体の方はとりあえず回復したあひるは、中庭の噴水の脇に座り、午後の光をはじきながら絶えず流れ落ちていく水をぼんやりと見つめていました。「元気がないね、プリンセス・チュチュ」
あひるが振り向くと、王子がいたわるような優しい眼差しを向けていました。
「王子・・・」
王子はあひるの隣に座り、並んで噴水を見つめました。
「心配だね」
(心配・・・?)何のことだろうとあひるは王子の顔を見上げました。
「でも、ふぁきあは強いから。きっと大丈夫」
あひるの方を向いて笑顔を見せる王子の言葉に、意味は分からないけれども、どうやらふぁきあに関することを話しているらしいとあひるは察しました。
「あの・・・」
どうして訊く気になったのか、あひるは王子の瞳の慈しみに満ちた光に誘われるように、心に引っ掛かっていたことを口にしていました。
「ふぁきあは・・・私のお父様を殺したって・・・」
王子は少し意外そうに目を見開きましたが、すぐに穏やかな顔に戻って、静かに話し始めました。
「君の父上は勇猛な戦士だった。あの時、僕と君の父上は一騎打ちになった。僕は彼を打ち払ったけれど、止めを刺すことができなかった。その時僕は戦意を失ったが、彼はそうではなかったんだね。僕を背後から襲った彼をふぁきあが討ち取った。そうしなければ、僕が殺されていただろう」
あひるは言葉を失いました。
「君が父上を殺した相手を憎むのは分かる。けれど、今すぐでなくてもいいから、できれば敵としてではなく、ふぁきあ自身を見るように努力してみてくれないかな?君はノルドに来て、ここの人達も君の国の人達と何も違わないと気づいたと思う。憎しみを消すのは無理かもしれないけど、ふぁきあが一人の人間として、何を考え、何をするかを、見てやって欲しい。君ならきっとそれができるはずだから」
あひるは黙ってうつむきましたが、それはうなずいたようにも見えました。
優しくあひるの手を取って北の館まで送ってくれた王子が回廊を戻っていくのを見送り、あひるはふらふらと館内を歩き始めました。ふと聞き慣れた声が聞こえて、扉の隙間から覗いてみると、あんぬとまりいが針仕事をしながら話していました。
「シディニアが勝ちそうなの?それともやっぱりノルドかな」
「どうかしら?ふぁきあ様は大怪我で死にかけてらっしゃるから役に立ちそうもないし・・・」扉が軋む音がして二人がさっと振り返ると、あひるが蒼白な顔で震えていました。
「チュチュ様!」
「・・・な・・・に・・・」二人は仕事を脇に放り出して駆け寄りました。
「まぁまぁまぁ。チュチュ様ったら、こんな時だけタイミングがいいんですから」
「すみません、チュチュ様、こんなふうにお知らせするはずじゃ・・・」二人に近づこうとしたあひるは足がもつれてよろけ、二人に支えられました。あひるは両手で二人の腕をぎゅっと掴んで顔を上げ、震える声で尋ねました。
「・・・どう・・・いうこと?ふぁきあが・・・」
二人は顔を見合わせ、あんぬがためらいがちに口を開きました。
「ふぁきあ様は、先日チュチュ様をお助けする際に・・・その・・・焼け落ちた建物の下敷きになられたとかで」
「王子様方がすぐ助け出されたけど、もういつ死んでもおかしくないって重傷を負われてて、それでもしぶといことに、城に着くまでは意識が有ったんですって」明け透けに言うまりいを、あんぬは肘で小突きながら申し訳なさそうに付け足しました。
「意識を失われる前に、チュチュ様には言うなとおっしゃられたそうで、それで今まで・・・」
あひるはあんぬを遮り、からからに渇いた喉から声を絞り出しました。
「それで・・・ふぁきあは・・・?」
「それがあまり良くないらしくて・・・あれからもう三日にもなりますし」
「さすがにそろそろ危ないんじゃないかって話で、お医者様も、もう望みはないって・・・」あんぬは慌ててまりいを睨みましたが、あひるはその場に崩れ落ちました。
「チュチュ様?!」
暗闇に包まれた意識の底で、ぼんやりとした明かりが浮かび、聞き覚えのある軽やかな音色が響いてきました。
「運命を受け入れる者に幸いあれ。運命に逆らう者に栄光あれ」
「エデルさん・・・?」
「お久しぶり、あひる」いつもと変わらない、無表情なエデルの顔を見た途端、あひるは泣き出しそうになりました。
