炎 〜Spartacus : Adagio of Spartacus and Phrygia〜
 
ふぁきあに抱き上げられて寝室に連れ戻された後、あひるは眠れるはずもなく、雨の吹き込むバルコニーにさ迷い出て、呆然と座り込んでいました。そのとき突然、口元に何か布が押し当てられたと思うと、そのまま気が遠くなり、気がついたらここにいました。あひるを攫った賊は前回あひるに逃げられて懲りたらしく、今は椅子ごと麻縄でぐるぐると縛られていました。けれど幸か不幸か、あひるは他の事で頭がいっぱいで、攫われた恐怖を感じている余裕はありませんでした。

(ふぁきあ、どうして?あたしがふぁきあを憎んでてもいいの?その方がいいの?)

「ふぁきあを、憎む・・・」

自分の爪先を見つめながら、あひるはぽつりと呟きました。あひるが戸惑っていたのは、憎むという行為に対する拒絶感だけではなく、むしろもう一つの、奇妙と言える感情のせいでした。心から憎んで然るべきふぁきあに、冷たくされて悲しいなどと感じるのは、大好きだった父親に対する裏切りのような気がしました。ふいに、あおとあの言葉が頭をよぎりました。

『・・・本当は自分がどうしたいのか・・・』

(本当は、ってどういうこと?あたしは王子様と結婚するためにこの国に来て、それで平和になってみんなが喜んでくれればあたしは幸せで・・・)

それが本当の望みであれば、ふぁきあに言われた通り、ふぁきあだけを憎んでいれば、何の問題もなく過ごしていけるはずでした。ふぁきあを失くすことが、これほど苦しくさえなければ。

(あたし、ふぁきあに嫌われちゃったのかな・・・ううん、最初から迷惑がられてたのかもしれない。きっとふぁきあは、王子の命令で、仕方なくあたしの傍にいてくれたんだ)

ふぁきあの冷たい目を思い出し、縛られた体がぶるっと震えました。

(当たり前だよね。だってあたしはふぁきあから本当の両親を奪った国の人間なんだもん。なんで今まで気づかなかったんだろう。気づこうとしなかったんだろう・・・)

あひるは泣きたい気持ちで唇を噛みました。

(ふぁきあは本当はあたしから離れたがってたんだ。友達だ、って思ってたのは・・・一緒にいられて幸せだと思ってたのは、あたしだけだったんだ・・・)

視界が滲んで歪みました。

「もう、ふぁきあと一緒にいられない・・・」

それは心を引き裂かれそうな現実でした。

(もし、始めから知ってたら・・・こんなにふぁきあを好きにならずに済んだのかなあ・・・?)

あひるは、もしかしたら在ったかもしれない過去を想像してみようとしました。けれど思い出すのは、ふぁきあがこれまで―不器用ではあっても―どれほど優しかったか、どれほどあひるのことを考えてくれたかということばかりでした。時間は逆戻りしないということを、あひるは痛いほど感じました。ふぁきあを憎んでも父親が戻るわけではなく、大切な人をもう一人失うだけだということを。

(・・・ふぁきあはふぁきあだもん。憎むなんてできないよ・・・あたしのことも嫌わないで欲しい・・・ずっと一緒にいて欲しい・・・誰よりも、ずっと、一緒にいたい・・・)

切なく軋んでいた心臓が、突然、どくんと、ひときわ大きく打ちました。

「・・・誰、よりも・・・?」

震える唇から呟きが漏れました。

「これって・・・」
 
 
 

王子とふぁきあは、半日の間まったく休むことなく駆け抜け、陽が沈み始める前には、目的の館を囲む広大な敷地に入りました。しかし、林を通り過ぎた二人が見たのは、既に煙を上げ始めている、瀟洒な漆喰塗りの木造の館でした。

(っ!・・・あひる・・・!)

ふぁきあは館の前まで駆けつけると、焦りで転がり落ちるように馬から飛び降りました。閉ざされた入口付近を、全員が同じ灰茶色のフード付きマントに身を包んだ図書の者達が取り囲み、斧や鎌で二人を阻止しようとしました。が、正直なところ、二人が手を焼くような相手ではありませんでした。ふぁきあは容赦なく切り捨てようとしましたが、ふいにためらいが生じ、武器だけを剣で切り払うと、みぞおちを剣の柄で打ち、あるいは首の後ろを殴って打ち倒しました。何人かは仕方なく切りましたが、殺すことは避けました。その時ふぁきあは、王子は以前から、余程のことがない限り相手を殺さなかったということに気づきました。手早く全員を片付け、王子は意識のある一人に近寄り、珍しく厳しい声で詰問しました。

