拘束 〜Symphony No. 7 : Finale. Allegro〜
 
辺りはまだ白い靄に包まれていましたが、小鳥達はいつもどおり賑やかに囀り、そろそろ人の動き出す気配がしていました。ふぁきあは一晩中、今にも開きそうになる心の扉を押さえつけ、眠れないまま城内を歩き回った挙句、芯まで濡れて冷え切った体で自室に戻ろうとしていました。人目につかないうちにとは思っていたものの、体が凍えているせいなのか、それとも心が凍えているせいなのか、足が重く、なかなか前に進めませんでした。ようやく自室のある建物の回廊に辿り着き、静まり返った戸口を見やってふっと息をついた途端、木製の扉がかすかに軋んで、人影が姿を現しました。ふぁきあが一番会いたくなかったその人物は、回廊に歩み出ながらゆっくりと辺りを見回し、ふぁきあを見つけて足を止めました。ふぁきあは黙って凍りつきそうな一瞥をくれてその脇を通り抜け、戸口から中へ入ろうとしましたが、あおとあが話しかけてきました。

「ひどい有様だな。・・・彼女とは話したのか?」

ふぁきあはついかっとして振り返り、かすれた低い声で鋭く言い返しました。

「俺はあいつに二度と近づかない。お前の望みどおりだ!」
「何を言ってる、僕は・・・」
「あの・・・あおとあ様、ふぁきあ様!」

回廊のすぐ下の中庭からおずおずとかけられた声に、二人は同時にぱっとそちらを見ました。そこには、明らかに―二人の険悪な様子にも構ってはいられない、と言わんばかりに―焦った様子のあんぬが、不安げに両手を揉み合わせながら立っていました。あおとあは軽く咳払いしてからあんぬを見下ろして尊大に返事をしました。

「なんだね?」
「お二人は今朝チュチュ様をお見かけにはなりませんでしたか?いつもは朝までぐっすりお休みになってますのに、今朝は起こしに行った時にはもうお姿が見えなくて・・・」

ぴくりと反応したふぁきあを牽制するようにちらっと視線を投げ、あおとあは言いました。

「また勝手にその辺を散歩しておられるのではないのか?」
「ええ、でも、どうやらお寝みになられた御様子が無くて・・・もしかしたら夜中に抜け出されて、そのまま戻っておられないんじゃないかと」
「なんだって!」

あんぬに詰め寄りかけたふぁきあの前に、あおとあは素早く体を割り込ませました。そうしてさっと辺りに目を走らせると、確かにあひるの侍女達がそこかしこを慌しく探し回っているようでした。

「分かった、僕達も探してみよう」
「そうですか。・・・あの、王子様にも申し上げた方がいいでしょうか?」
「・・・いや、無闇に御心配をおかけすることもあるまい。王子にはまだ言わないように」

少しだけほっとした表情で頷き、別の場所を探しに行ったあんぬを見送り、あおとあがふぁきあに目を戻すと、ふぁきあは何も目に入らないといった様子で俯いて震えていました。

「あいつ、どこに・・・城から抜け出したのか?俺のせいなのか・・・?」

あおとあは鬱陶しげに顔を顰めてから、厳しい表情になりました。

「彼女が城を出てどこに行くというんだ?たぶん自分の意思でいなくなったわけではないだろう」

弾かれたようにふぁきあが顔を上げました。

「まさか、また・・・!」
「結婚式の予定が早まったので、焦って行動に出たというところだな」

(王子があれだけはっきり意思を示し、重臣団の方針も決定してしまった以上、今さらという気はするが・・・何か彼女自身に恨みでもあるのか?)

疑問は残りましたが、プリンセス・チュチュが再び誘拐されたのはほぼ間違いないようにあおとあには思われました。

「くそっ、俺が目を離さなければ・・・なんで俺はいつもこう・・・!」

顔色を変えて駆け出そうとしたふぁきあの袖を、かろうじてあおとあは捉えました。

「待て、ふぁきあ」
「放せっ!!」

ばっ、と、あおとあの手を振り払ってふぁきあは叫びました。

「俺にできるのは、もう、あいつを守ることだけなんだ!邪魔するな!」
「邪魔する気はない。だが闇雲に探してどうする」

落ち着き払った態度を崩さないあおとあを、ふぁきあは険しい目つきで睨みつけました。

「何か手がかりがあるのか?!」
「手がかりと言えるかどうか・・・」
「あおとあ!」

もったいぶって言葉を濁すあおとあの襟元をぐいと掴んでふぁきあは詰め寄りました。あおとあはそのふぁきあの手を片手で撥ね退けるように押し、ふぁきあが手を離すと、しようがないなと言いたげに一つ溜息をついて、乱れた襟元を直しながら説明し始めました。