「エデルさん、どうしよう・・・あたし、どうすればいいの?あたしのせいで・・・ふぁきあが!」
ぎゅっと自分のスカートを掴みましたが、手が震えるのを抑えられませんでした。
「どうしてあたしはいつもふぁきあを傷つけてしまうの?・・・大切な・・・大切な人なのに!」
あひるは、エデルが二つの国と関わりが無い―おそらくはこの世界に何のしがらみも無い存在であることを自然に感じ取っていました。今まで誰にも言えなかった心の内も、エデルには打ち明けることができました。
「あたし、ふぁきあにひどいことした・・・ふぁきあの気持ちも立場も考えずに、勝手にふぁきあを頼って・・・なんにも知らないで、ふぁきあを責めて・・・謝りたかったのに、でも、もう遅すぎる・・・!」
「遅すぎる?」エデルは不思議そうにあひるを見返しました。
「まだ終わっていないのに?」
「でも、ふぁきあは・・・あたしを置いていこうとしてる・・・あたしを拒絶したまま・・・」あひるは肩を震わせ、涙を溜めてエデルを見上げました。
「あたし、どうすれば良かったの?ふぁきあに近づかなければ・・・ここに来なければ良かったの?」
エデルはただ僅かに首を傾げて尋ねました。
「迷子のあひる、あなたの帰る場所はどこ?」
「帰る場所・・・?」咄嗟に思い浮かんだのは、今暮らしている館でも、もちろんシディニアの城でもなく、ふぁきあの腕の温もりでした。失われてしまった安らぎに胸を痛ませながら、あひるは首を振りました。
「あたしには、もう・・・」
言いかけてあひるは、忘れてはならないことを思い出し、気まずく言い直しました。
「あたしがいるべきなのは王子のところ・・・あたしが愛するのも・・・」
「じゃあ、ふぁきあは要らない?」その残酷な言葉は、氷のように冷たく鋭利な刃であひるの心に突き刺さりました。
「ダメ!!」
悲鳴に近い叫び声を上げ、あひるは、まるでエデルがふぁきあを連れ去ろうとしているかのように、エデルの服を掴みました。
「やめて!・・・お願い・・・」
止め処なく涙が溢れ、ぽたぽたと音を立てて床に滴り落ちました。
「・・・いかないで、ふぁきあ・・・」
胸につかえていた言葉が音になって浮かび上がると同時に、心を覆っていた霧が晴れ、急に視界が開けた気がしました。自分がどうしたいのか、一番大事なことが何なのか、はっきりと見えました。
「生きて・・・生きて、幸せになって・・・ふぁきあの幸せを、あたしは守りたい。笑顔を、見たい・・・!」
あひるはうつむいたまま、両手で涙をぬぐいました。
「ほんとはふぁきあから離れるのが一番いいのかもしれないけど・・・ここから逃げることはできないから。だから強くならなきゃ。立派な妃になって、ふぁきあに迷惑かけないようにしよう。そうすればふぁきあの傍にいるのも許されるかもしれない・・・もう一度やり直せるかもしれない」
希望の光を取り戻し始めたあひるの顔を、エデルはただ黙って見ていました。
「ふぁきあは賢い人だもん。今までのことちゃんと謝って、そして敵同士でも仲良くなりたいって、きちんと話せば、きっと分かってくれる。そしたらいつか、友達・・・になれるかもしれないし、一緒に笑ったり、お喋りしたりできるかもしれない」
想いを伝えられないことに変わりは無くとも、その期待だけで充分幸せでした。あひるは涙の跡の残る顔をぐいっと上げました。まだ潤んではいるけれども迷いの晴れたその瞳は、エデルではなく、ずっと遠くに向けられていました。
「そうだ、まだ全てが終わったわけじゃない。あたしが今いるべきなのはふぁきあのところ。あたしはあきらめない。ふぁきあを、守りたい!」
あひるはぱっと目を見開きました。
あんぬとまりいが止めるのを振り切り、あひるは、中庭に面した建物の一角に在るふぁきあの部屋に向かいました。窓の閉め切られた薄暗い部屋の中、ふぁきあは、既に看病というよりは容体の変化を見守るためだけにそこにいる数人の侍女と従者に囲まれて、死者のように横たわっていました。驚く彼らを押しとどめてふぁきあに近づき、その血の気の無い顔を目にして、あひるは恐怖に震えました。もう、この世の誰もふぁきあを引き止めることはできないような気がして、胸元に当てた手を握り締めました。
(ふぁきあ・・・!)