「プリンセス・チュチュは?」

男が黙っていたので、ふぁきあは剣先を男の咽喉元にぴたりと当てました。

「もう遅い」

男は嘲うばかりで答えようとはしませんでした。その間にも煙は勢いを増し、炎が目に付くようになってきました。ふぁきあが思わず男を切り裂きそうになった時、王子がふぁきあの腕を掴んで引きました。

「時間が無い。一部屋ずつ捜そう」

走り出した王子の後に続きながら、ふぁきあは心の中で叫びました。

(どこだ?あひるっ!)
『・・・ふぁきあ・・・?』

突然頭の中に声が響き、雷に打たれたようにふぁきあは立ち止まりました。

(・・・あひる?!)
「ふぁきあ?」

急に足を止めたふぁきあを、王子は訝しげに振り返りました。

『・・・ここ・・・』

それは確かに現実のあひるが呼んでいる声で、そして、ふぁきあにだけ聞こえているようでした。聞こえないはずのものがはっきり聞き取れる、それは不思議な感覚でした。疑問を抱く間も無く、ふぁきあは声に導かれるように走り出しました。

「こっちだ」
「どうして?」
「・・・声が聞こえた」

疑うことを知らない王子を騙しているようで後ろめたさを感じましたが、他に説明のしようもなく、嘘にならない程度に短く答えて先を急ぎました。声は翼棟の二階の一室から聞こえてくるようでした。階段を駆け上がり、満ち始めた煙の中を駆け抜けている時、熱さの為か、ふぁきあの頬が赤く染まりました。その時、濃い灰色の煙の向こうに大きな錠の掛けられた扉を目にして、ふぁきあは走り寄りました。握っていた剣を振り上げて一気に錠を叩き壊し、扉を蹴破ると、中から大量の煙が流れ出してきました。ふぁきあは、しかし、中に入ろうとはせず、振り返って叫びました。

「王子、早く!」

王子はためらうことなく、煙で視界の効かない部屋に飛び込みました。
 
 
 
 
 

フードを目深に被って影のように動く人々が去り、部屋に独り残されてからどのくらい経ったのか、あひるは自分を呼ぶ声が聞こえたような気がしました。

(今の声は・・・)

しかしその声は再び聞こえることは無く、次第に部屋の中に煙が満ちてきました。死が目前に迫る中であひるが願っていたのは、もう一度あの瞳に―明るく澄んだ琥珀色の瞳ではなく、暗く深い緑の瞳に―包まれたいということでした。あひるは自分が本当は誰を望んでいるのか、本当はどうしたいのか、気がついてしまっていました。もし万一助かったとしても、それは叶えられない望みだということも。俯いたあひるの目に、胸で輝くペンダントが映りました。

(ごめんね、るうちゃん・・・あたし、もう・・・)

あひるの脳裏に、昔、るうと読んだ物語が浮かびました。囚われの姫君が、助けてくれた王子と結ばれて幸せに暮らすというお話でした。

(あたしの、王子様は・・・)

その時、先程と同じ声が、よりはっきりと頭の中に響きました。

『あひる・・・っ!』
「・・・ふぁきあ・・・?」

思わず答えたあひるの囁くような声に応じるように、その声はあひるの名を繰り返しました。あひるはつい話しかけていました。

「あたしは、ここ・・・」

明瞭に聞こえる幻の声に、あひるは戸惑いを感じながらも返事せずにはいられませんでした。たとえ幻聴でも、それを聴きながら死ねるなら、怖ろしさも和らぐ気がしました。その声が消えてしまわないように、あひるは苦しい呼吸の中、一生懸命話し続けました。心の奥深く求める人と夢うつつに呼び合う感覚に、あひるはふと既視感を覚え、そして突然、以前見た夢を思い出して赤面しました。

夢の内容も、その相手も、あひるには思いもよらない事だったので、何の意味も無いただの不可思議な夢だと自分に言い聞かせて、そのまま意識から追い出し、今まで顧みることもありませんでした。けれど、あの時にはただただ恥ずかしいだけだった夢も、本当の気持ちに気づいてしまった今となっては、あまりにも罪が深く思われました。

息も出来ないほどに抱き締められ、奪い尽くされた感覚はあひるの体に強烈に刻み込まれていて、今、再び甘い恍惚感と共に甦り、体が疼くようで、あひるは罪の意識に慄きました。あひるにとっては、心の内でそれを想うことが王子に対する裏切りであるというだけでなく、本当は王子以外の人を愛しているというだけで、既に罪でした。そして、その罪ゆえに自分は罰せられようとしているのかもしれないと思いました。

「・・・ふぁきあ・・・あたし、もう・・・ダメ・・・」

部屋の中は完全に煙が充満して息をするのが難しく、意識が途切れがちになっていました。その時突然大きな音がして、冷たい空気が流れ込んできました。あひるは、一瞬ふぁきあの声が耳に聞こえたような気がしましたが、目に映ったのは白銀の髪の美しい王子の姿でした。