「国境の田舎町とは違う。ここは警備の厳重な城の中だ。ということはつまり・・・」

ふぁきあがはっと息を呑みました。

「つまり、この城の中の誰かが糸を引いている?そういうことか?」
「・・・」

どう言ったものかというふうに顎に手を当てて考え込んだあおとあを、ふぁきあはもどかしげに急かしました。

「なんだ?心当たりがあるのか?教えろ!」

あおとあは判断に迷っている様子で、ためらいがちに話し出しました。

「君が言っていた国境近くの古い山荘だが・・・あれは20年近く前に亡くなった先代の国王が使われていたもので、今は放置されている。王家の人間以外、思い出す者もほとんどいないだろう。賊が勝手に入り込んだのだろうと思っていたが・・・」
「まさか、国王陛下が?!」

ふぁきあは自分の推測に驚いて叫びました。あおとあは真っ直ぐふぁきあを見返し、慎重に答えました。

「確証は無いが、伺ってみるしかないな」
「・・・あいつに危害を加えようとするなら、誰であろうと許さない」

硬い声で呟いて左手で剣の鞘口をぎゅっと掴んだふぁきあを見て、あおとあは溜息混じりに言い渡しました。

「君は黙っていたまえ。僕がお尋ねする」
 
 
 

二人は足早に王の私的な部屋のある一角に向かいました。病の王はほとんどそこから出ることなく過ごしているはずでした。ふぁきあは走ってはいませんでしたが、あおとあは息を切らしてついて行くのがやっとで、ふぁきあがふいにぽつりと呟いたのも、危うく聞き逃すところでした。

「・・・あいつは普通の女の子なんだ。お喋りが好きで、きれいなものや可愛いものが好きで、踊ることが好きな・・・」

(僕から見れば充分変わってるが、君から見ればそうなんだろうな)

と、皮肉の一つも言いたいところでしたが、あおとあは、息が上がっていたせいもあり、黙って聞いていました。

「・・・家族を失くして、故郷からも遠く引き離されて寂しがっている、ただの女の子なんだ。あいつが、こんな目に遭わされなきゃならないような何をしたというんだ・・・?」

あおとあはふぁきあを納得させられるだけの答えを持っていませんでした。
 
 
 

王の居室の入口で取次ぎに出たのは、王と王妃お気に入りの、見事な長い金髪と澄んだ萌黄色の瞳を持つ、淑やかな侍女でした。あおとあは上がった息を整えてから、王と王妃に直接話したいことがある旨を告げました。そしていつも通りすぐに中に通されると、内々の話だからと侍女達を下がらせました。

「どうしました、あおとあ?王子に何か?」
「王子ではなく、王子妃です」

あおとあの伯母でもある王妃が親しげな調子で尋ね、あおとあは端的に答えました。王と王妃が落ち着き無く顔を見合わせるのを見て、あおとあはの疑いは確信になりました。

「御存知のことをお話しいただきたいのですが」
「なんのことやら・・・」
「早くお話しにならないと、そこの短気な騎士が何をするか分かりませんよ」

あおとあは壁際に立っているふぁきあを視線で示しました。左手で鞘を押さえて右手を剣の柄に掛けるふぁきあを見て、王はうろたえました。

「ローエングリンは王家に忠誠を誓った騎士ではないか」
「こいつの忠誠心は王子に対してのみです。王子の意志に反することをなさるなら、たとえ陛下でも容赦はしないでしょう」

あおとあの冷然とした口調に、王妃が慌てた様子で早口に答えました。

「これは王子を守るためなのです。シディニアの姫は物語の呪いを運んで来る。彼女の存在は消し去られなければなりません」

剣を抜きかけたふぁきあを片手をあげて抑え、あおとあは尋ねかけました。

「それはどういう・・・」
「父上、母上。どういうことです?」

突然、部屋の入口の方から声がして、全員の視線が集まる中、王子が姿を現しました。先ほど部屋から下げられた侍女達が、あおとあ達-―特にふぁきあの様子がおかしいと感じて、王子に知らせたのでした。

「王子!」
「来ていたの?」

驚きの声を聞き流し、王子はあおとあに向かって訊きました。

「チュチュに何かあったんだね」

あおとあは正直に答えました。

「今朝・・・いえ、昨夜から行方不明です」

王子は厳しい表情で両親を見つめました。

「どういうことです」
「この婚姻を知った図書の者が来て、そう言ったのだ。そうしなければ王子に物語の災いが降りかかると」
「王子が生まれた時からずっとそうやって彼らが物語を管理してきたのです。物語が危険な方に進まぬように」

王と王妃は口々に王子をなだめようとしました。

「図書の者・・・物語・・・」

あおとあは話の成り行きが理解できず、当惑していましたが、王子とふぁきあはなぜか、たいして驚いた様子はありませんでした。王子が重ねて両親に問い質しました。

「それで?チュチュをどうしたのですか」
「それは図書の者しか知らない」
「私達は便宜を図ると約束しただけで、彼らが実際に何をしているかは知らないのです。本当に」

王と王妃は少し青ざめ、震えてはいましたが、訴える眼差しは真剣で、嘘をついているようには見えませんでした。これ以上ここで訊き出せる事は無いと悟った王子とふぁきあ、それにあおとあは、顔を見合わせるとすぐさま踵を返しました。

