人目を憚るように密やかな、しかしそれでいて優雅さを失わない足取りが、ひとつの奥まった部屋の前で止まった。扉を叩くが返事は無い。「クリスチャン?いるんでしょう?開けなさい。話があるのよ」
何かが床に叩きつけられて割れる音がした。エリ−ザベトは口の端を歪めて笑みを浮かべ、厳かに宣告した。
「・・・菩提樹を枯らしたくなかったら、私の話を聞いた方がいいわよ」
しばしの静寂の後、かたりと音がして扉が開けられた。クリスは、普段の姿からは想像もつかないほど髪も服も乱れていた。無精髭が伸び、顔色は悪い。
「ひどい有様だこと。あのいつも憎らしいくらい取り澄ましたクリスチャンとは思えないわね」
クリスを押し退けるようにして部屋の中に入りながら、エリ−ザベトは顔を顰め、鼻に皺を寄せた。床には陶器の破片を含めて色々な物が散乱し、空になった酒瓶が何本も転がっていた。
「・・・どういう意味だ」
「え?」エリ−ザベトは怪訝そうな顔でクリスを振り返った。
「リン・・・」
言いかけた言葉をクリスは一度切り、言い直した。
「・・・枯らしたくなかったら、とは」
「ああ」軽く頷いてからエリ−ザベトはクリスに向き直り、腕組みをして正面から見据えた。
「あなたの花が他人に摘まれるのを黙って見過ごすつもりなの?彼女はあなたを待ってるのよ」
かすかに嘲笑を浮かべてクリスは横を向き、吐き捨てるように言った。
「待ってやしないさ。彼女は・・・僕を切り捨てた」
エリ−ザベトは眉をひそめた。
「どういうこと?」
クリスは一旦口を噤んだが、すぐに捨て鉢な表情になり、投げ遣りに答えた。
「僕の願いは退けられた。彼女は僕よりも、王妃になる方を選んだんだ」
エリ−ザベトははしたなくも小さく舌打ちし、間を置かずに言った。
「バカね」
あからさまに軽蔑を籠めた声音で続けた。
「そんなのリンデの本心なわけないじゃない」
不信げな顔を上げてクリスはエリ−ザベトを見た。
「考えても御覧なさい。もし今、リンデが逃げたりしたら、彼女の家族がどんな罪に問われるか。下手をすると叛逆罪よ。命をとられる事はないかもしれないけど、身分と領地は没収されるかもしれないわね。あなたのお友達のパルシファルだって、どんな困ったことになるかしら」
クリスは愕然とした。エリ−ザベトは呆れたというように首を振った。
「それに、もし捕まればあなたは確実に死刑よ。リンデは健気にも、自分を犠牲にして皆を守るつもりなのよ。心ならずもあなたを諦め、国王に嫁いで・・・そうなればあの子の心は枯れ、笑顔も消えてしまうでしょう。かわいそうに・・・」
エリ−ザベトは上品に目元を押さえたが、瞳は濡れてはいなかった。
「リンデを救う方法は一つだけ。あの子を攫いなさい。あの子が何と言おうと、あの子を連れて逃げるのよ」
汚れた床を呆然と見つめたまま返事をしないクリスにお構いなく、エリ−ザベトは畳み掛けた。
「いい?『あなたが攫った』って分かることが重要なのよ。明後日、リンデは私の館を訪ねるわ。攫うなら、リンデが外に出た時の方が成功する可能性が高いでしょ」
聞いているのかどうかもはっきりしないクリスにエリーザベトは妖しげに瞳を煌かせて顔を寄せ、青白く強張った顔を横目で見ながら、その耳元に念を押すように囁いた。
「リンデを救えるのはあなたしかいないわ」
それだけ言うとエリ−ザベトは、長居は無用とばかりに踵を返し、床に散乱した物を上手に避けて足早に出て行った。クリスはだらりと手を垂らして床に目を落としたまま、ぴくりとも動かなかった。