「・・・王子・・・」

不思議に落胆はしませんでした。

(やっぱり、あたしは王子と結婚するんだ・・・ふぁきあじゃない・・・)

王子はあひるを傷つけないように注意しながら、椅子の背側を剣の刃で削ぐようにして素早くあひるを縛り付けていた縄を切り、あひるを腕に抱き上げました。

「ありがとう・・・王子・・・」

(王子を愛せば、もう苦しまなくて済む・・・)

哀しみと安堵があひるの中に満ちてきて、あひるは王子の腕の中で意識を手放しました。
 
 
 

入口から煙を透かして様子を伺っていたふぁきあは、王子を誘導するために声をかけました。

「王子!」

王子があひるを抱きかかえて出てきたのを見て、ふぁきあはほっと息をつきました。あひるは気を失ってはいるものの、怪我はしていないようでした。王子は笑顔で答えました。

「チュチュは無事だよ!」

ふぁきあはただ微笑み、王子を促しました。

「急ごう」

しかし入って来た主館方向は既に煙が渦巻き、火の粉の匂いがして、戻れそうもありませんでした。二人は反対側へと駆け出しましたが、そちらの大扉からも大量の煙が流れ込んできて、仕方なく脇の小部屋に飛び込みました。ふぁきあは小さな窓に駆け寄り、叩くように押し開けて覗き込むと、そこは邸の裏側で、下は簡素なアーケードになっているらしく、窓の下に木製の庇が突き出ていました。

「ふぁきあ、先に出て、チュチュを受け取って」

ふぁきあはほんの一瞬ためらった後、狭い窓を潜り抜けて庇の上に出ました。手入れされていないらしい古い粗末な庇は嫌な音を立てて軋みましたが、気にしてはいられませんでした。庇の上に立ったふぁきあの目の高さにある窓から、王子が身を乗り出してあひるの上半身を外に出しました。ふぁきあはあひるが目を覚まさないように祈りながら、まずあひるの背中を、それから脚を支えて胸に抱き取りました。続けて庇の上に出た王子にふぁきあは促しました。

「お前が先に降りろ」

王子は頷き、斜めの庇を滑り落ちないように注意して端まで行きました。ふぁきあは腕に力を入れてあひるを抱きかかえ、後に続きました。庇の端に到着した王子はためらいもせずアーケード脇の地面へひらりと飛び降りると、すぐに身を翻して、庇の端を支える柱の高い台石の上に登りました。ふぁきあは柱の真上辺りにひざまずき、あひるを庇の端に座らせるような形に横たえると、あひるの脇の下を抱えてゆっくりと降ろしました。

「もう少し・・・よし!」

王子の指示に従って精一杯身を乗り出していたふぁきあは、王子があひるの脚を抱えたのを確認し、手を離しました。王子はあひるの体を少し滑り降ろさせて肩に凭せ掛けるように抱き止め、地面に飛び降りました。それを見届けて自分も降りようとしたふぁきあの目に、傷んだ庇板の隙間越しに、下の窓から吹き出た炎が、紅蓮の大蛇のように王子とあひるを襲おうとしているのが映りました。咄嗟に王子はあひるを庇うように地面に伏せ、ふぁきあは渾身の力を込めて剣を足元に叩き付けました。古い庇は、熱で脆くなっていたためか、ふぁきあの必死の想いゆえか、壁際まで一直線に走ったヒビの部分から折れ曲がるように落ちたかと思うと、一気に崩壊して炎の行く手を阻み、王子とあひるは飛び散った火の粉を被っただけで済みました。

「ふぁきあ!」

王子は振り返って叫びましたが返事はありませんでした。あおとあが手配した兵士達が、庇の崩れる音を聞いて邸の表側から駆けつけて来ました。そして彼らの目の前で、瓦礫と化した庇はふぁきあを飲み込んだまま、消え残った夕焼けと同じ色の炎に包まれました。
 
 
 

あひるが目を覚ますと、あんぬやまりいが心配そうに覗き込んでいました。その後、王子が度々見舞いに来てくれましたが、ふぁきあは一度も姿を見せませんでした。あひるはそれを当然だと思い込もうとしましたが、それでも一度だけ、何かのついでに、ふぁきあはどうしているのか尋ねてみました。しかし侍女達は顔を見合わせて気まずそうに言うだけでした。

「今は御領地の方に帰っておられます・・・」

あひるはそれ以上訊こうとはしませんでした。
 
 
 

「こうしてお姫様は、命懸けで助けてくれた騎士のことを忘れ、王子様と幸せに・・・だが、お話はそう簡単には終わらないよ。まだまだ悲劇が足りない。さて・・・」


 
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