五月



 

この峠を登り切れば教会の塔が見える。

彼は歩きながら、金色の毛に覆われた太く硬い腕を上げ、捲り上げた袖で額を拭った。五月終わりの明るい陽射しが地面にまだらの影を落としている。木々の間を縫って心地良い風がそよいでいたが、半日山道を歩いてきただけで体が汗ばんでいた。かすかに溜息が洩れる。今朝までは気分が高揚していたのに、町に近づくにつれ、足取りが重くなってきた。だが足は止めなかった。
 
 

彼の故郷の町は、国境に近い山あいの町だった。それほど大きな町ではないが、山二つばかり越えたところに在る主要な砦の一つに向かう街道沿いに位置し、さらに近くには国王がよく滞在する山荘も在ったので、そこに出入りする人間などでそれなりに賑わっていた。
 
 

町は遠目には全く変わっていないように見えたが、いざ辿りついて中を歩いてみると、どこか違和感を覚えた。ただ単に歳月の空白に起因するものとは違う、その何かが、以前はそこかしこで目についた兵隊達の姿をほとんど見かけないせいだと気づくのに、それほど時間はかからなかった。町の中心部、と言っても、広場と昔ながらの水飲み場があるきりのささやかなもの―と感じるのは、色々な町を見てきたせいなのだろうか―を通り過ぎるまでの間に、何人かの住人とすれ違った。そのほとんどは顔見知りだったが、案の定、誰も彼に声をかける者は無く、遠巻きに彼の方を見てひそひそと囁き交わすだけだった。彼は無視を決め込み、ひたすら町の反対側のはずれにある小さな家を目指した。
 
 

あれから八年も経っている。家はその間ずっとほったらかしだった。どんな有様になっているだろう・・・もし残っているとすれば、だが。
 
 

その時、横の路地から声が掛かった。

「よぉ!珍しいヤツがいるじゃねぇか!」
「・・・シュテフ」

シュテフと呼ばれたひょろりとした男は、良く似た蜂蜜色の巻き毛の幼女を腕の中で抱えなおし、そばかすだらけの人懐こそうな顔をほころばせて、足早に近寄ってきた。

「てっきりもう帰ってこねぇものと思ってたぜ」
「そりゃ残念だったな」

彼ががっしりしたあごを突き出してそっけなく言い返すと、シュテファンは陽気な高笑いを上げた。腕の中の女の子がびっくりしてぐずりかけ、シュテファンは手馴れた様子で子供を軽く揺すり上げてあやした。あのシュテファンが。地主の家の甘ったれたごくつぶし息子で、仲間内でも一番軽薄で無責任だったあいつが。彼の驚きが伝わったのだろう、シュテファンが気恥ずかしげな笑みを見せてうなずいた。

「お前らといろいろ悪さして遊び回ってた頃から考えると、信じられねぇだろう?俺もあれから女房をもらってな、今じゃすっかり落ち着いちまった。だが、あれだな、結婚てのはいいもんだな・・・」

言いかけてシュテファンはしまったという顔になり、片手で口を押さえた。彼はニヤリと笑い、シュテファンの、女の子が乗っていない方の肩を、ごつい人差し指で突いた。

「ああ、そうだよ。お前にもやっとそれが分かったか」

シュテファンはちょっと気まずそうに笑い、肩をすくめた。

「それで?お前は?兵隊をやめて帰ってきたのか?」
「ああ。いいかげん、ケリをつける頃合だと思ってな。もっとも、まず第一に、家がまだあるかどうか確かめなきゃなんねえが」

シュテファンが眉を上げた。

「お前の家?もちろんちゃんとあるさ。山のじいさんがしょっちゅう来て、様子を見てたからな」
「じいさんが?」

ひどい人間嫌いで、めったに町にも近づかなかったのに?

「なんだ、知らなかったのか?そういや最近はちっと具合が良くねぇらしいな。ここんとこ見かけてねぇ」

考え込むような表情になった彼を見て、シュテファンは口早に言った。

「俺の家は覚えてるだろ?今度寄ってくれよな」
「ああ、もちろん」

彼らは曲げた腕を突き出して軽く打ち合わせて別れた。
 
 

家はあった。シュテファンが言っていた通り、彼が出て行った時と何も変わっていないように見える。もっとも出て行く時は振り返りもしなかったので、家がどんな状態だったかなど覚えていないが。覚えているのは、その少し前・・・彼が人生で一番幸せだった頃の姿だった。
 
 
 

彼が家の前の小道に入るか入らないうちに扉が開き、彼女が顔を出す。

「帰ってきた!」

小鳥の歌うような声、花がほころぶような笑顔に、胸が高鳴る。

「待ってたよ。嬉しい!」

ふっくらしたお腹に似合わぬ軽やかな足取りで歩み出た彼女が、柔らかに腕を差し伸べる。返事をするととんでもない声になりそうなので、彼は黙っている。駆け寄って抱き締めたいのをぐっと抑え、大股に彼女に近づく。そして・・・


 

 続き Fortsetzung

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