「何をするつもりです?!」

悲鳴のような声が、部屋を出ようとする三人の背に追いすがりました。王子とあおとあが立ち止まり、振り返りました。

「僕のやるべきことを」

王子が静かに告げ、二人もふぁきあの後を追って急ぎ足に立ち去りました。
 
 
 

古めかしい図書館の薄暗い司書室に踏み込むなり、ふぁきあは、机の向こうに座っていた小柄な男の胸ぐらを掴んで締め上げました。あおとあも止めはしませんでした。

「プリンセス・チュチュをどうした。あいつは今どこにいる。早く言え!」

男が目深に被っていたマントのフードがぱさりと後ろに落ち、初老の男は苦しげに顔を歪めました。落ち着いた足取りで入ってきた王子が、静かに、しかし厳しい声で男に命じました。

「国王から話は聞いた。君達の仕業だということは分かっている。正直に話してくれ」

足が床から離れそうなほどふぁきあに締め上げられながらも、男はかすれた哂い声を漏らしました。

「我等は使命を果たしたまで。物語の災いがもたらされぬようにするのが我等の勤め。シディニアの姫は、物語を動かす・・・ドロッセルマイヤーが書いた物語を」
「ドロッセルマイヤー?」

どこかで聞いたことがあっただろうか、とあおとあは思いました。あおとあが何かを思い出そうとするようにわずかに眉をひそめて首をかしげたのに目を留め、図書の者は―ふぁきあに襟元をつかまれたまま―したり顔でぎょろりと目を動かしました。

「王と王妃の頼みで、ドロッセルマイヤーが王子の物語を書いた。勇敢で美しい王子が、全ての者を守り、全ての者から愛される物語。奴が書いたことは全て本当になった―なんという恐ろしい力、っ!」

いらついたふぁきあの締め上げる力が強くなり、図書の者は言葉を切らし、枯れ枝のような手でふぁきあの手を掴んでじたばたともがきました。

「ふぁきあ」

王子に促されてふぁきあは少し手の力を緩め、図書の者は咳き込むように息をつきました。突拍子もない話にあおとあは戸惑っていましたが、王子とふぁきあに全く動じた様子が無いため、あおとあも黙っていました。

「物語の王子には、生まれながらに困難な敵との戦いが運命づけられていた。その忌まわしい続きが紡がれるのを避けるために、我々が物語を止めた。物語を封印し、ドロッセルマイヤーを消し去って・・・」

再びふぁきあの手に力が籠もり、図書の者はあたふたと早口に続けました。

「物語が再び動き出せば、定められた運命のままに、王子には大烏との苦しい戦いの日々が始まる。そうなればいずれ王子は、物語が与えた禁断の力を使うことになるかもしれぬ。自らの心臓を砕き、大烏を封印する力を」

ふぁきあとあおとあは、はっとして王子の顔を見ましたが、王子は表情を変えませんでした。

「物語が進むのは阻止せねばならない。プリンセス・チュチュは葬り去られなければならないのだ」
「貴様・・・」

王子は図書の者の言葉を意に介する様子も無く、ふぁきあの手を片手で抑えて尋ねました。

「それで、チュチュは?」

苦しそうにもがきながら、図書の者はついに観念した様子で、途切れ途切れに言葉を漏らしました。

「・・・王領の、東の外れにある、王妃の別荘に、連れて行った」
「丸一日かかるな。急ごう」

王子はふぁきあに言いましたが、ふぁきあの手が離れて床に座り込んだ図書の者は、咳き込みながら嘲笑を浮かべました。

「もう遅い。日没と同時にプリンセス・チュチュは焼き殺される。最後の陽の光と共に闇の中に消えるのだ」

王子とふぁきあは顔を見合わせ、走り出しました。王子は去り際、あおとあの横を走り抜けながら言い残しました。

「後を頼む、あおとあ」

首を廻して二人を見送ったあおとあは、図書の者に向き直りました。ふぁきあはかなり乱暴に締め上げていたらしく、図書の者はまだ咳き込みながら床にうずくまっていました。

「だ、そうだ。僕は年寄り相手に手荒な真似はしたくないのでね。おとなしくここに監禁されていてくれ」
 
 
 

王子とふぁきあは、人を呼ぶ時間も惜しんで、自分達で馬の支度をしました。ふぁきあは焦燥で気が狂いそうになりながらも、王子があひるのことをどう思っているのか、気にかけずにはいられませんでした。王子は先程の話を聞いても特にプリンセス・チュチュに対する態度を変えたようには見えませんでしたが、それでも二人の間にほんの少しのわだかまりもあって欲しくないと、ふぁきあは思いました。二人の翳りのない幸せだけが、今のふぁきあの望みでした。王子に続いて馬を厩舎から引き出しながら、ふぁきあは王子に言葉を掛けました。

「俺も大烏と闘う。俺が必ずお前を守るから・・・だから余計なことは気にするな」
「ありがとう、ふぁきあ」

振り返った王子は、ただ穏やかな笑顔で感謝を述べただけで、その心の内までは分かりませんでした。二人は二羽の鳥のようにひらりと相次いで馬にまたがると、並んで走り出し、城門を出て町の中をあっという間に駆け抜け、城砦の北東門から飛び出しました。


 
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