してくれた音の響きが、今は鋭い剣のように胸を抉る。止めようと思うのに、唇が勝手に愛しい名を呼ぶのを止められない。消えない面影を追い払おうと、強く頭を振り、また酒を呷った。寝台に座り込んだまま、もうどのくらいそうしているのだろう。これが現実とは思えなかった。だが、どうすればこの悪夢から抜け出せるのかも分からなかった。
(忘れろ。忘れてしまえ。最初から出会わなかったと思えばいい)
無駄な努力をずっと繰り返していた。
(僕はこれまでも、これからも、ずっと独りだ。騎士として生き、死ぬまで戦い続ける)
すぐに疑問が浮かび上がる。
(戦う?何のために?)
手にした素焼きの杯の空虚さが、自分に重なった。
(未だに受け入れてもらえない祖国のために?僕を必要としてもいない国王と・・・王妃のために?)
最後の言葉にたちまち心が激しく波立ち、怒りを帯びた嘲笑を吐き出す。
(王妃だって?あのリンデが?)
あまりのバカバカしさにクリスは哂った。リンデは確かに家柄も良く、器量も美しいとは言わないまでも可憐で愛らしかった―クリスにとっては誰よりも―が、優雅さとか淑やかさといった貴族の娘の美点からは程遠く、むしろそそっかしくて落ち着きがなくて、到底王妃の器とは思えなかった。そんな可能性は全く懸念していなかった。いや、それ以前にクリスは、リンデと結ばれる運命を疑ったことがなかった。他の男に奪われるなど、思ってもみなかった。
(僕のものだ・・・っ!)
リンデの愛は、幼い頃に生地を離れて以来、何一つ自分から望んだり欲したりしたことのなかったクリスが、ただ一つ心から願い、信じたものだった。彼女に愛されていると、いつか彼女を得られると信じていたからこそ、どんなことにも耐えられた。『父』を亡くした時も、戦地で危機に直面した時も、彼女の存在がクリスに勇気を与え、クリスを救ってくれた。彼女こそが、深い闇の中でも決して消えることなくクリスを導いてくれる光、彷徨の果てに見つけ出した安らぎの地―のはずだった。
しかし運命の女神はあっさりとクリスを見限り、他の男に微笑もうとしていた。抑え切れない、昏く荒々しい感情が体の奥深くから衝き上げる。封じられていた心の底の闇が口を開き、不吉に泡立ちながらクリスを呑み込もうとしていた。
(いっそ彼女を奪って・・・)
震える手から器が落ちて床に砕け、その甲高い音にクリスは我に返った。
(バカな。リンデを不幸にする気か?彼女の心は僕にはない。今さら何をしたところで・・・)
リンデにはっきり拒絶されたことが、何よりもクリスを傷つけていた。心だけは自分にあると信じられた間は、まだ希望はあったのに。
(彼女は僕のものにはならない・・・永遠に・・・)
絶望の泥沼は底無しで、はまり込んでいくクリスを救い上げてくれる手も、もう無い。
(他の男のものに・・・)
白く細い首筋に触れる男の姿が脳裏に浮かび、反射的に寝台の脇に立て掛けた剣を掴んで扉に走り寄り―引き手に触れる直前で辛うじて手を止めた。ぶるぶると体全体が震え、剣を取り落とした。爪が食い込むほどに強く手を握り締めた。
(リンデが・・・決めたことだ)
結局、それが全てだった。クリスの苦しみがリンデの幸福のためなら、他にどうしようもなかった。崩れるように床に座り込み、転がっている瓶に直接口をつけ、残った酒を浴びるように呷る。
今にして思えば、舞踏会の時のリンデの変貌は、クリスに愛想を尽かした彼女の変化の表れだったのかもしれなかった。そういえばクリスが踊りに誘った時もひどく驚いた様子で、意外だと言わんばかりの態度だった。
(・・・あんなに幸せそうに笑ってくれたのに・・・嘘だったのか?!)
リンデが男を誑かすような女でないことはよく分かっているのに、クリスはもう何も、自分自身も、信じられなくなっていた。あれほどクリスを幸福にしてくれた笑顔も、失った今となっては幻のように思えた。
(僕の愚かな思い込みだったのか・・・)
勘違いしていたのは他の男達ではなく、自分の方―その滑稽さを哂う気力も無かった。打ちのめされて、クリスは思った。自分は悪戯な可愛い妖精に惑わされ、在りもしない愛を、未来を、夢見ていただけ・・・だが、そうだとしても、自分の中に深く根を下ろした愛しい樹の面影を消し去ることはできなかった。その優しい記憶も、心を焦がす想いも、クリスを放してはくれなかった。
(欲しい、欲しい、欲しい・・・リンデ!!)
どんなに叫んでも、足掻いても、もう届かない。
(愛している・・・)
もし、もっと早く、言葉にして告げていたら、失わずに済んだのだろうか? しかし、全ては手遅れで、二度と取り戻すことは叶わない。遂に言えなかった言葉だけがクリスの中で木霊していた。