楽しそうに食事しているリンデをクリスはじっと見ていた。今頃はエリーザベトからの知らせを受け、パルシファルの館は大騒ぎになっているだろう。そして今夜中には城に報告が届き、国中に追手が差し向けられ、自分は罪人として追われる身となる。しかしクリスは不思議に落ち着いていた。追われることには慣れている。それに今度は自分の意志で選んだことだ。自分には守るべきものがあり、他の誰も自分に代わることはできないし、代わらせる気も無い。クリスは生まれて初めて、自分が本当に為すべきことをしている気がした。

「おいしかった!」

それはリンデが普段口にしていたものに比べれば質素過ぎると言ってよかったが、クリスが精一杯気を遣って調えてくれた食事は―もう二度と自分に向けられることはないと思っていた優しい眼差しの中で摂る食事は―これまでに食べたことも無いくらい、ごちそうに思えた。それが、彼らの婚礼の祝いの膳であった。賑やかな宴も、祝福する人もない、貧しい食卓。しかしその瞬間、世界中の誰よりも彼らは裕福だった。

「そうか」

クリスはただそれだけ言って、微笑んだ。クリスが立ち上がり、食器を持って池に近づくのを見て、リンデも立ち上がって後を追った。池から流れ出している細い水路の縁に膝をついて食器を軽く流しているクリスの隣にしゃがみ込みながら、リンデは話しかけた。

「ここってあんまり寒くないね?外はあんなに寒いのに・・・」

リンデは食事の後片付けなどしたことがなかったので何をすればいいのか分からなかったが、とりあえず洗い終わった食器を受け取ろうと手を出した。クリスは一瞬考えるような顔になったが、黙ってその手に食器を載せた。

「ああ、かなり地下深いからな、年中だいたい同じ温度なんだ。だから夏は涼しい」
「へえ。便利だね」
「だからと言って、夏まで居る気はないが・・・」

クリスはふいに真面目な顔になり、リンデに向き直った。

「だが、騒ぎがある程度治まるまではここから出られない。何週間か・・・あるいは何ヶ月か」

クリスはリンデを促して荷物のところまで戻り、食器を片付けた。

「その間ずっと?」

少し残念そうな顔で隣に跪いたリンデの頭に手をやり、柔らかな髪を撫でた。

「すまない・・・僕は時々様子を見に出るつもりだが、君は・・・」
「えっ、クリスだけ?」

リンデが不安そうな声を上げる。クリスは宥める口調で答えた。

「二人で歩き回っては見つかりやすい。君は、外の森のところまでで我慢してくれないか? 」
「あの、入口のところの?」

リンデは、この地下通路への入口が在った、城壁の外の湖を囲む森を思い出した。

「ああ。それも夜か早朝の、ひと気の無い時だけってことになるが・・・」

クリスが申し訳なさそうに続ける。

「・・・うん、分かった。仕方ないよね」

もっと抵抗するかと思ったが、リンデは意外にあっさりと納得し、クリスはかえっていたたまれない気持ちになった。この行動は本当にリンデの為なのか、ただ自分のわがままで彼女を縛り付けているだけなのではないかと、心が揺れた。

「悪いな」
「ううん、それくらい何でもないよ。クリスと一緒にいられるんだもん」

リンデは健気にも笑顔を見せ、クリスは愛しさに胸を衝かれた。

「でも、なるべく早く帰ってきてね?あんまり長いこと一人にしないで」

微笑んで見上げるリンデの瞳の中には、心細さだけでなく、クリスの身を案じる思いが揺れていた。

「ああ」

クリスはリンデをそっと抱き寄せ、想いを込めて優しく口づけた。そのまま唇を少し開いてリンデの下唇を軽く舐めると、リンデが小さく震えて溜息を洩らした。その僅かな振動に刺激され、ついリンデの頭を引き寄せて、覆い被さるように唇を貪った。息苦しさに開かれたリンデの口を封じるように、クリスは顔を傾けて舌を差し込み、温かな口内を探って、そこに蠢く弾力のあるものに自分のものを絡ませた。

息も止まりそうな深いキスに、リンデはぼうっとしてクリスに凭れかかった。リンデの手が何かを求めて広い背中を彷徨う。と、ふいにクリスが顔を離し、リンデの腕を掴んで引き剥がした。立ち上がって背を向けたクリスに、リンデはわけが分からず、慌てて後を追おうとした。しかしクリスは無言で片手を上げてリンデを押し留め、そこで待つようにと合図した。クリスが篝火に歩み寄り、土を掛けて消す。途端に真っ暗になり、思わず小さな悲鳴を上げて身を竦めたリンデを、すぐに力強い腕が包んだ。その温もりを手繰り寄せるようにしがみつくと、クリスはしっかりとリンデを抱き返した。少ししてクリスが優しく囁いた。

「リンデ、目を開けて、周りを見てごらん」

おそるおそる顔を上げたリンデは、言われたとおりに周囲を見回して息を呑んだ。

「うわぁ・・・」

真っ暗な闇の中に点々と青白い淡い光が散らばっていた。

「コケだ」
「コケ?」
「そう、光るコケなんだ」

そう言われてもリンデにはぴんとこなかった。それはまるで妖精が羽の粉を振りかけたような不思議なものに思えた。

「きれい・・・夢の中にいるみたい・・・」
「そうだな」

目が慣れるにつれて静かな水面がぼんやりと輝き始め、傍に聳え立つ櫓が幽かな光の中に浮かび上がった。二人はしばらく黙ってその幻想的な光景を眺めていたが、やがてクリスがぽつりと呟いた。

「本当はもっとちゃんとした求婚の贈り物をしたかったんだが・・・」

驚いて見上げると、クリスはすまなそうな表情で見返した。

「何もできなくて、悪かった」
「ううん、そんなの」

たとえこんな状況でなくても、リンデはそんなことは気にもしなかったであろう。それでもクリスは、リンデの立場を尊重し、誠意の証を何かで示そうとしてくれたのだ。自分がどんなに大切に思われているか、痛いほど伝わってきた。リンデはくるりと頭を廻らせ、明るく笑った。

「それに、こんな素敵なプレゼントをもらった女の子は、きっと他にはいないよ」
「リンデ・・・」

背中に廻された腕がぎゅっと締まって少し体が持ち上げられ、クリスの頭が下りてきて、唇が重なる。羽根のように優しく擦り合わされ、そっと離れていく柔らかさが切なくて、溜息が洩れる。

「私の方こそごめんね。私のためにクリスは何もかも失くしちゃった・・・その上、汚名と危険を背負い込んで・・・」

まばたきして俯いたリンデに、クリスは即座にきっぱりと言い切った。

「僕は、君を守るために必要なもの以外は何もいらない。僕が欲しいのは君だけだ」

逞しい胸にしっかりと抱き寄せられ、強い鼓動が伝わる。リンデはその力に励まされるように顔を上げた。クリスが瞳の奥に炎を揺らめかせて見下ろしていた。

「私も・・・私が欲しいのはクリスだけ」

喉が渇いて声が掠れたが、クリスの目を見つめてはっきりと告げた。

「私をあなたの妻にして、クリス」


 

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