知らず知らず手の内に握っていたペンダントが一瞬光り、カチッと音がして、辺りが静まり返ったような感覚がありました。気づくと、部屋に居た侍女達も、ついてきたあんぬとまりいも、動きを止めていました。突然、背後からしゃがれた声がしました。
「彼を助けたいかい?プリンセス・チュチュ」
はっと振り返ると、見覚えのある老人が不気味に笑いながら立っていました。
「あなたは・・・からす森の・・・」
「私なら彼を助けられる。私のお話の力を使えばね」老人が何者で、何故そこに居るのかという疑問を、その言葉が吹き飛ばしました。あひるは大急ぎで老人のもとに駆け寄ろうとしましたが、その姿はあひるが近づいた分だけ滑るように後退し、掻き消えてはまた別のところに現れて哂い続けるのでした。あひるは、老人を見失わぬよう、その奇妙な姿だけを目で追って必死に走り、つまづいて派手に転びました。
「ふぁきあを助けて!私の命と引き換えでもいいから!・・・お願い・・・」
床に這い蹲ったまま、涙で顔を汚して懇願するあひるに、老人はいかにも愉快そうに笑い、鷹揚に答えました。
「いいけどね。ただそれじゃお話が面白くない。こういうのはどうだろう?お前が引き換えに差し出すのは、真実の愛の言葉。お前は心から愛した人に想いを伝えられず、結ばれることもない」
迷う余地はありませんでした。
「ふぁきあを助けられるなら・・・」
あひるは祈りを捧げる時のように胸の前で手を組み合わせました。
「・・・それ以上は望みません」
老人はしてやったりという表情になると、どこからともなく、見たこともない大きな綴られた紙束―それは革表紙の厚い本でしたが、まだその世界に在るはずのないものでした―を取り出し、それを開いてさらさらと何かを書きつけました。
「気をつけるんだよ、あひるちゃん。愛を告げるとお前は消えてしまうよ」
そして、ニヤリと笑ってそれを閉じました。
周りは果てしない闇で、何が有るのか、あるいは無いのか、全く認識できませんでした。何も見えないのはそこが暗闇だからか、それとも目が見えていないせいなのかと、ふぁきあはぼんやりと考えましたが、どちらにしても状況は変わりそうもありませんでした。自分自身すら曖昧に感じる闇の中で、ふぁきあは何を求めるでもなく、手を伸ばしました―本当にそうできているかどうかは分かりませんでしたが。
(俺は死ぬのか・・・いや、もう死んだ・・・?)
ふぁきあはその考えを、喜ぶでも悲しむでもなく淡々と受け入れました。気懸かりなことは残っていましたが、どうしても叶えたかった、たった一つの望みのために命を払うなら、否応もありませんでした。
(王子と・・・あいつが助かったなら・・・)
あの時聞こえた声は、ふぁきあの名の音に響いてはいたけれども、ふぁきあを呼んでいたわけではなく、ただ助けを求めていただけだということは理解していました。その響きがふぁきあに、夢の記憶を呼び覚ましたのは事実でしたが、それは声の主の与り知らぬことで、ふぁきあ自身が求められていたのでないことは明白でした。それでも、結果として目的は果たせたので、別に不満はありませんでした。ふぁきあは静かに闇に身を委ね、意識が溶け込んでいくに任せようとしました。
『ふぁきあ』
突然、天上の歓びをもたらす音色と共に、眩しい、けれど柔らかな光が頭上から舞い降りてきたのを感じました。
『・・・ふぁきあ・・・いかないで、ふぁきあ・・・』
それは二度とふぁきあを呼ぶはずのない声でした。明るい輝きに包まれて、ふぁきあは重い瞼をどうにか持ち上げ、うっすらと目を開きました。霞んだ視界に映ったのは、自分を覗き込んでいる白い小さな顔でした。
(・・・またか・・・)
懲りもせずに手の届かぬ人を夢見る自分を蔑み、ふぁきあはすぐにまた目を閉じました。
『ふぁきあ?・・・』
夢とは思っても、焦がれ続けた声の響きは甘く、胸をくすぐられるようで、もう少し聴いていたいとふぁきあは願いました。
(このまま死ねるなら・・・)
『・・・ふぁきあ・・・』願いに答えるかのように繰り返される呼びかけを、ふぁきあはうっとりと聞いていました。が、ふと、そっと自分の頬を撫でる小さな手のような温もりに気づきました。
『ふぁきあ、答えて・・・』
切なく呼びかけてくる声は、幻とは思えない強い力でふぁきあの心を惹き寄せ、それに応えずにはいられない気持ちにさせました。
『戻ってきて・・・お願い・・・』
ふぁきあは今度こそしっかりと目を開いて、声の主を視界の中心に捉え、その、涙を湛えた大きな青い瞳と見つめ合いました。
「・・・あ・・・ひ・・・?」
声は掠れ、語尾は消えてしまっていましたが、あひるには届いたようでした。
「良かった・・・ふぁきあ・・・」
あひるは、辛うじてそこだけ包帯の巻かれていないふぁきあの左手を握り、頬を摺り寄せて、その手を濡らしました。
「死なないで・・・もう他に何もわがままは言わないから・・・お願い、生きていて・・・」
ふぁきあはほとんど動かない手に何とか力を入れ、命を捨てても守りたいと願った人の手をそっと握り返しました。
歯車の闇に戻った老人は、脱いだものを帽子掛けに掛けながら、その情景を見て、鼻先で哂いました。
「願いが叶って良かったね、あひるちゃん。でも本当にその方が良かったのかな?」